仕事⑤ー1
清々しい朝だ。と言っても、朝日は昇らない。
死後“朝”という概念は存在していない。それどころか時間の経過すら曖昧だ。
それでも、何となく“清々しい朝”だと感じるのは、覚田の新たな旅立ちに立ち会えたからだろう。
これは妻と初めて朝を迎えた時のような多幸感と全能感が…なんて感傷に浸る。
だが、そのまま穏やかな時間にも突如終わりが来る。
急激な悪寒が体を突き抜けた。脳天からつま先まで氷の弓矢が貫通したかと錯覚する。
「い、生きてる…。いや、生きてはいないんだけど。」
仕舞いには自分で自分に突っ込んでしまう。どっと感じた疲労。思わず手を膝に乗せる。
「足が、震えてる?」
本能的な危機を察したのか足が震え、逃げ出したい衝動に駆られる。
手汗でスーツの膝のところが濡れていく。
「ウム、まだ立っているとはなかなか見ごたえのある男だな。」
高笑いが聞こえた背後を恐る恐る振り返ると、初日に他のバケモンたちを制御していたあと男だ。3メートルを超える長身に信悟の倍はあろう肩幅。どんな手段をとっても敵わないと本能が警鐘を鳴らす。
「ウムウム。良いぞ。頑張っているな。お前みたいな奴はなかなかいない。」
背中を好意的に叩くが如何せん、力が強い。威圧感は凄いが、これはあれだ。親戚のおじさんの超強化版だ。そんな事を考えていると、どしっと頭に手を置かれた。ちょっと身長縮んだんじゃないか?
「普段は中立を意識しているんだが、俺はお前を気に入っている。だから、事前に一つ忠告。」
如何にも無遠慮な言動をしていた相手が急に真剣なトーンで話をしたので、こちらも真面目な顔つきになる。
「次の相手は、恐らくお前が一番会いたい相手だろう。だからこそ、心惑わされずに、正直に真っすぐ、事に当たるのだ。」
そこには有無も言わせぬ迫力があった。
扉を開けると均等な距離に設置されたテーブルと椅子。テーブルの上にはナイフとフォーク、お皿が上品に並べられている。そして華やかな明かりがそれらを照らしている。外側を見ると、全面ガラス張りで夜景が一望できる。
そして、思い出の席に彼女はいた。窓に映る物憂げな表情ですら愛おしく感じる。
見間違うはずもない。俺が唯一心から好きになり、プロポーズし、結ばれた人。人生の全てだった。
「あ、ああ――。」
言葉を出そうにも、感情が溢れ妨害をする。ちゃんと目に焼き付けたいのに、目の前が滲んではっきりしなくなる。感情が溢れだし、頭が真っ白になっていく。
「えっ、えええーーーっ!!」
しんみりした空気を吹き飛ばしたのは澪の驚愕した声だった。
(ああ、そうだった。こいつはこんな感じだった。何というか、ちょっと抜けてるというか……)
途切れそうになる意識の中で、澪のこれまでの言動を思い出していた。
「あっ、気がついた。大丈夫?どこか痛くない?」
テンパった様子で体を心配してくれる。
「ありがとう。大丈夫だよ。」
「本当に気を付けてね。体にだけは…。」
そう言うと、笑顔だった表情に一瞬陰が見えた気がした。
「じゃ、じゃあ。私はこれで。」
立ち去ろうとする澪の手を掴んで、引き留める。
「ちょっと、話聞いてくれませんか?」
「えっ?あっ、はい。」
何とか話をする了承を得ることができた。
「体は本当に大丈夫ですか?」
席に着いて最初の一言目がそれだった。
「いや、本当に大丈夫だから。」
「本当に?無茶してない?」
「してない、してない。」
「そ、そう。なら良いんだけど。」
余りにも心配する澪に対し、苦笑いを浮かべながら否定する。
「にしても、不思議な空間よね。」
澪はテーブルに置いたワイングラスを手に取り、違和感を口にする。
「例えば?」
「ほら、ここにメニューがあるでしょ?」
メニューをこれ見よがしに見せてくる。
「それで注文しようとしたんだけど、ウエイターがいないの。それで『どうしよう?このサラダが欲しいんだけどな』って思ったら、いつの間にかテーブルに置いてあったの。ほんと凄いよね。マジックみたい。」
「へー。そうなんだ。……おっ!本当に出た!!」
実際に信悟が頭の中でメニューを思い浮かべると実際にテーブルの上にシャンパンが現れた。
今までの店員にオーダーするものとは異なった空間のようだ。
「シャンパン、好きなの?」
「全然?」
「えっ、じゃあ何で注文したの?」
「何でって…。」
視線を移すと、窓の外には、砕けた星屑のような光が無数に散らばっていた。地上に、もう一つの銀河が瞬いている。
「こんな素敵な場所で、貴方と一緒に呑むのにはシャンパンかなって。」
「ハハハハ。何それ。」
ちょっと遠慮したようなボリュームでリアクションをしてくれる。
「あー、面白い。じゃあ、私からも一つ、面白いことがあるんだよ。」
一変、ニヤニヤしたいたずら少女のような笑みを浮かべる。
「何?」
「ちょっと待ってて。」
そう言うと、澪は席を立ち、少し遠いところの席に座る。
「えいっ!」
座った席のテーブルを勢い良く指差す。しかし、そのテーブルには何も出現せず。信悟が座る席のテーブルにシャンパンが現れた。
「ね!見た?」
「見たよ。」
「凄いでしょ。どこの席でやっても、この席に出てくるんだよ。」
「そ、そうか~。」
「何かリアクション薄~い。」
期待外れの反応になったのは理由がある。なぜならこのテーブルは特別なのだ。何しろ、俺が澪に告白した由緒正しき席なのだ。これもアイツの計らいなのだろう。
あのお節介なおじさんの顔がちらついた。




