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「1歳馬 夏期管理表」
表紙にそう書かれた冊子が、事務所の机の上で3日目を迎えている。
奏が置いていった。『篠宮ファーム』で実際に使っているやつらしい。付箋が7枚貼ってある。
『アサツユ』は1歳になった。
去年の秋に離乳した。一晩じゅう鳴かれて、俺も一晩じゅう寝られなかった。
で、正月が来たら、馬は全頭そろって1つ年を取った。
誕生日は関係ないらしい。全馬、1月1日。
雑じゃないか、それ。
冊子をめくる。
1歳の夏は馬体を作る時期。
飼い葉は段階的に増やす。
放牧は日中のみ。夜は馬房で休ませ、毛艶を整える。
7月からはセリに向けた引き運動を始める。
セリ。
アサツユは売らない。
別に、冊子が間違ってるわけじゃない。
年に50頭以上作って、その多くをセリに出す牧場の、正しいやり方だ。見栄えのいい体を作って、高く売る。
付箋の1枚に、奏の字で「夜はちゃんと入れること!」と書いてある。
念押しされてる。
◇
放牧地の柵の前で、万年筆を握る。
アサツユは、1年と少しでずいぶん大きくなった。
脚は相変わらず長い。体がやっと脚に追いついてきた、という感じだ。
【アサツユ(牡・1歳)】
【スピード:A】【スタミナ:A+】【パワー:B+】【根性:A】【賢さ:B+】
【隠れ適性:中距離向き】
生まれた日から、並びは1つも変わっていない。
冊子のやり方は、体を大きくする方。
飼い葉を増やして、夜は馬房でじっとさせる。
それ自体は悪くない。悪くないけど。
スタミナA+の中距離型を、1日の半分以上じっとさせとくのか。
ゲームなら、得意を腐らせる典型的なミスだ。
伸ばすならスタミナと、根性の方。
筋肉は、たぶん後からでも付く。たぶん。
アサツユが草から顔を上げて、こっちを見た。
口から草が1本ぶら下がっている。
「……お前、もうちょい真面目な顔できない?」
できないらしい。
◇
「宮田さん。裏の放牧地って、使えます?」
洗い場でバケツを洗っていた宮田さんの手が、止まった。
「……裏の? 坂のか」
「はい。あそこ」
「もう何年も放してねぇぞ。柵も傷んでる」
「直します」
宮田さんがバケツを置いた。
「で、何させる気だ」
言うことは昨日の夜に紙に書いておいた。
紙は事務所に置いてきた。
「えっと。昼夜放牧にしたいんです。夜も出しっぱなしで」
「夜も」
「で、水桶を坂の上に置いて、乾草を下に置きます。そしたら、勝手に1日何回も登り降りするじゃないですか」
「……馬を坂で遊ばせんのか」
「遊ばせるっていうか。自主練してもらう感じで」
「坂で」
「坂の上り下りで鍛えるっていうより、回数です。1日20往復とか、勝手にやってくれたら。夜じゅう――いや、夜もずっと、歩いててほしいんです」
「型破りもいいとこだな」
宮田さんは首にかけたタオルで手を拭いた。拭き終わっても、こっちを見ない。
「1歳の夏は体を作る時期だ。細いまま育成に出したら、向こうで笑われる」
「笑われるのは別にいいです。売らないんで」
「売らなくても走らせんだろ。走るにはパワーが要る」
正論だ。
困った。
「こいつは、パワーよりスタミナと根性を活かす方が伸びます」
「なんでそう言える」
それは、視えてるからです。
とは言えない。
ポケットの中で、万年筆を握る。
握ったところで、宮田さんには何も視えない。
「……シズクの昔のレース、調べたんです」
去年、『ツキノシズク』の現役時代をあとで調べようと思った。
あとで、が1年以上になった。調べたのは先週だ。
「14戦。全部1400m以下でした。長い距離は、1回も走ってない」
「…………」
「父親の『カムイボシ』も、勝ったのは長いとこばっかりです。両方とも、短いとこの馬じゃない」
それで、と言いかけて、やめた。
あとは馬を見てもらった方が早い。
宮田さんが、放牧地の方を見た。
アサツユは柵の角で、首を伸ばして隣の草を食べようとしている。届いてない。
「……シズクはな」
「はい」
「うちに来た最初の年、裏の坂に放してた。先代がな。あいつだけ」
「……え」
「朝行くと、いっつも坂の上にいた。そのうち柵が傷んで、やめちまったが」
知らなかった。
なんで先代はシズクだけ裏に放したのか。聞きたい。けど、たぶん宮田さんも知らない。
宮田さんが、もう一度バケツを持ち上げた。
「柵はお前が直せ」
「はい」
「2週間だ。脚に何か出たら、すぐ戻す」
「……はい」
柵の修理には丸2日かかった。
杭を32本打ち直した。手のひらにマメが3つできて、2つ潰れた。
初日の夕方。
裏の放牧地にアサツユを放すと、あいつは坂の下でしばらく立ち止まって、それから水桶まで一直線に駆け上がっていった。
水を飲んで、すぐ降りてきた。
で、また登った。
……いや、飲みすぎだろ。
◇
7月の半ばに、奏が来た。
裏の放牧地を見て、夕方なのに放されたままのアサツユを見て、それから俺を見た。
「夜はちゃんと入れることって、書いたよね」
「書いてあった」
「読んだ?」
「読んだ」
「読んで、これ?」
付箋7枚分の圧がある。
奏は柵をくぐって、アサツユの4本の脚を順番に触っていった。蹄の裏まで見た。
最後に首筋を叩いて、戻ってくる。
「……脚、きれい。蹄も減り方が均等」
「だろ」
「だろ、じゃない。夏は虫も多いし、夜に何かあったら誰も見てないんだからね」
「夜は俺が2回見に行ってる。1時と4時」
奏が、ちょっとだけ黙った。
「……寝てないじゃん」
「昼寝してる」
奏は何か言いかけて、やめて、虫よけのスプレーを1本置いて帰っていった。
篠宮ファームのロゴ入りだった。
◇
8月の終わり。
朝5時の裏の放牧地は、草が濡れている。
2週間の約束は、とっくに過ぎていた。
宮田さんは「戻す」とは一度も言わなかった。「続けろ」とも言わなかった。毎朝、俺より先に坂の下に立っているだけだ。
今朝も、いた。
ただ、今朝はしゃがんでいる。
「宮田さん?」
「右の後ろ」
アサツユの右後ろ脚。飛節の少し下に、赤い線が1本走っていた。
毛が剥げて、血が滲んでいる。
……やべ。
2週間。脚に何か出たら、すぐ戻す。
宮田さんは傷の周りを指で押した。上から順に、ゆっくり。
アサツユは嫌がらない。鼻先で宮田さんの帽子をつついている。
長い。
押してるだけの時間が、やたらと長い。
「…………かすり傷だ」
「……」
「熱も持ってねぇ。柵じゃねぇな。夜中に坂で転んだんだろ」
宮田さんが立ち上がって、膝を2回叩いた。
助かった……。
いや、まだ分からない。戻すって言われるかもしれない。
アサツユは、自分の脚のことなんか知らない顔で坂を登り始めた。
途中から、速歩になった。
坂の上で水桶をひっくり返しかけて、慌てて飛びのいている。
それから、また降りてくる。
息は乱れていない。
2か月前は、3往復もすれば坂の途中で立ち止まっていた。
今は止まらない。止まる気配もない。
宮田さんが、目を細めた。
「こいつは、思った以上に伸びしろがあるな」
「……ですよね」
「調子に乗んな」
乗ってないです。
ちょっとしか。
宮田さんは、帽子についた鼻水を手の甲で拭いた。
それから、しばらく黙って坂を見ていた。
「……あの冊子な」
「奏のですか」
「返しとけ」
え、と言う前に、宮田さんがこっちを見た。
「……こいつは、お前のやり方でいく」
宮田さんはそれだけ言うと、救急箱を取りに事務所の方へ歩いていった。
途中で1回だけ振り返って、「消毒すんだから、捕まえとけ」と言った。
アサツユの無口を掴む。
ポケットの中で、万年筆を握る。
【アサツユ(牡・1歳)】
【スピード:A】【スタミナ:A+】【パワー:B+】【根性:A+】【賢さ:B+】
【隠れ適性:中距離向き】
――根性。
A、だったのが、A+になっている。
1回、離す。
握り直す。
A+。
生まれた日から1年半、1度も動かなかった並びが、1つだけ動いた。
ちょっと。ほんのちょっとだけ。
……ちなみに、パワーはB+のままだ。
坂なのに。
宮田さんには黙っておこう。
救急箱を抱えて、宮田さんが戻ってきた。
消毒液をかけると、アサツユが初めて嫌そうな顔をした。
「そろそろ、育成牧場に預ける時期だ」
脱脂綿を押し当てたまま、宮田さんが言った。
「預け先は、もう話つけてある。来月の頭だ」
「……来月」
「坂はねぇぞ。向こうには向こうのやり方がある」
アサツユが、宮田さんの帽子をまたつついた。
来月の頭。
毎日見られるのは、あと1週間とちょっと。
坂は持っていけない。
……今度は、紙、忘れずに持っていこう。




