朝露という名前
名前を書く欄が、ない。
事務所の机に広げた書類を、上から下までもう一度見た。
毛色。性別。生年月日。父と母の名前。
あとは馬の輪郭だけを描いた図が3つ。正面と、右と、左。
「宮田さん。これ、名前どこに書くんですか」
「書かねぇ」
ストーブの前で、宮田さんが湯呑みをすすった。
「そいつは血統登録だ。名前は2歳になって、走らせる段になってから付ける」
「じゃあ、この図は」
「白いとこと旋毛を描き込む。人間でいう指紋だな」
旋毛。つむじのことだ。
額に1つ、首にもいくつかある。今朝、奏が仔馬を撫でながら数えていった。
俺には全部、同じ渦に見えた。
生まれて、まだ6時間ちょっと。
徹夜明けの頭で、図の額のあたりに丸を描く。
毛色の欄は空けとけと言われた。産毛のうちは分からないらしい。
描きながら、朝の電話を思い出していた。
『カムイボシ牧場』に電話したのは、7時ちょうどだった。
「牡です。無事に立ちました。乳も飲んでます」
牧場主は「そうか」と言ったきり、5秒くらい黙った。
それから、ぼそっと付け足した。
「脚は」
「長いです。長すぎるくらい」
「……そうか。あいつも、生まれたときはそうだった」
あいつ、というのはカムイボシのことだろう。
また少し黙ってから。
「名前は」
「まだです」
「決まったら教えろ。……うちの馬でもあるんだからな」
切れた。
うちの馬でもある。
それはそう。そういう約束で種付けしてもらったのは、俺だ。
つまり、変な名前は付けられない。
「――で、名前の候補は?」
事務所の戸が開いて、奏が入ってきた。
作業着の下に、昨日と同じスウェットが見えている。たぶん1回帰って、寝て、また来た。
「寝たのか」
「2時間。……夜番はお父さんが代わってくれた」
「なんで知ってんだよ」
「宮田さんが言ってた。カムイボシの牧場主さんに、せっつかれてるって」
宮田さんは湯呑みから目を上げなかった。
口が軽いのは三上さんだけだと思っていた。
「一応、考えてはある」
メモ帳を開く。朝から書き溜めた候補が、1ページ分並んでいる。
「『ゲンセンイチゴウ』」
「却下」
「早くない?」
「なに、ゲンセンって」
「厳選。ゲームで、いい個体だけを選び抜くこと」
「却下」
2回言われた。
「じゃあ『カムイシズク』。両親から取る。王道だろ」
「王道すぎて、同じこと考えてる人が日本中にいると思う」
「……『オオバケ』」
奏が黙った。
宮田さんが湯呑みを置いた。
「化けるって名前付けて、化けなかったらどうすんだ」
「化けます」
「みんなそう言って付けるんだ」
メモ帳にはまだ12個残っていた。
読み上げるのはやめた。
「カタカナで9文字まで。有名な馬と同じ名前もだめ。あと、変な名前も通らないからね」
「オオバケは変か」
「変」
即答だった。
「宮田さんは、なんかないんですか」
宮田さんが、湯呑みの底を見た。
「先代は、だいたい酒の名前だった」
「酒」
「『ヨイドレ』ってのがいた。よく走った」
「それ、通ったんですか」
「通った」
通るのかよ。
奏が机の上の書類を引き寄せた。
母の欄に、俺の字で『ツキノシズク』と書いてある。
「……月の雫、か」
奏はしばらく、その字を指でなぞっていた。
「ねえ。あの子が生まれたの、何時だっけ」
「3時半。立ったのが4時25分」
「帰るとき、外ちょっと明るくなりかけてたよね。藁の上、まだ濡れてて」
知らない。
俺はずっと、仔馬の頭の上に浮かんだ数字を見ていた。
「陸、ずっとあの子の顔ばっかり見てたもんね」
「……まあな」
顔じゃなくて、その上だ。
とは言えない。
「朝露、なんてどう?」
奏が顔を上げた。
「月の雫が、朝には露になってる感じ」
頭の中で、並べてみる。
『アサツユ』。4文字。
ついでに、競馬中継の声で呼んでみた。
――先頭は、アサツユ。
奏がもう携帯で調べていた。
「有名な馬には、いないみたい。たぶん通る」
悪くない。
というか。
「――いいな、それ」
「え。いいの?」
「いい。それにする」
「即決? さっきまでオオバケとか言ってた人が?」
「オオバケは忘れろ」
宮田さんが口の中で1回だけ「アサツユ」と転がした。
「……悪くねぇ」
奏の口元がちょっとだけ緩んだ。
すぐに引き締めて、書類に目を落とす。
「番号で呼ばれるより、ずっといいでしょ」
小さい声だった。
『篠宮ファーム』の、18番。奏が『サクラユキ』と呼び直していた牝馬。
たぶん、あの馬のことも言っている。
「お前、名前付けるの上手いよな」
「褒めても何も出ないから。……ほら、旋毛。首のはここじゃなくて、もうちょっと下」
奏が俺の鉛筆を取り上げて、図に丸を描き足した。
ごまかし方が雑だった。
カムイボシ牧場には、メールで送った。
返事は、昼過ぎに1行だけ来た。
「悪くない」
この辺の大人は、褒めるとき全員それしか言わないのか。
◇
夕方の馬房は、乾草と乳の匂いがした。
「アサツユ」
呼んでみた。
反応なし。シズクの腹の下に顔を突っ込んで、乳を飲んでいる。
当たり前だ。生まれて半日の馬が、自分の名前を知っているわけがない。
シズクだけが耳をこっちに向けた。
お前じゃない。
胸ポケットの万年筆に、手を伸ばす。
確かめるだけだ。
シズクを視ると、いちばん上に名前が出る。今朝のこいつは【牡・0歳】だけだった。
名前を付けたら、表示も変わるんじゃないか。
それをちょっと期待していた。正直に言うと。
ひやりとした感触。
視界に、文字が浮かぶ。
【アサツユ(牡・0歳)】
【スピード:A】【スタミナ:A+】【パワー:B+】【根性:A】【賢さ:B+】
【隠れ適性:中距離向き】
出た。名前。
ちょっと嬉しい。
……いや、待て。
行が、1つ増えている。
万年筆を離す。文字が消える。
握り直す。
同じ場所に、同じ3行目が出た。
隠れ適性。
今朝、生まれた直後に視たときは、こんな欄はなかった。
なかった、というか。そんな項目があること自体、知らなかった。
中距離向き。
2000mとか、そのあたり。
スタミナA+の仔が、中距離。それは、まあ、分かる。分かるけど。
ゲームでも、適性を無視して出すのは初心者の負け方だった。
俺も最初の10周くらいはやった。
振り返って、シズクを視た。
【ツキノシズク(牝・7歳)】
【スピード:B+】【スタミナ:A】【パワー:C】【根性:A-】【賢さ:B】
【隠れ適性:中距離向き】
シズクにも、出た。
今まで何回も視てきた馬なのに。
桜庭の御曹司は、シズクの戦績を「平凡以下」と言っていた。
この馬が現役のころ、何mのレースを走っていたのか。
俺は知らない。
……あとで調べよう。
なんで今になって視えるようになったのか。
考えてみる。
出産に立ち会ったから。
名前を付けたから。
徹夜したから。
最後のは違うと思いたい。
ゲームで言えば、プレイヤーのレベルが上がって、図鑑の項目が1つ開いた感じだ。
……まだ、視えてないことがあるんだな。
アサツユが乳から口を離した。
濡れた口のまま、こっちを見て、くしゃみを1つした。
「名前、呼んでたな」
振り返ると、宮田さんが寝藁のフォークを担いで立っていた。
「……聞いてたんですか」
「でけぇ声だった」
そんなに大きくなかったと思う。
宮田さんの目が、俺の手元で止まった。
万年筆を握ったままだった。
「……先代も、それやってたな」
「それ?」
「馬に名前付けた日は、そうやって馬房の前でそいつを握ってた。書きもしねぇのに」
ポケットに戻しかけた手が、半分で止まる。
「何してたんですかね」
「知らん。聞いても笑うだけだった」
宮田さんはそれ以上言わなかった。
俺も聞かなかった。
宮田さんは馬房の柵に腕を乗せて、アサツユの脚をしばらく眺めていた。
長い脚。昨日の夜より、少しだけまっすぐ立っている。
「秋には離乳だ」
「はい」
「で、その次の秋には、育成に出す」
「育成?」
「人を乗せられる馬にするとこだ。うちじゃ、それはできねぇ。外に預ける」
宮田さんが柵から腕を下ろした。
「よそ様に預けたら、もう毎日は見れねぇぞ」
アサツユがまたシズクの腹の下に潜っていった。
来年の秋。
毎日見られるのは、あと1年と半年ちょっと。
……それまでに、あと何個開くんだろうな。




