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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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9/55

妊娠期間の、長い長い日々




「……1個、足りない」


 朝6時。

 俺はスコップを握ったまま、馬房の隅を見下ろしていた。


 ボロ。馬糞のことだ。

 宮田さんに言われて、毎朝これを数えている。


「宮田さん。シズク、昨日より1個少ないです」


「何個だ」


「9個」


「普通だ」


 普通だった。


 疝痛になると命に関わる、と奏が言っていた。馬は腸が長すぎて、どこかで詰まるらしい。だからボロの数と形で腹の調子を見る。

 ……らしい。2か月前の俺は、馬糞の個数を気にする人生になるとは思っていなかった。


「数より形だ。硬くないか見とけ」


「硬さって、どうやって見るんですか」


「見りゃ分かる」


 分からない。

 育成ゲームには体調ゲージがあった。現実にはボロしかない。


◇


 『ツキノシズク』の2回目の確認は、種付けから35日目だった。


 エコーの画面の中で、小さな点がちかちか瞬いている。


「心臓。動いてるでしょ」


 奏が画面を指さした。


「速いな」


「赤ちゃんだもん。……うん、大丈夫。これで確定」


 あっさり言われた。

 拍子抜けするくらい、あっさりだった。


「もっとこう、盛り上がるかと思ってた」


「前回泣いた人がいるから、今回はいいの」


 宮田さんは聞こえないふりをして、乾草を運んでいった。


◇


 それから先が、とにかく長かった。


 馬の妊娠期間は、約11か月。

 人間より長い。奏に言われたとき、3回聞き返した。


 4月の終わり。三上さんが連れてきた2頭を見た。

 1頭は「やめといたほうがいいです」で終わった。

 もう1頭は値段を10万円下げさせて、鑑定料は3万円。三上さんはまた言い触らすらしい。やめてほしいような、やめてほしくないような。


 5月。カムイボシの種付け料の、最後の3万円を払った。

 通帳の残高は、相変わらず心許ない。


 7月。牧草の刈り取り。

 宮田さんにトラクターの運転を習って、柵に2回ぶつけた。


「柵は直せる。馬は直せん」


「慰めになってないです」


「慰めてねぇ」


 その間、奏はよく来た。

 篠宮ファームの仕事が終わった夕方に、軽トラで乗りつけてくる。


「また来たのか」


「シズクに会いに来たの。陸じゃない」


「知ってる」


「知ってるなら言わないで」


 奏は馬房に入ると、まずシズクの腹に手を当てる。


「元気だねぇ。いい子だねぇ。お腹の子も元気かなぁ」


 声が溶けている。

 何度聞いても慣れない。俺に「言わないで」と言ったのと同じ口だ。


「飼い葉、増やしてないよね?」


「増やしてない。宮田さんに止められた」


「よかった。後半はお腹の子が一気に大きくなるから、母馬を太らせすぎると難産になりやすいの」


「ゲームなら、餌は全部最高級にしてたけどな」


「それ、現実でやったら獣医に怒られるやつ」


「現に今、怒られてる」


「怒ってない。注意してるの」


 違いが分からない。


◇


 夏の終わりのある日。

 作業が一段落して、2人で柵に腰かけていた。シズクは放牧地の真ん中で、のんびり草を食んでいる。


「ねぇ陸」


「ん」


「なんで継いだの。牧場」


 急だった。


「……爺さんの馬が、知らない誰かに売られるのが嫌だった。たぶん」


「たぶん?」


「あと、就職先がなかった」


「そっちが本音でしょ」


「半々」


 奏が吹き出した。

 それから手を伸ばして、俺の頭から何かをつまみ取る。


「寝癖に乾草、刺さってる」


「……朝からか」


「朝から」


 言えよ。


 奏は乾草をくるくる指で回して、放牧地のほうを見た。


「半々でも、いいと思うよ。シズクはちゃんと、陸の馬になってるし」


 何も返せなかった。

 返したら、変な声が出そうだった。


◇


 秋が来て、冬が来た。


 11月の終わりに初雪が降って、シズクに馬着を着せた。

 馬用の、でかい毛布みたいな服だ。


「似合うな」


「馬に似合うとかあるか」


 宮田さんはそう言いながら、ベルトの位置を3回直していた。


 12月のある晩。

 飼い葉をやりに馬房へ入ると、シズクの腹の横がぐにっと動いた。


「……今、動きました」


「蹴ったな」


「中から?」


「中からだ」


 ――中から、だ。

 もう一度、ぐに。

 腹の皮の向こうから、何かが確かに押している。


 ゲームの産駒は、生まれるまで『???』表示だった。

 こっちは12月の時点で、もう自己主張してくる。


「元気だな、お前」


 シズクの腹に言ったら、シズクが振り向いて俺の袖を噛んだ。

 お前に言ったんじゃない。


◇


 年が明けて、2月。


 シズクの腹は、横から見ても分かるくらい丸くなった。

 予定日は2月の終わり。あと10日だ。


 その日の夕方、帰りぎわの奏が軽トラのドアを開けたまま止まった。


「陸。明日、うちに来ない?」


「篠宮ファームに?」


「父さんが、陸に会ってみたいって」


 そう言う奏の目が、こっちを見ていなかった。


「嫌なら断っていいから」


「なんで俺が嫌がる前提なんだ」


「……なんとなく」


 ドアが閉まる。

 軽トラは門の前で一度だけ止まって、それから出ていった。


◇


 『篠宮ファーム』の出産厩舎には、馬房が24並んでいた。


 通路が、向こうの端まで見えないくらい長い。

 どの馬房にも腹の丸い牝馬がいて、全部の天井にカメラが付いている。事務所のモニターには、24頭が24分割で映っていた。


「……監視カメラ」


「夜中に1頭ずつ見回るのは無理だから。ここで見てて、兆候があったら走るの」


 奏が慣れた手つきでモニターを切り替える。


 うちは1頭。宮田さんが寝袋を持ち込んで、馬房の前で寝ている。


「やあ。陸くんか」


 振り返ると、作業着の上にダウンを着た男の人が立っていた。


 『篠宮ファーム』代表、篠宮貴之。

 奏の父親だ。子どもの頃に何度か会ったはずだけど、顔を見るのは爺さんの葬式以来だった。


「大きくなったな」


「24です」


「そうか。権三郎さんの葬式では、ろくに話もできなかった」


 穏やかな人だった。

 桜庭みたいに、最初から値踏みしてくる目じゃない。


 貴之さんは、馬房の列をゆっくり歩きながら話した。


「うちは今年、52頭産む予定でね」


「52……」


「そのうち、競走馬としてちゃんと走るのは何頭だと思う?」


「……10頭くらいですか」


「5頭いれば上出来だ。重賞を勝つのは、数年に1頭」


 さらっと言う。

 数字が、あまりにさらっとしている。


「だから数を打つ。いい種牡馬に、いい繁殖牝馬を毎年何十頭もつける。外れは出る。出て当然だと思って計画を立てる」


 貴之さんが足を止めた。


「数を打って当てる。それが今の時代の正解だ」


 否定のしようがなかった。

 育成ゲームでも、厳選は試行回数だ。周回した数だけ当たりが出る。俺が一番よく知っている。


「君のところのやり方を、否定するつもりはないよ。権三郎さんもそうだった。1頭ずつ見て、1頭ずつ悩む」


「……はい」


「ただ、それで畳んだ牧場を、私はこの30年でいくつも見てきた」


 責める口調じゃなかった。


 隣の馬房の牝馬が、鼻を鳴らした。

 目が合う。


【根性:A】


 ……それ以外は、見なかったことにした。人の家の馬だ。


 貴之さんが手元の表を見る。


「18番は、明日あたりか」


「……サクラユキ」


 奏が小さく言った。


「ああ。そうだったな」


 貴之さんはうなずいて、表に何か書き込んだ。

 奏はそれ以上何も言わない。ただ、18番の馬房の前から動かなかった。


 胸ポケットの万年筆に、指を当てる。


 数を打って当てる。

 正しいんだと思う。

 でも俺には、1頭ずつ視える。


 ――俺は、それでも1頭に賭ける。


「その胸の」


 貴之さんが、俺の胸ポケットに目を留めた。


「権三郎さんの万年筆だろう」


「……分かりますか」


「あの人は、馬を見に来るとき必ずそれを持ってきた。書いてるところは、一度も見たことがない」


 貴之さんが、ほんの少しだけ笑う。


「何に使っていたんだろうな」


 答えられるわけがなかった。


「予定日はいつだ」


「2月の終わりです」


「桜庭さんのところも、来月だそうだ」


「……知ってます」


「夜中に何かあったら、電話しなさい。うちの夜番を走らせる」


「……ありがとうございます」


 悪い人じゃない。

 渡された名刺が、胸ポケットの万年筆の隣に収まった。


◇


 帰りの軽トラまで、奏は黙って歩いた。


 聞きたいことはあった。

 サクラユキのこと。俺を呼んだ本当の理由。


 でも、どれも今は違う気がした。


「奏」


「ん?」


「……サクラユキって、いい名前だな」


 奏が一瞬、足を止めた。


「……うん。私がつけたの」


 それだけ言って、また歩き出した。


◇


 牧場に戻ると、宮田さんが厩舎の入口に立っていた。

 寝袋を小脇に抱えている。


「遅い」


「時間通りです」


「乳に、ヤニが付いた」


「ヤニ?」


「乳の先に、ロウみたいなのが固まる。出る前の合図だ」


「……予定、まだ先ですよね」


「馬は暦なんか見ねぇ」


 スコップを取ろうとした手が止まった。


「……いつですか」


「早けりゃ今夜。遅くても2、3日だ」


 馬房をのぞく。

 シズクが寝藁の上で、ゆっくりと体の向きを変えた。

 丸い腹が、こっちを向く。


 もうすぐ、生まれる。


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