13.
翌朝はしとしとと降る雨の音で目が覚めた。カーテンを開けば、空に雨雲が広がっている。
「仕事、行きたくないなぁ」
天気が優れない日は部屋にこもって読書がしたい。が、今日は給料日だ。休むわけにはいかない。
「あれ? ポシェットが光ってる」
身支度を整えた後、アラセリスは私物のポシェットが淡い光を発していることに気づいた。
これは竜族の特殊な術が施されたもので、無限に収納できる袋である。手を入れてほしいものを念じるだけで収納物を取り出すことができるが、注意点としては腕を突っ込みすぎて自分自身が収納されないように気をつけなくてはいけない。中に閉じ込められる可能性もあるため、慎重に取り扱う必要があるらしい。
アラセリスはポシェットから手鏡を取り出した。
「も、もしもし?」
アラセリスの声を受けた鏡は、水面のように波紋が映し出される。そして数秒後にはいつ見ても隙が無いほど麗しい竜王の姿が映し出された。
『アラセリス、息災か』
「っ! はい、お義兄様。ご無沙汰しております。お元気ですか?」
急に義兄から呼び出しを受けた。アラセリスがトレンメルの街に来てからはじめての出来事である。
こちらから連絡をしない限り、義兄とは話せないと思っていた。きっと番であるマリアンネと仲を深めることに忙しくて、助けを求められるまで自らアラセリスに関与しないだろうと。
(私のことを心配してくださったのかも。うれしい)
心の奥が温かくなる。義兄はアラセリスを不必要に甘やかさないが、国にいた頃は一番の味方でいてくれた。
人の子の面倒をみたのもはじめてだっただろう。きっとそれがただの気まぐれで、番が現れたときの予行練習だったとしても、幼かったアラセリスは救われたのだ。
『お前がしばらくザカルディアに残るという報告は受けている。今はどこでなにをしている』
「はい、今はトレンメルという街にある郵便局で、代筆の仕事をしてます。この国の人たちは、文字が読めても書くことに苦手意識を持っている方たちが多いので」
自分のことに興味を持ってくれた。やはり心配してくれたのだろう。
義兄は変わらない表情で『そうか』と呟いた。感情表現が著しく乏しいのは、千年以上生きている竜族の王だかららしい。
月の光を凝縮させたかのような美しい髪と青い双眸。畏れすら感じさせるほどの美貌はいつ見てもドキドキする。
「なにか急用がございましたか? こちらで手に入れてほしいものがあるとか……」
給料日を迎えたのだから、アラセリスがなにか贈り物するのもいいかもしれない。物欲など一切ない義兄も、珍しいものを見たら喜ぶのではないか。
(お義兄様は案外甘いものがお好きだから、日持ちがするお菓子とか、あとは珍しい小物とか。お酒などの嗜好品もいいかも)
『マリアンネが話し相手を欲している。同年代の人間がいいらしい』
「……」
わくわくしていた感情が一瞬で落ち着いた。
まるで心に水をかけられたような気持ちになり、そんな風に感じた自分にも嫌悪を抱く。
(私ったら、なにを期待していたのかしら。番の心を優先するのは当然なのに)
ほんの一瞬だけでも、義妹のことを気にかけて連絡をくれたのではないかと期待してしまった。十年以上も傍にいたのだから、多少情はあるだろうと。
けれど、義兄は大切なマリアンネの願望を叶えるために連絡しただけだったらしい。それがなければアラセリスの現状を把握しようとも思わなかったことに気づき、胸の奥が冷たくなる。
『それとマリアンネがお前のことを気にかけている。いつ帰ってくるのか心待ちにしているようだ』
「……っ」
それすら面白くなさそうに呟いている義兄を見て、アラセリスは困ったように眉尻を下げた。
(大切な番が他者に関心を寄せるなんて面白くないとでも言いたげだわ。私はただの人間なのに)
恋愛対象にはならない同性も嫉妬対象のようだ。血の繋がりはない養い子も例外ではないらしい。
人間のアラセリスには、番がどれほど大切な存在なのかはわからない。魂の伴侶であり、己の寿命を分け与えてでも傍にいてほしい相手だということを耳にしたことがあった。
それはまるで竜族にだけかけられた呪いみたいだ。番を捜し続けるためだけに生きる竜もいるらしい。
番と出会えなければ、一生心は飢えたまま。飢餓感に苛まれ、満たされることはないらしい。
愛情深い種族ではあるが、その一方で盲目的な恋が恐ろしい。マリアンネは義兄に愛されて羨ましいと思う反面、一生逃げることが叶わない檻に囚われている。
入れ替わるときに一度だけ、アラセリスはマリアンネと顔を合わせたことがある。可憐で純粋無垢で、誰からも愛されるような姫君だった。ほとんど幽閉されているような状況でも家族を恨むことなく、涙のひとつも零さない芯の強さもあった。
だがどうしてだろう。アラセリスはたった一度出会っただけの王女が好きになれそうにない。義兄には幸せになってほしいと思っているのに、マリアンネに関わりたいとは思えない。
「申し訳ありません、お義兄様。まだ具体的にいつ帰れるかはお伝えできません。私もようやく仕事に慣れてきたところなので、今は不明としか」
『そうか。ならばそのように伝えよう』
義兄の口角がくいっと上がった。アラセリスが断ることを待っていたように思えて、複雑な感情がこみ上げる。
(番の願いは叶えたいけれど、自分の気持ちも無視したくないってことよね)
マリアンネに懇願されてアラセリスに連絡は取ったが、義兄がほしかったのは「断られた」という事実だけ。彼の立場ならアラセリスに帰国を命じることもできるというのに、それはしないらしい。
(私の気持ちを尊重したというより、マリアンネ様がお義兄様以外に関心を寄せるのが面白くなかったんだわ)
要点のみで通信が切れた。ただの鏡に戻った手鏡を数秒見つめて、アラセリスはため息を零す。
「はあ、これでしばらくは帰れなくなっちゃった……これからどうしよう」
意地でも頑張るしかなくなった。義兄がアラセリスの帰国を望んでいないのなら、本気で自分の居場所を作るしかない。
本当はもう少しだけ、久しぶりに会話がしたかった。職場でリーンハルトと再会した件も伝えたかった。自分ひとりでは抱えきれなくなったとき、相談できる人は義兄しかいないのだから。
だが彼はアラセリスのことなど大して気にしていないのだろう。息災かと尋ねられたが、それも義務感から尋ねたのかもしれない。
番を見つけた竜族の心は番だけのものになる。そう頭では理解していても、アラセリスにとってたったひとりの家族とも呼べる相手だった。
「……寂しい、なんて思っちゃダメ。期待するからがっかりするんだってわかってるじゃない」
理性的であろうとするが、人は簡単には割り切れる生き物ではない。
自分の幸せがなんなのか、どこでどう生きたいのか。竜の国へ帰らずに、トレンメルから離れることも視野に入れた方がいいのではないか。
答えが見つからないまま身支度を整えて職場へ向かう。憂鬱な気持ちにさせる雨も好きになれそうになかった。




