無名血統の凡庸な仔
馬房の扉に、名札が並んでいる。
「父 グランクレスト」
「父 シルバーレイン」
「父 グランクレスト」
どれも、競馬を知らない人間でも名前くらいは聞いたことがある種牡馬だ。
種付け料は、1回でうちの借金が2回半返せる。
グランクレスト。
桜庭のところが、2000万払った種牡馬だ。
……あっちのも、今ごろどこかの育成牧場にいるんだろうな。
その列の一番奥。
堆肥置き場の手前の馬房に、白いテープが1枚貼ってある。
「父 カムイボシ 母 ツキノシズク」
手書きだった。
俺の字じゃない。たぶん、宮田さんの電話を受けた人の字だ。
◇
9月の頭。
『早坂育成牧場』は、うちから軽トラで1時間ちょっとの場所にある。
鞍を乗せて、人を乗せて、走れる体にして競馬場へ送り出す。馬の学校だ。
宮田さんいわく「うちじゃ逆立ちしても無理な仕事」らしい。
馬運車から降ろされた『アサツユ』は、駐車場の真ん中で一度だけ首を上げた。
それから、アスファルトの匂いを嗅いでいた。
坂はない。
見渡すかぎり、平らだ。
「えー……ツキノシズクの」
受け取りに来たスタッフが、書類と馬を見比べた。
30代くらい。日焼けした腕に、引き手を2本かけている。胸の名札に『西岡』とあった。
「アサツユです」
「ああ、呼び名。はい」
西岡さんは書類の名前欄に何も書き足さなかった。
アサツユの周りを1周する。
首、肩、トモ。最後にしゃがんで、脚を1本ずつ触っていく。手つきは丁寧だ。宮田さんより速いけど、雑じゃない。
右後ろで、手が止まった。
「これは」
「8月の終わりに。坂で転んだみたいで。かすり傷です」
「坂?」
「うちの裏の放牧地、坂なんです。夏の間、昼夜放牧で――」
「夜も出してたんですか。1歳を」
「はい」
「……へえ」
西岡さんが書類に何か書き込んだ。
覗いてないけど、たぶん褒め言葉じゃない。
厩舎に入る。
通路の両側の馬房から、首がいくつも出てきた。どれも艶がいい。体も一回り大きい。
グランクレストの仔の前で、西岡さんの声が少しだけ明るくなった。
「この子は今年のセリで4000万です。オーナーさんが楽しみにしてて」
「4000万」
「隣のシルバーレインのも、3000万ちょっと」
ゼロの数を数えている間に、一番奥に着いた。
白いテープの馬房。
アサツユが中を嗅いで、それから入っていった。何も気にしていない。
お前、もうちょい気にしてもいいんだぞ。
西岡さんが馬房の外から、アサツユの腹のあたりを眺めた。
「ちょっと細いですね」
「そうですか?」
「1歳の秋にしては。飼い葉、少し増やしときます。夜は馬房で休ませて、まず体を作りましょう」
飼い葉を増やす。
夜は馬房。
どこかで読んだ並びだ。付箋が7枚貼ってあった。
奏の冊子、ここでは正解らしい。
「放牧は日中、あっちの区画です」
西岡さんが指さした先に、平らな放牧地が4つ並んでいた。
どれも、きれいに整地されている。
「……平らですね」
「はい?」
「いえ」
ポケットの中で、万年筆を握る。
さっきの4000万の方を、ちらっとだけ振り返った。
【スピード:B+】【スタミナ:C+】【パワー:A】【根性:B】【賢さ:B】
……ふーん。
悪くない。パワーA。あの体なら納得だ。
ただ、スタミナC+。
ゲームなら、短いところで勝ち切るタイプ。
同じ父なら、向こうも――。
いや。1頭見ただけで決めつけたら、さっきの「へえ」と同じだ。
言わないけど。
言ったら、俺が頭のおかしい人になる。
◇
紙は、持ってきた。
昨日の夜に書いた。坂のこと、昼夜放牧のこと、水桶の位置、1日20往復。根性とスタミナを伸ばしたいこと。
A4で2枚。
軽トラのダッシュボードに置いてきた。
気づいたのは、帰りの国道だった。
……馴致の見学は2週間後、と言われていた。
ちょうどいい。そういうことにしておく。
◇
2回目は、ちゃんと手に持っていた。
丸馬場。丸い柵の中で、馬をぐるぐる回らせる場所だ。
1歳の秋は、ここで人と道具に慣れるらしい。
最初は4000万の方だった。
速い。
踏み込みも力強い。見ていて単純にかっこいい。
10周を過ぎたあたりで、首が下がってきた。
15周で、口が開いた。
「はい、ここまで。いいね、いい子」
西岡さんが綱をたぐる。
鼻息が柵の外まで聞こえた。
「さすがグランクレストだな」
「踏み込みが違うわ」
「来年の今ごろは坂路でバンバン行ってるよ」
柵にもたれていた他のスタッフが、口々に言う。
俺も、うんうん、と頷いておいた。
かっこいいのは本当だし。
次がアサツユ。
腹帯を締められても、嫌がらない。
鞍を乗せられても、耳が少し動いただけ。
西岡さんが綱を送る。
アサツユが回り始める。
速歩。
10周。
15周。
20周。
首の位置が変わらない。
口も閉じたまま。
……そりゃそうだ。
坂を1日20往復してた馬だぞ。
平らな円の周回なんか、こいつにはチュートリアルだ。
「はい、ここまで」
西岡さんが綱をたぐって、アサツユの首を叩いた。
それから、クリップボードに何か書いた。
今度は、覗いた。
『おとなしい。手がかからない。』
……そっちか。
「あの。これ」
丸馬場から戻ってきた西岡さんに、紙を渡した。
2枚とも、折り目がついている。2週間ダッシュボードにいたせいで、ちょっと日焼けもしている。
西岡さんは、1枚目を読んだ。
2枚目は、めくっただけだった。
「坂、ですか」
「はい。こいつ、たぶん、パワーよりスタミナと根性の方が伸びるんです。だから、できれば今のうちから――」
「日高さん」
「日向です」
「すみません。日向さん」
西岡さんが紙を丁寧に折りたたんで、クリップボードの裏に挟んだ。
捨てはしなかった。読み返す気もなさそうだった。
「うちは、1歳の秋は全頭、同じ流れでやってます。馴致して、夜は馬房。坂路を使うのは年が明けて、2歳になってからです」
「……」
「夜に外へ出すのは、事故が怖いんですよ。うちは預かってる身なんで。何かあったら、オーナーさんに顔向けできない」
正論だ。
今日、2回目の正論。
宮田さんの声が、頭の中で再生される。
向こうには向こうのやり方がある。
知ってる。
知ってて来た。
知ってて来たけど、一応、粘る。
「じゃあ、せめて。昼の放牧だけでも、一番広いところとか」
「放牧地は、馬の組み合わせで決めてるんですよ。気の強い子と弱い子を一緒にすると、蹴られるんで」
「アサツユ、たぶん蹴られても気にしないです」
「蹴られた子は、だいたい蹴り返すんですよ。そうすると今度は、相手のオーナーさんが気にするんで」
……ぐうの音も出ない。
ぐう。
うちは素人の牧場で、ここはプロの牧場だ。
夜の見回りだって、俺が1時と4時に起きてたからできた話で、ここで同じことをやれとは言えない。
「……分かりました。お願いします」
「はい。お預かりします」
西岡さんがにっこり笑った。
駐車場まで、西岡さんが送ってくれた。
軽トラの前で、西岡さんが立ち止まった。
何か言いにくそうに、帽子のつばを触る。
「あの、日向さん。オーナーさん、生産は今回が初めてですよね」
「まあ。牧場を継いだのも、おととしなんで」
「最初の1頭って、みんな期待しちゃうんですよ。だから先に言っておくんですけど」
西岡さんは、少しだけ声を落とした。
悪気はない。たぶん、本当に親切で言っている。
「無名血統の凡庸な仔ですね。まあ、期待はしないでください」
…………。
「あ、いや、悪い意味じゃなくて。おとなしいし、脚もきれいだし。地方なら、ちゃんと走れると思いますよ」
「……はい」
悪い意味じゃない、らしい。
無名血統。
それは事実だ。父も母も、ここの名札の列には並ばない。
見下されるのも、まあ、慣れてる。
桜庭さんには、もっとひどい顔をされた。
でも。
凡庸、は違う。
20周して、口を閉じたままの馬だぞ。
4000万が15周で口を開けたのを、あんたは「いい子」って言ったけど。
口を開きかけて、やめた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
頭を下げて、軽トラに乗った。
バックミラーの中で、西岡さんが手を振っている。
その向こうの厩舎の一番奥で、たぶんアサツユは、今日も何も気にせず乾草を食ってる。
エンジンをかける。
――見てろ。
◇
それから数ヶ月、俺は月に一度、こっそりアサツユの様子を見に通うようになった。
こっそり、というのは。
西岡さんに、あんまり来られると困る、という顔をされたからだ。
柵の外から見るだけ。万年筆を握って、並びが変わってないか確かめて、帰る。
片道1時間ちょっと。往復のガソリン代は、宮田さんには黙っている。
3回目の月。
厩舎の入口に近い、一番広い馬房に、新しい名札が貼られていた。
「父 グランクレスト 母 ミスティアリア」
……ミスティアリア。
桜庭の、看板牝馬だ。




