15.
(この人はなにを言ってるの……?)
アラセリスとマリアンネはまったく似ていない。マリアンネのときにつけていた指輪も当然今は身に着けていない。
他に身元がわかるものはないのだ。同一人物だと証明できるはずがないだろう。
「他に怪我人はいるか?」と、慌ただしい声が響く。路地にいるリーンハルトの存在に気づかれたら厄介だ。
「悠長に話し合いはできないな。先に膝の手当てをしよう」
身体を支えられた。擦り傷とはいえ、膝を負傷したまま現役の騎士を振り切って逃走するなんて不可能だ。
「私に拒否権は」
「あると思うか?」
リーンハルトは馬車の事故を部下に任せて、アラセリスを騎士団の馬車に乗せた。そのまま詰所へ連行するつもりらしい。
真向かいで座っている間、彼はアラセリスから視線を逸らさない。まるで獲物を吟味しているかのようで、アラセリスは身動きひとつできずにいた。
(空気が重い。少し買い物がしたかっただけなのに、どうしてこんなことに)
膝にハンカチを巻いている。白い布に血が滲んだが、もう出血は止まっているだろう。だが鬱陶しい痛みを無視はできず、ため息が零れそうになる。
もしもマリアンネが怪我をしたら、彼はすかさず彼女を抱き上げて一歩も歩かせなかったに違いない。甲斐甲斐しく世話を焼いたはずだ。誰が見ても、彼は献身的に妻を思いやっていたから。
けれど今は赤の他人である。
リーンハルトはアラセリスに手を貸さず、自力で馬車に乗れと命じた。当然だと思う反面、複雑な気持ちにもなってしまった。
(私、この人といると無意識にマリアンネ様と比較してるわ)
マリアンネが相手だったら……などと思いたくはないのに。感情がうまく割り切れていないのだろう。自分の未熟さに嫌気がさして、早く寮の部屋に戻りたくなった。
詰所に到着すると、そのまま医務室に連れて行かれた。消毒液を借りるだけでよかったが、アラセリスは念入りに診察されることになった。
「小さなかすり傷でも侮ってはいけない。菌が入ったら大変だからね」
そう医師に言われ、素直に忠告を聞き入れる。膝に包帯まで巻かれて少々大げさだと思ったが、これも必要な処置なのだろう。
アラセリスが治療を受けている間、リーンハルトは扉の外で待機していた。彼の方は本当に無傷だそうだが、なにかしら責任を感じているのかもしれない。言葉にせずとも気にかけてくれているようだ。
(私はただの平民なのに、こんな特別扱いなんてよろしくないのでは? 変な噂になったら大変だもの)
礼を告げたら帰るべきだ。長居をするべきではない。
「擦り傷以外は元気かもしれなくても、事故を目撃したのだから今日は早めに休みなさい。医者は心の傷にまで薬は塗れないからね」
(心の傷……)
穏やかな声がアラセリスの心に響いた。
他人のことを慮ることばかり考えていたが、自分の心の傷には無頓着だったかもしれない。
「あの、心の傷はどうやって癒やすのですか? なにか自覚症状はあるのでしょうか」
「そうだねぇ……自覚症状は人それぞれだと思うけど、食欲減退とか不眠症とかが多いだろうね。例えば静かな夜になると、思い出したくない光景を思い出してしまうとか。君は誰か、頼れる人はいるかね?」
真っ先に思い浮かんだ義兄は却下した。彼の優先順位は番であって自分ではないし、そもそもこの国にはいない。
続いてパン屋の家族だが、優しい彼らを巻き込むつもりはない。
「いいえ」
「そうか。では友人や恋人は?」
「友人と呼べるくらい親しくしてくださる方はいますが、相手は貴族なので……職場の方を巻き込むのも気が進みません。恋人も、残念ながら」
恋という単語を聞いて浮かんだ相手はリーンハルトだった。だがそれはマリアンネの元夫だからであり、アラセリスが彼と深い仲になりたいわけではない。
(アラセリスに戻って再会したら元夫に恋をするなんて、笑えない冗談だわ。絶対にありえない)
そんなことは起こってはいけない。リーンハルトが気になるのは彼の健康と安寧を心配しているだけで、死んだ妻としての義務である。
身勝手な事情に巻き込んだ彼には幸せになってもらいたいだけ。彼の幸せのためにも、これ以上関わるべきではないだろう。
「では、くれぐれも無理をしないように。もしなにか不調があれば、またいつでも訪ねに来なさい」
(私、ただの市民なのに?)
疑問に思ったが、きっとこの医師は一度自分が診察した患者には同じ対応をしているのだろう。その親切心に感謝して、礼を告げた。
扉を開けた先にはリーンハルトが待っていた。彼はアラセリスの膝に視線を落とす。
「治療はされたようだな」
「はい、おかげさまで……あの、治療代はどこで支払えば」
「いい、不要だ。時間がないから連れて行くぞ」
疑問に思った直後、リーンハルトはアラセリスの腰を抱き寄せて、小包を抱えるように片腕で運び出した。
「えっ!? あの、下ろして……!」
「うるさい、暴れるな」
横暴だ。彼が運んだ方が早いとはいえ、まさか小脇に抱えられるとは思わなかった。
(どうしよう、どこに連れて行かれるの……!?)
恐ろしくて震えそうになるが、ここは従うしかない。
到着したのは応接室だった。取調室のような場所ではなくてホッとする。
長椅子に下ろされたアラセリスは礼を告げた。彼の手を煩わせたことは事実だ。
「恋人がいないというのは本当か」
リーンハルトは向かい側の席に腰を下ろした。何故そのようなことを訊くのかと問いたくなるが、質問に質問で返すのはよろしくない。
(尋問じゃないなら、答える義務はないわよね? 個人的なものだもの)
「お医者様に嘘をつきませんが、殿下の前ではつくかもしれません」
「はっ、なかなかいい度胸をしている」
徹底的に嫌われるべきだ。彼の方から、もうアラセリスとは関わりたくないと思わせた方がいい。
(そうだわ。生意気な女だと思わせたら、マリアンネ様とは似ても似つかないって思うはず。この人が私のなにを疑っているのかはわからないけれど)
権力者にたてつくことは恐ろしい。
義兄は絶対的な立場の竜族の王で、彼の地位を脅かす可能性のある人間の小娘は他竜から疎まれた。
思い返すとアラセリスは肩身の狭い思いをしながら生きてきた。認められたい、頼られたい、居場所がほしい……心の片隅にそんな気持ちがあったから、自分の欲求など二の次だったのだ。
今はようやく、自分探しができている。何者でもない、ただのアラセリスとして生きている。
なるべく平穏で静かに暮らせたらそれでいい。なにも多くを望んではいないのだ。
「俺はまどろっこしいことは嫌いだ」
彼が懐から取り出したのは一通の封筒だった。見覚えのあるそれは少し前に、心優しい少女から代筆の依頼を受けてリーンハルト宛に送った手紙である。
だがもう一通はなんだろう。アラセリスは小首を傾げる。
「この二通の手紙の共通点は文字だ。筆跡鑑定の結果、同一人物が書いたものだと判断した」




