10.
『はじめまして、マリアンネ姫。ようやくあなたと会えて光栄です』
ザカルディアの第二王子、リーンハルトの第一印象は、物語に出てくるような王子だった。彼は流れるような動作で跪いて、マリアンネの指先に口づけた。
そのようなことをされたことは一度もなくて、アラセリスは少し虚を突かれた。だが一国の王女であれば、その程度の触れ合いは普通のことだろう。微笑を崩さず、はじめて婚約者の名を呼んだ。
『不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします。リーンハルト殿下』
『他人行儀な呼び方はやめましょう。どうか俺のことは敬称もなしで、名前で呼んでほしい』
これから夫婦になるのだからと、彼はマリアンネの緊張を解そうとしたのだろう。
ザカルディアにはマリアンネの好物をあらかじめ伝えていたらしく、林檎と胡桃を使用したデザートが頻繁に出されるようになった。もちろんそれは本物のマリアンネの好物であり、アラセリスが好きなものではない。
『君を案内したい場所がたくさんあるんだ。美術館、博物館、図書館、時計塔は欠かせないな。自然が好きなら少し遠出をしようか。山と湖ならどちらがいい? 海沿いの街もいいかもしれない』
リーンハルトは積極的にマリアンネに話しかけた。好意を向けられていることはすぐに気づいた。
目が合っただけで微笑んでくれる。優しい声には隠しきれない甘さが滲んでいる。
どうやったらマリアンネが笑顔になれるのかを考えてくれている。侍女も連れずたったひとりで嫁いだのだ。彼はきっと、マリアンネの一番の味方になろうと必死だったのだろう。
リーンハルトの好意を浴びて、アラセリスが絆されないはずがなかった。
恋心を抱いてはいけない、別れることを忘れてはいけないことを義兄と約束させられていたから、アラセリスはそっけない態度を貫き通すことしかできなかった。頑なな態度を見ても、リーンハルトは変わらずマリアンネに優しく微笑みかけた。
『一目惚れだったと言ったら笑うだろうか』
政略結婚で結ばれた相手を好きになったのだと、照れくさくて恥ずかしそうに独白した姿は、年上の男性とは思えないほど初心で可愛らしかった。耳の先まで赤く染めた姿は、とても演技だとは思えない。
『絶対に君を悲しませない。ひとりで泣かせることもしないと誓おう。なにがあっても、俺が君の盾になるから』
マリアンネの両手を握りしめながら、彼は力強く宣言した。
優しくて頼もしい決意を聞いて、アラセリスの心が震えなかったと言えば嘘になる。
けれど彼が見つめているのは、幻影の魔術でマリアンネに見せているだけの別人である。真っ直ぐで心優しい王子を騙していることに、次第にアラセリスの良心がチクンと痛んだ。
嫌な男だったらよかったのに。最低で最悪だと思えるような王子だったら、こんな風には思わなかっただろう。アラセリスはリーンハルトに想われているマリアンネを羨ましく感じた。
竜王から愛されて、本物の婚約者にまで愛を向けられる。いいな、と思ってしまうのも無理はない。
(それなら私は? 一体誰が、私を愛してくれるんだろう)
笑顔の仮面を貼り付けて、国一番の幸せな王女を演じながら、アラセリスは虚しさを感じていた。
この状況は自分で望んだことだ。義兄の役に立ちたいと思い、マリアンネ役を引き受けた。
大切な義兄の幸せのためなら、自分が犠牲になるくらいどうってことはない。身寄りのないアラセリスを保護し、育ててくれた恩がある。マリアンネの身代わりに嫁いだことを後悔はしていないけれど、アラセリスは自分の心を完全に制御はできないのだと悟った。
『君を愛しているから、俺は愛を押し付けたくはない。君の気持ちが俺に向けられるまで待つよ』
リーンハルトからの接触は、頬と額にされたキスが一度だけ。それ以上の触れ合いはなく、結婚してから寝室も別だった。
子を孕まないようにと、義兄から持たされた避妊薬の出番もない。それを安堵しつつ、アラセリスの良心だけが痛み続ける。
一体何度、酷い男であってくれたらよかったと思っただろう。王族らしく傲慢で横柄で、お世辞にも人格者とは言えない男であれば、アラセリスは罪悪感を抱くことなく彼と決別できたのに。
目を閉じれば、リーンハルトの眩しい笑顔を思い出す。彼に微笑みかけられるたびに、アラセリスはいつも逃げたくなった。
「帰ろうかな……」
目が覚めた直後の第一声は、心の奥に秘めた本心なのかもしれない。夢に出てきたリーンハルトの笑顔がちらついて、アラセリスは寝台の中で深く息を吐きだした。
マリアンネの死後、リーンハルトがふたたび笑顔を取り戻すまで遠くから見届けたいと思っていたが、本物の彼と接触してしまった。もうザカルディアにいるべきではないだろう。
だが竜の国へ帰還したら、恐らく二度とここへは戻れない。情報も容易に手に入らず、心はきっとモヤモヤしたまま過ごしそうだ。
机の上に置いているポシェットを手に取った。中から手鏡を取り出して逡巡する。
鏡越しに義兄の名を呼べば恐らく応答があるだろう。特殊な術がかけられた鏡は、竜の国で通信機として使われている。
(いきなり「私は帰るべき?」なんて訊いても、お義兄様を煩わせるだけだわ。自分が望んだ答えを相手に言わせるなって、怒られるかもしれない)
決断ができるのは本人だけだ。自分が楽になりたくて、誰かに判断を委ねたいというのは褒められた行為ではない。
義兄は優しくもあり厳しくもある。そして彼の一番の関心はいかにマリアンネの憂いを取り除き幸せにできるかであり、義妹のアラセリスのことは二番目以降の存在だ。
「使用期間中は、職場に迷惑をかけてはダメよね。残り四か月弱……」
竜の国に戻るなら本採用のときにしよう。
アラセリスはもう少しこのまま踏ん張ることを選んだのだった。




