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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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12/62

天下桜、誕生す




 3月9日、午前4時51分。


 『桜庭ステーブル』本社棟、3階。

 生産部門統括、桜庭玲司。25歳。

 ネクタイも締めないまま、彼はモニターの前に座っていた。


 画面は16分割。出産厩舎の馬房を映すカメラのうち、見ているのは右下の1枠だけだ。

 7番馬房。『ミスティアリア』。


 藁の上に、濡れた塊が横たわっている。

 スタッフが2人、その鼻先を拭っていた。


 内線が鳴った。


「生まれました。牡です」


 繁殖主任の木島の声は、少し上ずっていた。


「時刻は」


「4時51分です。胎盤も問題なく出てます。先生ももう来てて」


「体重は」


「……あ、すいません。まだです。立ってから量ります」


「量ったら連絡を」


 受話器を置く。

 画面の中で、仔馬が首を持ち上げた。前脚を突っ張って、すぐに崩れる。

 もう一度。崩れる。


 玲司は手元のタブレットを開いた。

 自社の出産記録、過去10年分で412件。生まれてから立つまでの中央値は52分。

 ストップウォッチは、とっくに動いていた。


 38分で立った。


「……速いな」


 声に出してから、誰もいない部屋を見回した。



 体重は58キロ。自社平均より6キロ重い。

 初乳はもう飲んだ。血液検査は昼に出る。

 木島からの報告を、1項目ずつ表に打ち込んでいく。数字が全部、緑のセルに収まった。


 『グランクレスト』×ミスティアリア。

 種付け料2000万円の父に、重賞3勝の看板牝馬。

 牡なら、名前はもう決まっていた。


 『テンカザクラ』。


 正式な馬名登録は2歳になってからだ。それでも社内では、受胎確認の日からこの名前で呼ばれている。

 決めたのは会長だった。


 午前6時。

 玲司は携帯を取り出し、「会長」と登録された番号を押した。


 2コール目で出た。


「生まれたか」


「はい。4時51分、牡です。起立まで38分、体重58キロ。初乳も済んでいます」


「そうか」


 それだけだった。

 電話の向こうで、新聞をめくる音がする。


「数字は全部、社内平均の上です。起立時間は過去10年で上位5%に入ります。それと――」


「玲司」


「はい」


「それくらい、うちの資金力なら当然だ」


 新聞の音が止まった。


「2000万の種に、うちで一番の母だぞ。それで並の仔が出たら、そっちのほうが問題だろう」


「……はい」


「それより、吉岡のところはどうなった」


 『吉岡牧場』の土地の件だ。先月から条件を詰めている。


「来週、もう一度伺います」


「当然の結果に、いちいち電話はいらん。結果はレースで出せ」


 切れた。


 携帯を机に伏せる。

 モニターの右下で、仔馬が母の腹の下に頭を突っ込んでいた。乳を探して、見当違いのところを押している。


「当然、か……」


 去年の秋もそうだった。

 セリで玲司が選んだ1歳馬が、夏の2歳重賞を勝った。落札額は3800万円。社内では「高すぎる」と言われた馬だ。

 報告の電話で、父は「その値段なら勝って当然だ」と言った。

 その前の年。生産部門の事故率を半分にした。

 「金をかけたんだから当然だ」。


 当然じゃなかったことは、何だったか。

 思い出そうとして、やめた。たぶん、探しても出てこない。


 表の数字は、さっきから何も変わっていない。

 全部、緑のままだ。


◇


 出産厩舎に入ると、消毒液の匂いがした。


 馬房は36。今朝埋まっているのは29。どの馬房の上にもカメラが付いている。

 7番の前には、木島と若いスタッフが並んで立っていた。


「おはようございます、統括」


「おはようございます。近くで見ても?」


「どうぞ。もう落ち着いてます」


 玲司は2歩手前で足を止めた。

 ジャケットの袖口のボタンを外して、ポケットに入れる。金具が柵に当たると、母馬が嫌がる。


「天井の照明、1段落とせますか。カメラの感度は足りますね」


「あ、はい。足ります」


 若いスタッフが慌てて壁のスイッチに走った。明かりが少し黄色くなる。

 ミスティアリアが耳を一度だけこちらに向けて、また仔馬のほうへ戻した。


 柵越しに覗き込む。

 テンカザクラは母の脇で、脚を折って座っていた。毛はまだ濡れて束になっている。額に、小さな白い星。

 目が合った気がした。

 すぐに母の腹のほうへ顔を背けられた。


「放牧は何日目からの予定ですか」


「天気次第ですけど、3日目に小パドックで――」


「4日目にしてください。今週は冷え込む予報です。体重は毎朝、同じ時刻に。授乳の回数はカメラから拾えますね」


「拾えます」


「1時間ごとに集計して、僕のところへ。先生には週2回、定期で診てもらってください。予算は気にしなくていい」


「……全部、統括に直接ですか」


「全部、僕に直接です」


 木島がメモを取る手を止めて、少し笑った。


「会長も、お喜びだったでしょう」


 玲司は柵から目を離さなかった。


「当然だそうです」


「はあ」


「当然だそうですよ」


 木島は何か言いかけて、やめた。

 代わりに、若いスタッフのほうが口を開いた。


「そういや、ひなたさんとこも先月生まれたらしいっすね」


「ひなた?」


「篠宮さんとこのお嬢さんが、夜中に取り上げに行ったって。牡だそうです」


「おい」


 木島が肘で小突いた。若いスタッフは気にしない。


「いや、ほんとなんですって。三上さんが言い触らしてて。あそこの若旦那、目利きなんだって」


「目利き」


「三上さんが買った1歳馬、あの人が見たら25万も値切れたらしいっすよ。見ただけで」


「見ただけで、ですか」


「見ただけで」


 玲司は少しだけ笑った。

 馬を見ただけで値段が分かるなら、データ部門は要らない。

 どうせ、たまたまだ。サンプル1の偶然を、田舎の噂が膨らませているだけだ。


 ひなた牧場。

 名前を聞いた時点で、とっくに思い出していた。


 吉岡の土地の、隣だ。


 それから、篠宮ファームの応接室。着古したパーカーに、寝癖の男。

 負債だけの牧場だと言ったら、黙った。

 外れ血統だと言っても、黙った。

 それなのに、だ。


 ――うちには、繁殖牝馬が1頭います。


 誰も聞いていないのに、自分から言い出した。

 情に流されて抱えるのが一番の損失だ、と言った直後に。


 相手は『カムイボシ』。玲司はそれを知っている。

 調べたからだ。

 故障歴あり、重賞は未勝利。種付け料はグランクレストの100分の1にも届かない。

 調べる理由なんて、どこにもなかったのに。


「統括?」


「何でもありません」


 母の戦績。父の産駒成績。生産者の実績。

 どの項目を並べても、比較にすらならない。サンプルサイズの話をする以前の問題だ。


 それでも、あの男の顔が浮かぶ。

 「参考になりました」と言って出ていったときの顔。

 悔しがってもいなかった。怒ってもいなかった。

 何かを知っているような顔だった。


 ……知っているわけがない。何を。


 気づけば、携帯で「ひなた牧場」と打ち込んでいた。

 出てきたのは、更新の止まったホームページが1つ。

 最後のお知らせは5年前。「当歳馬の写真を更新しました」。写真のリンクは切れていた。

 生産馬の欄には名前が4つ。どれも地方で数勝して終わっている。


 ほら見ろ。

 画面を消して、ポケットにしまった。

 何を確かめたかったのかは、自分でもよく分からない。



 テンカザクラが立ち上がった。

 まだ揺れる脚で、母の乳を探す。今度はちゃんと見つけた。


 この馬が重賞を勝っても、たぶん父は「当然だ」と言う。

 GⅠを勝っても、たぶん言う。

 ダービーなら。


 ……どうだろう。

 分からない。


 分からないから、全部勝つしかない。


 ただ、1つだけはっきりしていることがある。

 勝って当然の馬が、あの牧場の馬に負けたら。

 そのとき父は、当然とは言わない。


 玲司は柵から手を離した。


「木島さん。さっきの集計、映像も残しておいてください。全部」


「全部、ですか」


「全部です」


 厩舎を出て、車のドアに手をかける。

 一度だけ振り返った。7番馬房の窓は、ここからは見えない。


 負債だけの牧場。

 誰も欲しがらない種牡馬。

 外れ血統の、たった1頭の母。


 ――負けるわけがない。


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