妊娠期間の、長い長い日々
「……1個、足りない」
朝6時。
俺はスコップを握ったまま、馬房の隅を見下ろしていた。
ボロ。馬糞のことだ。
宮田さんに言われて、毎朝これを数えている。
「宮田さん。シズク、昨日より1個少ないです」
「何個だ」
「9個」
「普通だ」
普通だった。
疝痛になると命に関わる、と奏が言っていた。馬は腸が長すぎて、どこかで詰まるらしい。だからボロの数と形で腹の調子を見る。
……らしい。2か月前の俺は、馬糞の個数を気にする人生になるとは思っていなかった。
「数より形だ。硬くないか見とけ」
「硬さって、どうやって見るんですか」
「見りゃ分かる」
分からない。
育成ゲームには体調ゲージがあった。現実にはボロしかない。
◇
『ツキノシズク』の2回目の確認は、種付けから35日目だった。
エコーの画面の中で、小さな点がちかちか瞬いている。
「心臓。動いてるでしょ」
奏が画面を指さした。
「速いな」
「赤ちゃんだもん。……うん、大丈夫。これで確定」
あっさり言われた。
拍子抜けするくらい、あっさりだった。
「もっとこう、盛り上がるかと思ってた」
「前回泣いた人がいるから、今回はいいの」
宮田さんは聞こえないふりをして、乾草を運んでいった。
◇
それから先が、とにかく長かった。
馬の妊娠期間は、約11か月。
人間より長い。奏に言われたとき、3回聞き返した。
4月の終わり。三上さんが連れてきた2頭を見た。
1頭は「やめといたほうがいいです」で終わった。
もう1頭は値段を10万円下げさせて、鑑定料は3万円。三上さんはまた言い触らすらしい。やめてほしいような、やめてほしくないような。
5月。カムイボシの種付け料の、最後の3万円を払った。
通帳の残高は、相変わらず心許ない。
7月。牧草の刈り取り。
宮田さんにトラクターの運転を習って、柵に2回ぶつけた。
「柵は直せる。馬は直せん」
「慰めになってないです」
「慰めてねぇ」
その間、奏はよく来た。
篠宮ファームの仕事が終わった夕方に、軽トラで乗りつけてくる。
「また来たのか」
「シズクに会いに来たの。陸じゃない」
「知ってる」
「知ってるなら言わないで」
奏は馬房に入ると、まずシズクの腹に手を当てる。
「元気だねぇ。いい子だねぇ。お腹の子も元気かなぁ」
声が溶けている。
何度聞いても慣れない。俺に「言わないで」と言ったのと同じ口だ。
「飼い葉、増やしてないよね?」
「増やしてない。宮田さんに止められた」
「よかった。後半はお腹の子が一気に大きくなるから、母馬を太らせすぎると難産になりやすいの」
「ゲームなら、餌は全部最高級にしてたけどな」
「それ、現実でやったら獣医に怒られるやつ」
「現に今、怒られてる」
「怒ってない。注意してるの」
違いが分からない。
◇
夏の終わりのある日。
作業が一段落して、2人で柵に腰かけていた。シズクは放牧地の真ん中で、のんびり草を食んでいる。
「ねぇ陸」
「ん」
「なんで継いだの。牧場」
急だった。
「……爺さんの馬が、知らない誰かに売られるのが嫌だった。たぶん」
「たぶん?」
「あと、就職先がなかった」
「そっちが本音でしょ」
「半々」
奏が吹き出した。
それから手を伸ばして、俺の頭から何かをつまみ取る。
「寝癖に乾草、刺さってる」
「……朝からか」
「朝から」
言えよ。
奏は乾草をくるくる指で回して、放牧地のほうを見た。
「半々でも、いいと思うよ。シズクはちゃんと、陸の馬になってるし」
何も返せなかった。
返したら、変な声が出そうだった。
◇
秋が来て、冬が来た。
11月の終わりに初雪が降って、シズクに馬着を着せた。
馬用の、でかい毛布みたいな服だ。
「似合うな」
「馬に似合うとかあるか」
宮田さんはそう言いながら、ベルトの位置を3回直していた。
12月のある晩。
飼い葉をやりに馬房へ入ると、シズクの腹の横がぐにっと動いた。
「……今、動きました」
「蹴ったな」
「中から?」
「中からだ」
――中から、だ。
もう一度、ぐに。
腹の皮の向こうから、何かが確かに押している。
ゲームの産駒は、生まれるまで『???』表示だった。
こっちは12月の時点で、もう自己主張してくる。
「元気だな、お前」
シズクの腹に言ったら、シズクが振り向いて俺の袖を噛んだ。
お前に言ったんじゃない。
◇
年が明けて、2月。
シズクの腹は、横から見ても分かるくらい丸くなった。
予定日は2月の終わり。あと10日だ。
その日の夕方、帰りぎわの奏が軽トラのドアを開けたまま止まった。
「陸。明日、うちに来ない?」
「篠宮ファームに?」
「父さんが、陸に会ってみたいって」
そう言う奏の目が、こっちを見ていなかった。
「嫌なら断っていいから」
「なんで俺が嫌がる前提なんだ」
「……なんとなく」
ドアが閉まる。
軽トラは門の前で一度だけ止まって、それから出ていった。
◇
『篠宮ファーム』の出産厩舎には、馬房が24並んでいた。
通路が、向こうの端まで見えないくらい長い。
どの馬房にも腹の丸い牝馬がいて、全部の天井にカメラが付いている。事務所のモニターには、24頭が24分割で映っていた。
「……監視カメラ」
「夜中に1頭ずつ見回るのは無理だから。ここで見てて、兆候があったら走るの」
奏が慣れた手つきでモニターを切り替える。
うちは1頭。宮田さんが寝袋を持ち込んで、馬房の前で寝ている。
「やあ。陸くんか」
振り返ると、作業着の上にダウンを着た男の人が立っていた。
『篠宮ファーム』代表、篠宮貴之。
奏の父親だ。子どもの頃に何度か会ったはずだけど、顔を見るのは爺さんの葬式以来だった。
「大きくなったな」
「24です」
「そうか。権三郎さんの葬式では、ろくに話もできなかった」
穏やかな人だった。
桜庭みたいに、最初から値踏みしてくる目じゃない。
貴之さんは、馬房の列をゆっくり歩きながら話した。
「うちは今年、52頭産む予定でね」
「52……」
「そのうち、競走馬としてちゃんと走るのは何頭だと思う?」
「……10頭くらいですか」
「5頭いれば上出来だ。重賞を勝つのは、数年に1頭」
さらっと言う。
数字が、あまりにさらっとしている。
「だから数を打つ。いい種牡馬に、いい繁殖牝馬を毎年何十頭もつける。外れは出る。出て当然だと思って計画を立てる」
貴之さんが足を止めた。
「数を打って当てる。それが今の時代の正解だ」
否定のしようがなかった。
育成ゲームでも、厳選は試行回数だ。周回した数だけ当たりが出る。俺が一番よく知っている。
「君のところのやり方を、否定するつもりはないよ。権三郎さんもそうだった。1頭ずつ見て、1頭ずつ悩む」
「……はい」
「ただ、それで畳んだ牧場を、私はこの30年でいくつも見てきた」
責める口調じゃなかった。
隣の馬房の牝馬が、鼻を鳴らした。
目が合う。
【根性:A】
……それ以外は、見なかったことにした。人の家の馬だ。
貴之さんが手元の表を見る。
「18番は、明日あたりか」
「……サクラユキ」
奏が小さく言った。
「ああ。そうだったな」
貴之さんはうなずいて、表に何か書き込んだ。
奏はそれ以上何も言わない。ただ、18番の馬房の前から動かなかった。
胸ポケットの万年筆に、指を当てる。
数を打って当てる。
正しいんだと思う。
でも俺には、1頭ずつ視える。
――俺は、それでも1頭に賭ける。
「その胸の」
貴之さんが、俺の胸ポケットに目を留めた。
「権三郎さんの万年筆だろう」
「……分かりますか」
「あの人は、馬を見に来るとき必ずそれを持ってきた。書いてるところは、一度も見たことがない」
貴之さんが、ほんの少しだけ笑う。
「何に使っていたんだろうな」
答えられるわけがなかった。
「予定日はいつだ」
「2月の終わりです」
「桜庭さんのところも、来月だそうだ」
「……知ってます」
「夜中に何かあったら、電話しなさい。うちの夜番を走らせる」
「……ありがとうございます」
悪い人じゃない。
渡された名刺が、胸ポケットの万年筆の隣に収まった。
◇
帰りの軽トラまで、奏は黙って歩いた。
聞きたいことはあった。
サクラユキのこと。俺を呼んだ本当の理由。
でも、どれも今は違う気がした。
「奏」
「ん?」
「……サクラユキって、いい名前だな」
奏が一瞬、足を止めた。
「……うん。私がつけたの」
それだけ言って、また歩き出した。
◇
牧場に戻ると、宮田さんが厩舎の入口に立っていた。
寝袋を小脇に抱えている。
「遅い」
「時間通りです」
「乳に、ヤニが付いた」
「ヤニ?」
「乳の先に、ロウみたいなのが固まる。出る前の合図だ」
「……予定、まだ先ですよね」
「馬は暦なんか見ねぇ」
スコップを取ろうとした手が止まった。
「……いつですか」
「早けりゃ今夜。遅くても2、3日だ」
馬房をのぞく。
シズクが寝藁の上で、ゆっくりと体の向きを変えた。
丸い腹が、こっちを向く。
もうすぐ、生まれる。




