再会と挑発
駐車場の一番端に、黒い車が停まっていた。
厩舎から一番遠いところ。
ほかの車から軽トラ3台分くらい離れて、ぽつんと。
ピカピカだった。雪道を走ってきたはずなのに、タイヤの泥まで少ない。
このへんで、こういう車に乗ってる人は1人しか知らない。
……いや、まさかな。
『早坂育成牧場』には、4000万の馬を買うオーナーだって来る。
黒くてピカピカの車なんて、きっと珍しくない。
軽トラは、その車からなるべく遠くに停めた。
なんとなく。
12月の、2回目。
月に一度、のはずだった。
名札を見た日、あの馬房は空だった。
誰が入るのかは、名札で分かっている。どんな馬なのかは分からない。
それが気になって、2週間で来てしまった。宮田さんには、農協に行くと言ってある。
手順はいつもと同じ。柵の外から厩舎の一番奥を覗いて、万年筆を握って、並びを確かめて、帰る。
西岡さんに見つからないうちに。
……の予定だった。
入口の馬房のほうが見たくて、柵沿いに回った。
回りきる前に、聞こえた。
「――このくらいの時期から、もう体の芯ができてきてますね」
厩舎の入口のほうから、西岡さんの声がした。
明るい。4000万の前で出す声より、さらに半音くらい高い。
「歩様は?」
「きれいです。前も後ろも、踏み込みがまっすぐで」
相槌のほうの声に、聞き覚えがあった。
入口の、一番広い馬房の前。
仕立てのいいジャケットに、隙のない髪。長靴だけが借り物みたいに浮いている。
桜庭玲司がこっちを向いた。
「ああ」
1秒だけ考える顔をしてから、笑った。
「ひなた牧場の。日向くん、だったかな」
「……どうも」
西岡さんが、あ、という顔をした。
柵の外から回ってきたのは、たぶんバレている。
「お知り合いでしたか」
「少しね。篠宮さんのところで一度」
一度。
うちの牧場とシズクを「負債だけ」「外れ血統」で片づけた、あの一度だ。
まあ、事実ではある。借金は今も800万あるし。
「せっかくだから、見ていくといい」
桜庭さんが馬房の中に顎をしゃくった。
西岡さんが引き手をつけて、中の馬を通路に出す。
蹄の音が、コンクリートに4つ。
でかい。
いや、でかいだけじゃない。首から肩、肩から背中、背中からトモまで、どこにも段差がない。1本の線で描いたみたいな体だ。
水色の馬着を着せられていて、首元から覗く毛は冬なのに短い。蛍光灯の下でつるつる光っている。
額に、小さな星。
「テンカザクラ」
品評会の司会みたいな言い方だった。
「名前は父が決めた。受胎が分かった日にね。牡なら、これだって」
「……へえ」
「名札、見ただろう? うちの育成場の坂路を作り直していてね。春まで、ここの一番いい馬房を借りてる」
一番いい馬房、って自分で言うんだ。
まあ、一番いいんだけど。
桜庭さんはさらっと言って、通路の奥を見た。
一番奥。堆肥置き場の手前。
「君のところのは、あそこだったね」
……教えた覚えはない。
ポケットの中で、万年筆を握った。
見ないほうがいい気がした。
手のほうが先に握っていた。
【テンカザクラ(牡・1歳)】
【スピード:A+】【スタミナ:A】【パワー:A+】【根性:B+】【賢さ:A】
【隠れ適性:中距離向き】
…………。
名前が出た。
父親が付けた名前を、万年筆もちゃんと拾っている。
いや、そこじゃない。
スピードA+。パワーA+。賢さA。
『アサツユ』はスピードA、パワーB+、賢さB+。
3つ負けてる。
勝ってるのはスタミナと根性の2つだけ。
ゲームなら。
合計値で、向こうが上だ。
しかも中距離。
同じ土俵だ。逃げ道がない。
「どうだい」
桜庭さんが『テンカザクラ』の首を軽く叩いた。
馬は耳を一度だけこっちに向けて、すぐ戻した。落ち着いている。賢さA、納得。
「……いい馬ですね」
本心だった。
だから困る。
「だろう? 起立38分。生まれたときの体重は58キロ。うちの過去10年の中央値より上だ」
数字がすらすら出てくる。
毎朝報告させてるんだろうな、この人。
「西岡さん。奥の子は、どう?」
「アサツユですか? おとなしい子ですよ。手がかからなくて」
名前で呼んだ。
呼び名、って言ってたのに。
でも声は、普通の高さに戻っていた。
分かりやすい人だ。悪気がないのも分かる。
「前に聞いた、坂の話。あれはどうなったの」
「ああ……昼夜放牧ですか。うちでは、やってないです」
西岡さんが、ちらっとこっちを見た。
すみません、という顔だった。
前に聞いた。
桜庭さんが、西岡さんに。うちの馬のことを。
桜庭さんがこっちを向いた。
「1歳の夏に、夜も外。脚を1本やったら、それで終わりだよね。投資対効果で言えば、一番やっちゃいけない賭け方だ」
「うちは、投資するほど持ってないんで」
「だから賭けるしかない、か」
……分かってるなら言うなよ。
「僕は賭けない。いい父と、いい母と、いい環境。全部そろえて、確率を上げる。それだけだよ」
桜庭さんが、通路の奥に目をやった。
その先で、アサツユが馬房から首を出していた。
冬毛で、もこもこだった。
馬着なんてない。首まわりの毛がぼさぼさに立って、ぬいぐるみみたいになっている。前髪に乾草が1本。
こっちに気づいて、ぶるる、と鼻を鳴らした。
……お前、今それやるか。
桜庭さんは、アサツユとテンカザクラを1回ずつ見た。
それで十分、という顔だった。
「日向くん」
「はい」
「これが、本物の血統ってやつだよ」
…………。
言い返す言葉は、あった。
スタミナはうちが上です。根性もうちが上です。
――で?
どこで見たのか聞かれたら、何て答える。
万年筆を握ったら視えました、か。
それに。
3つ負けてるのも本当なんだ。
口が開かなかった。
「西岡さん、戻していいよ。ありがとう」
「はい」
西岡さんの声は、最後まで明るかった。
◇
駐車場まで、なぜか並んで歩くことになった。
出口が同じなんだから仕方ない。
雪を踏む音が2人分。向こうの長靴は、やっぱり新品だった。
「車、ずいぶん遠くに停めるんですね」
黙っているのに耐えきれなくて、どうでもいいことを聞いた。
「エンジンの音で、馬が驚くからね」
……そこは、ちゃんとしてるんだ。
ちょっと悔しい。
桜庭さんのポケットで携帯が震えた。
画面が見えた。登録名は『会長』。
桜庭さんは画面を一度だけ見て、こっちに背を向けてから出た。
「はい。……ええ、今、早坂です。……順調です。数字は全部、平均より上で。……はい。当然です」
当然です。
自分で言ってるのに、テンカザクラを紹介したときより声が1段低い。
「……はい。失礼します」
振り返ったときには、もう元の顔に戻っていた。
「そういえば」
車のドアに手をかけて、桜庭さんが言った。
「ひなた牧場、まだ潰れてなかったんだね」
「おかげさまで」
「褒めてないよ」
「知ってます」
桜庭さんが小さく笑った。
ちょっとだけ、つまらなそうに。
「アサツユ、だったね。覚えておくよ」
覚えなくていいです。
とは言えなかった。
「デビュー戦、同じ時期になりそうだね」
ドアが開く。
「楽しみにしてるよ」
黒い車は、駐車場を出るまでずっとゆっくり走っていた。
厩舎の前を通るときは、特に。
1人になった駐車場で、軽トラのドアを開けた。
ダッシュボードに封筒が載っている。今月の預託料の請求書だ。
紙を置き忘れる場所に、請求書だけはちゃんと載っている。
月25万。
飼い葉代と、馴致と、夜の馬房と、西岡さんの手間の分。
借金の800万は1円も減ってないのに、こっちは毎月ちゃんと来る。
あっちの一番いい馬房は、たぶんこの倍じゃきかない。
それを「借りてるだけ」で済ませる人と、俺は同じ時期にデビューする。
まだ潰れてない。
ギリギリ、まだ。
ドアを閉めた。
乗らずに。
◇
厩舎の通路で、西岡さんが寝藁を運んでいた。
俺を見て、少しだけ困った顔をして、それから一番奥を指さした。
「……5分だけなら」
「すみません」
柵の外じゃなく馬房の前に立つのは、預けた日以来だ。
アサツユが首を出してくる。
鼻先で、俺の帽子のつばをつついた。
宮田さんのじゃなくてもいいらしい。
「お前な」
つつく。
「さっき、すげぇのが来てたぞ」
つつく。
「向こう、馬着着てたぞ。つるつるだったぞ。名前は会長が付けてるし」
鼻息。
前髪の乾草が揺れた。
取ってやる。
「でも、スタミナと根性はお前が上だ」
首の毛が、手のひらに温かい。
ぼさぼさで、もこもこで、全然つるつるじゃない。
膝から下を、上からなぞる。
平らな放牧地で3ヶ月過ごしても、硬いまま落ちていない。あの坂を上り下りしてた脚だ。
アサツユは帽子に飽きて、乾草の続きに戻っていった。
こっちの事情には興味がないらしい。
……まあ、お前はそれでいいよ。
デビュー戦、同じ時期になりそうだね。
楽しみにしてるよ。
――負けねぇ。




