天下桜、誕生す
3月9日、午前4時51分。
『桜庭ステーブル』本社棟、3階。
生産部門統括、桜庭玲司。25歳。
ネクタイも締めないまま、彼はモニターの前に座っていた。
画面は16分割。出産厩舎の馬房を映すカメラのうち、見ているのは右下の1枠だけだ。
7番馬房。『ミスティアリア』。
藁の上に、濡れた塊が横たわっている。
スタッフが2人、その鼻先を拭っていた。
内線が鳴った。
「生まれました。牡です」
繁殖主任の木島の声は、少し上ずっていた。
「時刻は」
「4時51分です。胎盤も問題なく出てます。先生ももう来てて」
「体重は」
「……あ、すいません。まだです。立ってから量ります」
「量ったら連絡を」
受話器を置く。
画面の中で、仔馬が首を持ち上げた。前脚を突っ張って、すぐに崩れる。
もう一度。崩れる。
玲司は手元のタブレットを開いた。
自社の出産記録、過去10年分で412件。生まれてから立つまでの中央値は52分。
ストップウォッチは、とっくに動いていた。
38分で立った。
「……速いな」
声に出してから、誰もいない部屋を見回した。
体重は58キロ。自社平均より6キロ重い。
初乳はもう飲んだ。血液検査は昼に出る。
木島からの報告を、1項目ずつ表に打ち込んでいく。数字が全部、緑のセルに収まった。
『グランクレスト』×ミスティアリア。
種付け料2000万円の父に、重賞3勝の看板牝馬。
牡なら、名前はもう決まっていた。
『テンカザクラ』。
正式な馬名登録は2歳になってからだ。それでも社内では、受胎確認の日からこの名前で呼ばれている。
決めたのは会長だった。
午前6時。
玲司は携帯を取り出し、「会長」と登録された番号を押した。
2コール目で出た。
「生まれたか」
「はい。4時51分、牡です。起立まで38分、体重58キロ。初乳も済んでいます」
「そうか」
それだけだった。
電話の向こうで、新聞をめくる音がする。
「数字は全部、社内平均の上です。起立時間は過去10年で上位5%に入ります。それと――」
「玲司」
「はい」
「それくらい、うちの資金力なら当然だ」
新聞の音が止まった。
「2000万の種に、うちで一番の母だぞ。それで並の仔が出たら、そっちのほうが問題だろう」
「……はい」
「それより、吉岡のところはどうなった」
『吉岡牧場』の土地の件だ。先月から条件を詰めている。
「来週、もう一度伺います」
「当然の結果に、いちいち電話はいらん。結果はレースで出せ」
切れた。
携帯を机に伏せる。
モニターの右下で、仔馬が母の腹の下に頭を突っ込んでいた。乳を探して、見当違いのところを押している。
「当然、か……」
去年の秋もそうだった。
セリで玲司が選んだ1歳馬が、夏の2歳重賞を勝った。落札額は3800万円。社内では「高すぎる」と言われた馬だ。
報告の電話で、父は「その値段なら勝って当然だ」と言った。
その前の年。生産部門の事故率を半分にした。
「金をかけたんだから当然だ」。
当然じゃなかったことは、何だったか。
思い出そうとして、やめた。たぶん、探しても出てこない。
表の数字は、さっきから何も変わっていない。
全部、緑のままだ。
◇
出産厩舎に入ると、消毒液の匂いがした。
馬房は36。今朝埋まっているのは29。どの馬房の上にもカメラが付いている。
7番の前には、木島と若いスタッフが並んで立っていた。
「おはようございます、統括」
「おはようございます。近くで見ても?」
「どうぞ。もう落ち着いてます」
玲司は2歩手前で足を止めた。
ジャケットの袖口のボタンを外して、ポケットに入れる。金具が柵に当たると、母馬が嫌がる。
「天井の照明、1段落とせますか。カメラの感度は足りますね」
「あ、はい。足ります」
若いスタッフが慌てて壁のスイッチに走った。明かりが少し黄色くなる。
ミスティアリアが耳を一度だけこちらに向けて、また仔馬のほうへ戻した。
柵越しに覗き込む。
テンカザクラは母の脇で、脚を折って座っていた。毛はまだ濡れて束になっている。額に、小さな白い星。
目が合った気がした。
すぐに母の腹のほうへ顔を背けられた。
「放牧は何日目からの予定ですか」
「天気次第ですけど、3日目に小パドックで――」
「4日目にしてください。今週は冷え込む予報です。体重は毎朝、同じ時刻に。授乳の回数はカメラから拾えますね」
「拾えます」
「1時間ごとに集計して、僕のところへ。先生には週2回、定期で診てもらってください。予算は気にしなくていい」
「……全部、統括に直接ですか」
「全部、僕に直接です」
木島がメモを取る手を止めて、少し笑った。
「会長も、お喜びだったでしょう」
玲司は柵から目を離さなかった。
「当然だそうです」
「はあ」
「当然だそうですよ」
木島は何か言いかけて、やめた。
代わりに、若いスタッフのほうが口を開いた。
「そういや、ひなたさんとこも先月生まれたらしいっすね」
「ひなた?」
「篠宮さんとこのお嬢さんが、夜中に取り上げに行ったって。牡だそうです」
「おい」
木島が肘で小突いた。若いスタッフは気にしない。
「いや、ほんとなんですって。三上さんが言い触らしてて。あそこの若旦那、目利きなんだって」
「目利き」
「三上さんが買った1歳馬、あの人が見たら25万も値切れたらしいっすよ。見ただけで」
「見ただけで、ですか」
「見ただけで」
玲司は少しだけ笑った。
馬を見ただけで値段が分かるなら、データ部門は要らない。
どうせ、たまたまだ。サンプル1の偶然を、田舎の噂が膨らませているだけだ。
ひなた牧場。
名前を聞いた時点で、とっくに思い出していた。
吉岡の土地の、隣だ。
それから、篠宮ファームの応接室。着古したパーカーに、寝癖の男。
負債だけの牧場だと言ったら、黙った。
外れ血統だと言っても、黙った。
それなのに、だ。
――うちには、繁殖牝馬が1頭います。
誰も聞いていないのに、自分から言い出した。
情に流されて抱えるのが一番の損失だ、と言った直後に。
相手は『カムイボシ』。玲司はそれを知っている。
調べたからだ。
故障歴あり、重賞は未勝利。種付け料はグランクレストの100分の1にも届かない。
調べる理由なんて、どこにもなかったのに。
「統括?」
「何でもありません」
母の戦績。父の産駒成績。生産者の実績。
どの項目を並べても、比較にすらならない。サンプルサイズの話をする以前の問題だ。
それでも、あの男の顔が浮かぶ。
「参考になりました」と言って出ていったときの顔。
悔しがってもいなかった。怒ってもいなかった。
何かを知っているような顔だった。
……知っているわけがない。何を。
気づけば、携帯で「ひなた牧場」と打ち込んでいた。
出てきたのは、更新の止まったホームページが1つ。
最後のお知らせは5年前。「当歳馬の写真を更新しました」。写真のリンクは切れていた。
生産馬の欄には名前が4つ。どれも地方で数勝して終わっている。
ほら見ろ。
画面を消して、ポケットにしまった。
何を確かめたかったのかは、自分でもよく分からない。
テンカザクラが立ち上がった。
まだ揺れる脚で、母の乳を探す。今度はちゃんと見つけた。
この馬が重賞を勝っても、たぶん父は「当然だ」と言う。
GⅠを勝っても、たぶん言う。
ダービーなら。
……どうだろう。
分からない。
分からないから、全部勝つしかない。
ただ、1つだけはっきりしていることがある。
勝って当然の馬が、あの牧場の馬に負けたら。
そのとき父は、当然とは言わない。
玲司は柵から手を離した。
「木島さん。さっきの集計、映像も残しておいてください。全部」
「全部、ですか」
「全部です」
厩舎を出て、車のドアに手をかける。
一度だけ振り返った。7番馬房の窓は、ここからは見えない。
負債だけの牧場。
誰も欲しがらない種牡馬。
外れ血統の、たった1頭の母。
――負けるわけがない。




