16.
「は……い?」
アラセリスの心臓が嫌な音を立てた。
(私、マリアンネとして手紙を書いたことなんて一度もない……)
証拠が残るものは徹底的に避けていた。アラセリスが義兄に命じられていたことは、夫であるリーンハルトに恋をしないこと。子供を作らないこと。そしてマリアンネの痕跡をできる限り残さないことだった。
コリンナの手紙の横に置かれたものは、婚姻式に提出した婚姻届だった。マリアンネ・ラシェル・カロンの名前で署名をしている。
「マリアンネのフルネームだけでもそれなりに文字数はある。君が代筆した手紙と見比べてみようか。君が書く文字はほとんど癖がないと言えるほど綺麗だからこそ、印象に残りやすい。先日俺の目の前でメッセージを書いてくれたな。それと見比べることもできる」
背中に汗が流れている。予想外の展開に巻き込まれていて、アラセリスは声が出せそうにない。
(なにか、記憶をなくすような道具はなかったかしら。忘却の薬とか、便利なやつ!)
アラセリスの私物のポシェットに、そのような効果があるスプレーボトルがあったかもしれない。だが、訓練をしている副団長相手に下手な真似などできるはずがない。
この場はしらばっくれるしかないだろう。アラセリスは哀れみの表情を浮かべる。
「お可哀想に……殿下はお妃様を亡くされた悲しみで、そう思いたくなってしまったのですね」
「違う。然るべき機関で筆跡鑑定を出したと言っただろう」
「それではなんですか? まさか私がマリアンネ妃の生まれ変わりだとでも?」
「……っ」
リーンハルトの眉間に深い皺が刻まれた。不快感ではなく、彼自身も荒唐無稽なことを言っている自覚があるのだろう。
「違う、そうじゃない。生まれ変わりだなんて思っているわけでは」
「そうですよね、安心しました。私はマリアンネ妃より年齢も上ですし、共通点は殿下が言う、文字の書き癖がそっくりというだけですね」
なにより見た目が違う。声だって、マリアンネのときは意識的に若くて可愛い声を作っていたため、今の方が落ち着いて聞こえるはずだ。
「殿下はきっと悲しみの淵から這い上がるために、私になにかマリアンネ妃の面影を重ねてしまっているだけだと思います。ですが私はただの平民です。本来であれば王族や貴族の皆様と、こうして話せるような身分でもありません」
リーンハルトは足を組み替えて、深く息を吐きだす。
「君とマリアンネの外見が似ても似つかないことはわかっている。それでも俺の頭と心が、君がマリアンネと無関係ではないと言っている」
「……差し出がましいようですが、少し休まれた方がよろしいのでは? 働きすぎなんだと思いますよ」
平常心を装いつつも、心臓がバクバクしている。リーンハルトはどうやら野性的な直感を頼りにしているところがあるらしい。
肌感覚で違和感を覚えているのだろう。こういうものはとても厄介だと、アラセリスの本能が警戒を強めていた。
ここはきちんと再認識させた方がいい。アラセリスは残酷な事実を告げる。
「殿下、マリアンネ妃はお亡くなりになりました。葬儀も終わらせたではありませんか」
「そうだ、葬儀は行った。だが後日確認したら、マリアンネの棺は空だった」
「……っ!?」
(嘘……! まさか、お墓を暴いたの!?)
そんな非常識なことをする人だとは思ってもいなかった。最新の注意を払い、アラセリスは雪の日の夜に竜王の従者に助けられたのだ。
雪が証拠を覆い隠してくれていたはずだ。それともなにか気になる痕跡があったのだろうか。
「それは一体、どういう? なぜ、棺が空だと」
「俺は毎朝、マリアンネの墓参りをしていた。天気が優れない日も欠かさずだ。だがあの日の朝、雪の積もり方が僅かながら均一ではなかったことに気づいた。職業柄、違和感は無視しないようにしている」
直感に従い墓を暴いたら、マリアンネの亡骸は消えていた。誰かに連れ去られた可能性が高いが、一体誰がなんのために? と、疑問が尽きないらしい。遺体が目的であれば、棺ごと運び出した方がいいはずだ。
「カロンの国王は知らなかった。嫁いだ娘の亡骸も見ていないと。それどころか我が国に賠償金を要求してきたが、それは当然ともいえる。王女が嫁いで三か月で亡くなるなんて、他殺を疑うだろう」
(もしかして他殺の噂を流しているのはカロンってこと? でも、カロンの国王夫妻は本物のマリアンネ様が竜族の王に嫁いだことを知っているのに……いえ、でも、あの人たちならやりかねないかもしれない)
大国と利害関係が一致する誓約を交わしながら、なお金銭を要求するような浅ましさを否定できない。義兄から聞かされていたカロンの国王は金にがめつく小心者で、とても為政者としての器ではない印象だった。
アラセリスの良心がズキズキ痛む。まさかマリアンネが死んだことで、カロンがお金を要求するとは考えていなかったのだ。
「ではカロン王国も無関係となると、他の方がマリアンネ様を攫ったことに……」
早くこの話題を終わらせたい。非常に心臓に悪い。
(当初の予定では、ちょうどいい遺体を私の身代わりにして棺に入れるはずだったんだけど、見つからなかったのよね……それでよかったってホッとしたわ。だって身元不明の遺体に幻影魔術をかけるなんて、やりすぎだもの)
常識的に考えて、誰も棺を暴かない。
そう思っていた結果がこれだ。頭痛がしそうである。
「もしくは、マリアンネが蘇ったか」
「え……?」
顔を上げたリーンハルトの目は、なにかを訴える眼差しをしていた。
吸い込まれそうなほど真っ直ぐ目を見つめられて、アラセリスはしばし呼吸を忘れそうになる。
「バカげていると言いたいんだろう、わかっている。俺だって他の者がそんなことを言いだしたら精神病を疑うし、今すぐカウンセリングに行けと言う。だが、もうそうとしか思えないんだ。君を前にしたら余計に」
「……っ! か、帰ります!」
アラセリスは慌てて席を立とうとした。これ以上は危険だ。ずっと頭の中で警戒音が鳴り響いている。
だが膝を負傷しているアラセリスよりも早く、リーンハルトが動きだした。
彼はアラセリスが座る長椅子の後ろに回り、青みを帯びた髪をひとつかみする。
「なにを……」
「知っているか。君のうなじには、頸椎に沿うようにほくろがふたつ並んでいる」
トン、と指先が首の裏に触れた。その瞬間、アラセリスの身体がぞわっとした。
(待って、私……知らない。そんな事実は)
アラセリスが肌身離さず身に着けていたのは、幻影魔術がかけられた指輪だけ。マリアンネの実母の形見だと偽り、ずっと嵌めていたものである。それをつけている限り、アラセリスの外見はマリアンネに見えていたはずだった。
だが、身体的な特徴はアラセリスのままだ。幻影魔術は顔と髪をマリアンネに見せるだけである。
「マリアンネのうなじにも、君とそっくりなほくろがふたつ並んでいた。……なあ、教えてくれ。これは偶然か? どうして君たちはそんなに似ている?」
「……っ!」
口内の水分が蒸発したみたいだ。喉が渇いて声が出せない。指先一本動かせそうにない。
(これは作り話かもしれない。でも、私にほくろがあるら、確実にマリアンネ様のときにもあったはず)
髪をいつ上げていた? すべてをまとめていたことはあっただろうか。
記憶を遡ろうとするが思い出せず、居心地の悪い焦燥感だけを募らせる。
「他人の空似では……」
ようやく出せた声はかすれていた。両手はじっとりとした汗をかいている。
リーンハルトの手が優しくうなじを撫でる。このまま首を掴まれたら、アラセリスはどうなってしまのだろう。
彼の吐息がうなじにかかる。はあ、と吐き出した声は震えているように感じた。
「……頼むから、頷くだけでいい。君がマリアンネだと認めてくれ」
「……っ」
そんな弱弱しい声で懇願しないでほしい。無条件で頷きたくなる。
(ダメ。絆されたらいけない)
認めるわけにはいかないのだ。たとえここで首を絞められたとしても、アラセリスはもうマリアンネには戻れないのだから。
「いいえ、できません」
嘘はよくない。本当はもう、これ以上嘘を重ねたくはない。
けれど、彼の中から完全にマリアンネを消すために、アラセリスは無慈悲な声で否定した。




