生まれた
乾草が、減っていない。
夜中の2時40分。
懐中電灯を当てた飼い葉桶の中に、夕方入れた乾草がそのままの形で残っていた。
『ツキノシズク』は食い意地が張っている。
妊娠してからはなおさらで、夜中に見回ると桶はいつも空だった。舐めた跡まで付いている。
「……シズク?」
返事の代わりに、シズクが馬房の中をぐるりと1周した。
止まって、自分の腹を振り返る。
また1周。
首筋が濡れていた。
2月の日高で、馬が汗をかいている。
「宮田さん」
馬房の前の寝袋が、もぞりと動いた。
「……なんだ」
「乾草、食ってないです。あと汗」
寝袋から、宮田さんの顔だけが出てきた。
シズクを3秒見て、ファスナーを一気に下ろす。
「始まった」
◇
宮田さんが獣医の先生に電話をかけた。
短いやり取りのあと、携帯を耳から離して舌打ちする。
「先生、浦河で逆子にかかってる。1時間は来れねぇ」
「1時間」
「出るときは20分で出る。間に合わんかもしれん」
この時期の日高は、どこの牧場でも夜中に馬が産む。獣医は取り合いになる。
それは聞いていた。聞いてはいたけど、自分のところが取り合いに負けるとは思っていなかった。
胸ポケットの名刺を思い出した。
万年筆の隣に挟まったままの、『篠宮ファーム』の名刺。
電話は2コールで繋がった。
「――陸?」
奏だった。
貴之さんの番号のはずなのに。
「なんでお前が出るんだよ」
「お父さんの携帯、夜は私が持ってるの。夜番だから。……で、こんな時間に知らない番号なら、シズクしかないでしょ」
「始まった。先生が1時間かかる」
「そっちも出産続きだろ。抜けていいのか」
「うちはカメラがあるし、お父さんも起きてる。15分で行く」
切れた。
12分で、軽トラのライトが見えた。
奏はスウェットの上に作業着を引っかけて、細長い箱を抱えていた。
「尻尾、巻いた?」
「巻いた」
「お湯は」
「沸いてる」
奏と宮田さんの会話が、俺の頭の上を素通りしていく。
俺の仕事は、懐中電灯を持つことだった。
「先代はな」
宮田さんが、湯の温度を手で確かめながら言った。
「出産の夜は、ここに一晩中突っ立ってた。何もしねぇで」
「何もしないんですか」
「馬が産むんだ。人間は邪魔しねぇのが仕事だ」
……それなら、俺にもできそうだ。
と思っていたのは、このあたりまでだった。
シズクが寝藁の上に横になったのは、3時を少し過ぎた頃だ。
ばしゃ、と音がした。
破水。それくらいは俺でも分かる。
しばらくして、白い膜が見えてきた。
膜の中に、蹄がある。
思っていたより、ずっと小さい。
「……1本だな」
宮田さんの声が低くなった。
「1本?」
「前脚は2本揃って出てくるもんだ。その上に鼻が乗る。……1本しか来てねぇ」
奏はもう手袋をはめていた。肩まである、薄いビニールの手袋。
「もう片方、膝が曲がって引っかかってると思う。押し戻して、伸ばす」
「できんのか」
「習った。……やったことはない」
宮田さんは何も言わなかった。
言わずにシズクの頭の方へ回って、首に手を置いた。
「陸、光こっち」
懐中電灯を向ける。
光が揺れていた。たぶん俺の手だ。
奏の腕が、ゆっくり中に入っていく。
蹄で中を傷つけないように、手のひらで包んで押し戻すらしい。
「波が来たら止めるから。……今は押さないで、シズク。お願い」
馬にだけ使う声だった。
俺には一度も使ったことのない、やわらかい声。
シズクが大きく息を吐く。
腹が波打つ。
奏が止まる。
波が引く。
奏の腕が、また少し進む。
何回それを繰り返したのか、数えていない。
ボロなら数えられるのに。
「……あった」
奏の肩が、ぐっと沈んだ。
「伸ばすよ。――今」
次の波で、白い膜の中にもう1本、蹄が並んだ。
蹄の裏が下を向いている。
その上に、鼻先。
「よし」
宮田さんが「よし」と言うのを、俺は初めて聞いた。
「陸、脚を持て」
「俺ですか」
「他に誰がいる」
膜越しに、細い脚を握った。
温かい。ぬるりと滑る。
「引くのは、いきんだときだけだ。下に向けて引け。後ろ脚の方にだ」
「下に」
「肩が抜けりゃ、あとは勝手に出る」
シズクがいきむたびに引いて、止めて、また引いた。
ゲームの産駒は、卵が割れるエフェクト1回で生まれていた。
あれを作った人は、たぶん馬の出産を見たことがない。
肩が抜けた。
そこから先は、本当に一瞬だった。
ずるり、と。
濡れた塊が、寝藁の上に滑り出てきた。
◇
動かなかった。
白い膜に包まれたまま、寝藁の上でぴくりともしない。
奏が膜を破った。指で鼻の周りを拭う。
藁をひとつかみ取って、胸を強くこする。
「起きて。……ねえ、起きて」
3秒。
4秒。
仔馬が、くしゃみをした。
首がぐらりと持ち上がる。濡れた耳が、ぱたんと倒れる。
鼻から、ぶふっと息が出た。
「――生きてる」
奏が、藁を握ったまま座り込んだ。
「生きてる……ちゃんと、生きてる」
声が濡れていた。
俺はそっちを見ないことにした。見たら、たぶん俺も危ない。
宮田さんが、後ろ脚の間をのぞき込む。
「牡だ」
それだけ言って、バケツをひっくり返して座った。
宮田さんは、しばらくそこから立たなかった。
臍の緒は切らない、と奏が言った。
母馬が立ち上がるときに自然に切れる。その方がいいらしい。
シズクが立った。臍の緒が切れた。
奏が仔馬の臍に消毒液を塗って、シズクが首を伸ばし、仔馬の背中をべろりと舐めた。
そこからが長かった。
仔馬が前脚を突っ張っては、後ろ脚が付いてこなくて崩れる。
脚が長すぎるのだ。体に対して、明らかに長すぎる。説明書なしで折りたたみ椅子を組み立てているように見えた。
「手、貸した方が」
「触んな」
宮田さんが即答した。
「自分で立たせろ。立てねぇ馬は、乳も飲めねぇ」
サラブレッドの仔馬は、生まれて1時間ほどで立つ。
立って、自分で母親の乳を探す。
知ってはいた。
こんなに転ぶとは、どこにも書いてなかった。
仔馬がまた崩れた。
藁に顔から突っ込んで、不思議そうに瞬きをしている。
「……がんばれ」
気づいたら、口に出ていた。
奏がちらっとこっちを見た。何も言わなかった。
「……さっきさ」
しばらくして、奏が言った。
「光、揺れてたよね」
「揺れてない」
「揺れてた」
「懐中電灯が古いんだよ」
「ふうん」
奏が鼻で笑った。
自分だって、手袋を外す指がまだ震えていたくせに。
前脚。
後ろ脚。
ぐらり、と揺れて――
立った。
4本の脚を、全部ばらばらの方向に突っ張って。
それでも、立っていた。
腕時計を見る。4時25分。
生まれてから、52分。
胸ポケットに手が伸びた。
万年筆を握る。
いつもの、ひやりとした感触。
視界に、文字が浮かぶ。
【牡・0歳】
【スピード:A】【スタミナ:A+】【パワー:B+】【根性:A】【賢さ:B+】
……ん?
瞬きをした。
消えない。
万年筆を一度離して、握り直す。
同じ文字が、同じ場所に出た。
頭の中で、シズクの数値を並べる。
スピード、B+。スタミナ、A。パワー、C。根性、A-。賢さ、B。
全部、上だ。
5つとも、母親を超えている。
パワーのC。シズクの一番の弱点。
それがB+まで上がっている。父親の『カムイボシ』だって、パワーはC+しかなかったのに。
配合相性◎。
ゲームなら、両親の平均にちょっと上振れが乗る、くらいの意味だった。
こんな跳ね方は、ゲームでも見たことがない。
生まれて52分。
脚が長すぎて、まだ乳の場所も知らない仔馬が。
……これは、化けるなんてもんじゃない。
◇
気づいたら、誰も喋っていなかった。
宮田さんはバケツの上で、膝に肘をついている。
奏は寝藁に座り込んだまま、頬に袖で拭いた跡が残っている。
俺は万年筆を握ったまま、まだ瞬きをしていた。
仔馬がよろよろと、シズクの腹の下に潜り込んだ。
鼻先で探る。違う。前の方に行く。違う。
やっと見つけて、吸い付いた。
ちゅ、ちゅ、と小さな音がする。
「……飲んだ」
奏が言った。
宮田さんが、長い息を吐いた。
外で、エンジンの音がした。
「すまんすまん、遅くなった。……あれ、もう産まれてる?」
「遅ぇ」
宮田さんはそれしか言わなかった。
先生は仔馬の脚を1本ずつ触って、胸に聴診器を当てて、口の中をのぞいた。
「異常なし。いい仔だ」
それから、寝藁の脇に丸めて捨てられた手袋を見る。
「脚、曲がってたのか。誰が直した?」
宮田さんが、顎で奏を指した。
「……習ったとおりにやっただけです」
「初めてで、あれか。大したもんだ」
奏が下を向いた。耳が赤い。
先生が後産を確かめている間に、宮田さんが俺の脇腹を肘でつついた。
「カムイボシんとこに、電話しとけよ。朝になったら」
「……ああ」
そうだった。
この仔馬の権利の一部は、カムイボシ牧場のものだ。種付け料の代わりに、俺が差し出した約束。
あのとき差し出したものの値段を、向こうの牧場主はまだ知らない。
俺も、さっきまで知らなかった。
仔馬が乳から口を離して、こっちを見た。
濡れた、黒い目。
「陸」
奏が、鼻をすすりながら言った。
「この子、なんて呼ぶの」
……そうか。
まだ、呼び方すらない。
「――名前、決めないとな」




