仕上がった
坂路の下から、知らない馬が上がってきた。
鞍上の人は手綱をほとんど動かしていない。
なのに最後の100mで、もう1段首が低くなる。
……どこの馬だ、あれ。
隣で西岡さんがストップウォッチを止めた。
「13秒1。ラストが一番速いんですよ、この子」
「この子?」
「アサツユですよ。日向さんの」
…………。
え。
8月の終わり。
『アサツユ』を見るのは、去年の12月以来だった。
年が明けてすぐ、宮田さんにバレたのだ。農協の人に「最近、日向さん来ないね」と言われたらしい。
月1回のはずが2週間で行っていたことも、ガソリン代のレシートをダッシュボードに溜めていたことも、まとめてバレた。
「向こうの邪魔だ。見に行くのは、仕上がってからにしろ」
それから『早坂育成牧場』には宮田さんが月に1回だけ行って、俺は報告を聞く係になった。
「食ってる」「坂路が始まった」「デカくなった」。
毎月、だいたい3行。
『テンカザクラ』は春に、改修の終わった桜庭の育成場へ戻ったらしい。それも3行のうちの1行だった。
で、デカくなった、の中身がこれか。
坂路の上で、アサツユが息を入れている。
もこもこじゃなかった。
冬毛が抜けて、首から肩にかけて筋が浮いている。胸の前が去年の倍くらい厚い。
長すぎた脚に、ようやく体のほうが追いついた。追いついて、ちょっと追い越したくらいだ。
顔も大人になった。
前髪に乾草をつけて鼻を鳴らしてた仔は、もういない。
……いや、いた。
引き手の人の帽子を、鼻でつついている。
そこは変わんないのか。
ポケットの中で、万年筆を握る。
【アサツユ(牡・2歳)】
【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】
【隠れ適性:中距離向き】
【隠れ適性:良馬場巧者】
【隠れ適性: 】
――上がってる。
スピードがA+。パワーがA。賢さがA。
去年の冬に「負けてる」と指折り数えた3つが、全部1段ずつ上がっている。
あの日のテンカザクラと比べると、スピードと賢さは並んだ。パワーはまだ1段下。
でも、スタミナと根性はこっちが上のままだ。
合計なら、去年の向こうは越えた。
向こうも、この8ヶ月で上がってるんだろうけど。
……いや、待て。
行が、1つ増えている。
良馬場巧者。
2年半前、命名の日の夕方に「中距離向き」が出た。それからは何をしても増えなかった行だ。
距離の次は馬場らしい。
ゲームなら素直に喜ぶところだ。出るレースを選ぶための情報が、1個増えた。
良い馬場なら走る。
逆に言えば、雨の日は――たぶん、そうでもない。
……そっちも込みで覚えとこう。
「日向さん?」
西岡さんがこっちを覗き込んでいた。
俺は坂路の上を見たまま、固まっていたらしい。
「あ、すみません。いい時計ですね」
「ですよね」
西岡さんがクリップボードをめくって、さっきの数字を表に書き込んだ。
裏に、白い紙の端が見えている。A4が2枚。
まだ挟まってたんだ、あれ。
「思ったより、動きが良くなってきましたね」
西岡さんが坂路の上を見た。
テンカザクラの前で出していた、あの明るい声。の、半分くらいの明るさだった。
半分。
去年の12月は、ゼロだった。
「正直に言うとですね」
西岡さんのペンが止まった。
「坂路を始めたのは、ほかの子と同じ2月からなんです。でも最初から、坂で脚が止まらない。上りきったあとの息の戻りも、うちで一番早くて」
「……へえ」
「1歳の夏に坂で放牧してたって話。あれ、関係あるのかなって」
関係あるどころか、それしかやってない。
「どうですかね」
「来月の頭には、美浦の厩舎に送ります。デビュー戦をどこにするか、先生と決めといてくださいね。オーナーさんの希望も聞きたいって、先生が」
「……決めときます」
決めるのは、たぶん宮田さんだけど。
◇
「で、どこにする」
事務所のテーブルに、宮田さんが紙を1枚置いた。
厩舎の先生がFAXで送ってきた、10月の新馬戦の一覧だ。うちの事務所には、まだFAXがある。
「先生の第一候補は、これだと」
宮田さんの太い指が、一番上の行を叩いた。
10月第1週。芝1600m。
「最初は短めで慣らす。2歳の秋なら普通だ」
「2000がいいです」
即答してしまった。
宮田さんの眉が動く。
「……理由は」
「坂路で、ラストが一番速いんです。上りきっても息が戻るのが一番早いって、西岡さんが」
「それは聞いた」
「マイルだと、いいところを使う前に終わります。シズクは14戦、全部1400以下でした。同じことを、こいつにはしたくないです」
宮田さんが黙った。
『ツキノシズク』の戦績を出すのは2回目だ。1回目は坂の放牧のとき。
ずるい手なのは分かってる。でも、これしか見せられるものがない。
「……2000な」
奏が横から紙を覗き込んだ。
仕事上がりに寄ったとかで、作業着のまま、宮田さんの麦茶を勝手に飲んでいる。
「10月の2000、2つあるよ。第2週の東京と、同じ週の京都」
「どっちが近い?」
「どっちも遠いよ。北海道からなんだから」
そりゃそうだ。
東京か、京都か。
距離は同じ。週も同じ。違うのは場所と――
馬場だ。
ポケットの上から、万年筆をなぞる。
良い馬場なら走る。なら、雨の少ないほうに出したい。
2ヶ月先の天気は誰にも分からない。でも、10月のこの週にどっちがよく降るか、くらいなら。
「奏。10月の東京と京都って、どっちが雨少ないとか分かる?」
「……なんで雨?」
「なんとなく」
奏の目が細くなった。
なんとなくで雨を気にする牧場主は、たぶんいない。
「……うちの父、そういうのも表にしてるけど」
「見せて」
「見せてって」
文句を言いながら、奏がスマホを出した。指で何回かスクロールする。
「篠宮ファームの馬が10月の東京の新馬戦に出たのが、過去10年で31回。そのうち良馬場じゃなかったのが4回」
「京都は」
「同じくらい出てて、7回。たまたまかもしれないけどね」
サンプルサイズの話をしたら、桜庭さんが嫌な顔をしそうな数字だ。
でも、うちの馬には効く数字だ。
「東京で」
宮田さんが俺の顔を見た。
「雨の話はよく分からん」
太い指が、紙の上の東京の行をなぞる。
「が、京都の2000は内回りだ。直線が短ぇ。ラストが一番速いやつなら、東京のほうがいい。……俺も、そっちを言うつもりだった」
つもりだった、のところで口の端がちょっとだけ動いた。
先に言われたのが悔しいらしい。
……全部、東京って言ってる。
「東京の、芝2000で」
声に出したら、決まった気がした。
「先生に電話しとく」
宮田さんが紙を折った。
第一候補の1600には、もう何も言わなかった。
「……陸さ」
奏が麦茶のコップを置いた。
「さっきから、ずっとそれ握ってるよね」
手の中に、万年筆があった。
いつポケットから出したのか、覚えていない。
「おじいさんの万年筆、本当に大した遺産だね。握ってると、レースまで選べちゃうんだ」
冗談の顔だった。
当たってる。
「……お守りだよ」
「ふーん」
奏は麦茶の残りを飲み干した。
信じてない顔だ。それはそれで助かる。
「あれはな、先代も買ったもんじゃねぇんだ」
宮田さんが子機に手を伸ばしかけて、止めた。
「若ぇ頃に、誰かにもらったって言ってた。誰からかは、最後まで言わなかったな」
……誰か。
初めて聞いた。
爺さんが誰かからもらったもの。じゃあその前は、誰が握ってたんだ。
聞こうとしたときには、宮田さんはもう子機を耳に当てていた。
「――ええ、東京の2000で。はい。オーナーの希望です」
オーナー。
西岡さんのは、まあ、お客さん向けのやつだ。
宮田さんの口から出ると、なんか違う。
あとは先生が登録を出して、出走が決まるのを待つだけ。
抽選に外れなければ、だけど。
◇
夕方、シズクの馬房に寄った。
別に用はない。
お前の息子、東京の2000に出るぞ。それを言いに来ただけだ。
シズクは乾草から顔も上げなかった。
母親って、こんなもんか。
ついでに、万年筆を握る。
【ツキノシズク(牝・9歳)】
【スピード:B+】【スタミナ:A】【パワー:C】【根性:A-】【賢さ:B】
【隠れ適性:中距離向き】
【隠れ適性:良馬場巧者】
【隠れ適性: 】
シズクにも、出た。
命名の日と同じだ。俺の目のほうが1段上がると、視える馬の全部に新しい行が出る。
……いや。
その下。
もう1行ある。
【隠れ適性】のあとが、空白のまま。
文字が入るはずの場所だけ、ちゃんと用意されている。
朝、早坂で視たとき、こんな行あったか。
……浮かれてて、下まで見てない。
距離。馬場。
ゲームなら、残りは脚質あたりか。
でもそれは、ゲームの話だ。
この万年筆の話じゃない。
万年筆を離す。行が消える。
握り直す。
空白は、ちゃんとそこにあった。
8ヶ月、報告を3行ずつ聞いてただけだぞ、俺。
――まだ、視えてないものがあるのか。




