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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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10/53

生まれた




 乾草が、減っていない。


 夜中の2時40分。

 懐中電灯を当てた飼い葉桶の中に、夕方入れた乾草がそのままの形で残っていた。


 『ツキノシズク』は食い意地が張っている。

 妊娠してからはなおさらで、夜中に見回ると桶はいつも空だった。舐めた跡まで付いている。


「……シズク?」


 返事の代わりに、シズクが馬房の中をぐるりと1周した。

 止まって、自分の腹を振り返る。

 また1周。


 首筋が濡れていた。

 2月の日高で、馬が汗をかいている。



「宮田さん」


 馬房の前の寝袋が、もぞりと動いた。


「……なんだ」


「乾草、食ってないです。あと汗」


 寝袋から、宮田さんの顔だけが出てきた。

 シズクを3秒見て、ファスナーを一気に下ろす。


「始まった」


◇


 宮田さんが獣医の先生に電話をかけた。

 短いやり取りのあと、携帯を耳から離して舌打ちする。


「先生、浦河で逆子にかかってる。1時間は来れねぇ」


「1時間」


「出るときは20分で出る。間に合わんかもしれん」


 この時期の日高は、どこの牧場でも夜中に馬が産む。獣医は取り合いになる。

 それは聞いていた。聞いてはいたけど、自分のところが取り合いに負けるとは思っていなかった。


 胸ポケットの名刺を思い出した。

 万年筆の隣に挟まったままの、『篠宮ファーム』の名刺。


 電話は2コールで繋がった。


「――陸?」


 奏だった。

 貴之さんの番号のはずなのに。


「なんでお前が出るんだよ」


「お父さんの携帯、夜は私が持ってるの。夜番だから。……で、こんな時間に知らない番号なら、シズクしかないでしょ」


「始まった。先生が1時間かかる」


「そっちも出産続きだろ。抜けていいのか」


「うちはカメラがあるし、お父さんも起きてる。15分で行く」


 切れた。


 12分で、軽トラのライトが見えた。

 奏はスウェットの上に作業着を引っかけて、細長い箱を抱えていた。


「尻尾、巻いた?」


「巻いた」


「お湯は」


「沸いてる」


 奏と宮田さんの会話が、俺の頭の上を素通りしていく。

 俺の仕事は、懐中電灯を持つことだった。


「先代はな」


 宮田さんが、湯の温度を手で確かめながら言った。


「出産の夜は、ここに一晩中突っ立ってた。何もしねぇで」


「何もしないんですか」


「馬が産むんだ。人間は邪魔しねぇのが仕事だ」


 ……それなら、俺にもできそうだ。

 と思っていたのは、このあたりまでだった。



 シズクが寝藁の上に横になったのは、3時を少し過ぎた頃だ。


 ばしゃ、と音がした。

 破水。それくらいは俺でも分かる。


 しばらくして、白い膜が見えてきた。

 膜の中に、蹄がある。

 思っていたより、ずっと小さい。


「……1本だな」


 宮田さんの声が低くなった。


「1本?」


「前脚は2本揃って出てくるもんだ。その上に鼻が乗る。……1本しか来てねぇ」


 奏はもう手袋をはめていた。肩まである、薄いビニールの手袋。


「もう片方、膝が曲がって引っかかってると思う。押し戻して、伸ばす」


「できんのか」


「習った。……やったことはない」


 宮田さんは何も言わなかった。

 言わずにシズクの頭の方へ回って、首に手を置いた。


「陸、光こっち」


 懐中電灯を向ける。

 光が揺れていた。たぶん俺の手だ。


 奏の腕が、ゆっくり中に入っていく。

 蹄で中を傷つけないように、手のひらで包んで押し戻すらしい。


「波が来たら止めるから。……今は押さないで、シズク。お願い」


 馬にだけ使う声だった。

 俺には一度も使ったことのない、やわらかい声。


 シズクが大きく息を吐く。

 腹が波打つ。

 奏が止まる。

 波が引く。

 奏の腕が、また少し進む。


 何回それを繰り返したのか、数えていない。

 ボロなら数えられるのに。


「……あった」


 奏の肩が、ぐっと沈んだ。


「伸ばすよ。――今」


 次の波で、白い膜の中にもう1本、蹄が並んだ。

 蹄の裏が下を向いている。

 その上に、鼻先。


「よし」


 宮田さんが「よし」と言うのを、俺は初めて聞いた。


「陸、脚を持て」


「俺ですか」


「他に誰がいる」


 膜越しに、細い脚を握った。

 温かい。ぬるりと滑る。


「引くのは、いきんだときだけだ。下に向けて引け。後ろ脚の方にだ」


「下に」


「肩が抜けりゃ、あとは勝手に出る」


 シズクがいきむたびに引いて、止めて、また引いた。


 ゲームの産駒は、卵が割れるエフェクト1回で生まれていた。

 あれを作った人は、たぶん馬の出産を見たことがない。


 肩が抜けた。


 そこから先は、本当に一瞬だった。

 ずるり、と。

 濡れた塊が、寝藁の上に滑り出てきた。


◇


 動かなかった。


 白い膜に包まれたまま、寝藁の上でぴくりともしない。


 奏が膜を破った。指で鼻の周りを拭う。

 藁をひとつかみ取って、胸を強くこする。


「起きて。……ねえ、起きて」


 3秒。

 4秒。


 仔馬が、くしゃみをした。


 首がぐらりと持ち上がる。濡れた耳が、ぱたんと倒れる。

 鼻から、ぶふっと息が出た。


「――生きてる」


 奏が、藁を握ったまま座り込んだ。


「生きてる……ちゃんと、生きてる」


 声が濡れていた。

 俺はそっちを見ないことにした。見たら、たぶん俺も危ない。


 宮田さんが、後ろ脚の間をのぞき込む。


「牡だ」


 それだけ言って、バケツをひっくり返して座った。

 宮田さんは、しばらくそこから立たなかった。



 臍の緒は切らない、と奏が言った。

 母馬が立ち上がるときに自然に切れる。その方がいいらしい。


 シズクが立った。臍の緒が切れた。

 奏が仔馬の臍に消毒液を塗って、シズクが首を伸ばし、仔馬の背中をべろりと舐めた。


 そこからが長かった。


 仔馬が前脚を突っ張っては、後ろ脚が付いてこなくて崩れる。


 脚が長すぎるのだ。体に対して、明らかに長すぎる。説明書なしで折りたたみ椅子を組み立てているように見えた。


「手、貸した方が」


「触んな」


 宮田さんが即答した。


「自分で立たせろ。立てねぇ馬は、乳も飲めねぇ」


 サラブレッドの仔馬は、生まれて1時間ほどで立つ。

 立って、自分で母親の乳を探す。


 知ってはいた。

 こんなに転ぶとは、どこにも書いてなかった。


 仔馬がまた崩れた。

 藁に顔から突っ込んで、不思議そうに瞬きをしている。


「……がんばれ」


 気づいたら、口に出ていた。

 奏がちらっとこっちを見た。何も言わなかった。


「……さっきさ」


 しばらくして、奏が言った。


「光、揺れてたよね」


「揺れてない」


「揺れてた」


「懐中電灯が古いんだよ」


「ふうん」


 奏が鼻で笑った。

 自分だって、手袋を外す指がまだ震えていたくせに。



 前脚。

 後ろ脚。

 ぐらり、と揺れて――


 立った。


 4本の脚を、全部ばらばらの方向に突っ張って。

 それでも、立っていた。


 腕時計を見る。4時25分。

 生まれてから、52分。


 胸ポケットに手が伸びた。


 万年筆を握る。

 いつもの、ひやりとした感触。


 視界に、文字が浮かぶ。


【牡・0歳】

【スピード:A】【スタミナ:A+】【パワー:B+】【根性:A】【賢さ:B+】


 ……ん?


 瞬きをした。

 消えない。

 万年筆を一度離して、握り直す。

 同じ文字が、同じ場所に出た。


 頭の中で、シズクの数値を並べる。

 スピード、B+。スタミナ、A。パワー、C。根性、A-。賢さ、B。


 全部、上だ。

 5つとも、母親を超えている。


 パワーのC。シズクの一番の弱点。

 それがB+まで上がっている。父親の『カムイボシ』だって、パワーはC+しかなかったのに。


 配合相性◎。

 ゲームなら、両親の平均にちょっと上振れが乗る、くらいの意味だった。

 こんな跳ね方は、ゲームでも見たことがない。


 生まれて52分。

 脚が長すぎて、まだ乳の場所も知らない仔馬が。


 ……これは、化けるなんてもんじゃない。


◇


 気づいたら、誰も喋っていなかった。


 宮田さんはバケツの上で、膝に肘をついている。

 奏は寝藁に座り込んだまま、頬に袖で拭いた跡が残っている。

 俺は万年筆を握ったまま、まだ瞬きをしていた。


 仔馬がよろよろと、シズクの腹の下に潜り込んだ。

 鼻先で探る。違う。前の方に行く。違う。

 やっと見つけて、吸い付いた。


 ちゅ、ちゅ、と小さな音がする。


「……飲んだ」


 奏が言った。

 宮田さんが、長い息を吐いた。



 外で、エンジンの音がした。


「すまんすまん、遅くなった。……あれ、もう産まれてる?」


「遅ぇ」


 宮田さんはそれしか言わなかった。


 先生は仔馬の脚を1本ずつ触って、胸に聴診器を当てて、口の中をのぞいた。


「異常なし。いい仔だ」


 それから、寝藁の脇に丸めて捨てられた手袋を見る。


「脚、曲がってたのか。誰が直した?」


 宮田さんが、顎で奏を指した。


「……習ったとおりにやっただけです」


「初めてで、あれか。大したもんだ」


 奏が下を向いた。耳が赤い。


 先生が後産を確かめている間に、宮田さんが俺の脇腹を肘でつついた。


「カムイボシんとこに、電話しとけよ。朝になったら」


「……ああ」


 そうだった。

 この仔馬の権利の一部は、カムイボシ牧場のものだ。種付け料の代わりに、俺が差し出した約束。


 あのとき差し出したものの値段を、向こうの牧場主はまだ知らない。

 俺も、さっきまで知らなかった。


 仔馬が乳から口を離して、こっちを見た。

 濡れた、黒い目。


「陸」


 奏が、鼻をすすりながら言った。


「この子、なんて呼ぶの」


 ……そうか。

 まだ、呼び方すらない。


「――名前、決めないとな」


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