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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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16/55

仕上がった




 坂路の下から、知らない馬が上がってきた。


 鞍上の人は手綱をほとんど動かしていない。

 なのに最後の100mで、もう1段首が低くなる。


 ……どこの馬だ、あれ。


 隣で西岡さんがストップウォッチを止めた。


「13秒1。ラストが一番速いんですよ、この子」


「この子?」


「アサツユですよ。日向さんの」


 …………。


 え。



 8月の終わり。

 『アサツユ』を見るのは、去年の12月以来だった。


 年が明けてすぐ、宮田さんにバレたのだ。農協の人に「最近、日向さん来ないね」と言われたらしい。

 月1回のはずが2週間で行っていたことも、ガソリン代のレシートをダッシュボードに溜めていたことも、まとめてバレた。


「向こうの邪魔だ。見に行くのは、仕上がってからにしろ」


 それから『早坂育成牧場』には宮田さんが月に1回だけ行って、俺は報告を聞く係になった。

 「食ってる」「坂路が始まった」「デカくなった」。

 毎月、だいたい3行。


 『テンカザクラ』は春に、改修の終わった桜庭の育成場へ戻ったらしい。それも3行のうちの1行だった。


 で、デカくなった、の中身がこれか。



 坂路の上で、アサツユが息を入れている。


 もこもこじゃなかった。

 冬毛が抜けて、首から肩にかけて筋が浮いている。胸の前が去年の倍くらい厚い。

 長すぎた脚に、ようやく体のほうが追いついた。追いついて、ちょっと追い越したくらいだ。


 顔も大人になった。

 前髪に乾草をつけて鼻を鳴らしてた仔は、もういない。


 ……いや、いた。

 引き手の人の帽子を、鼻でつついている。


 そこは変わんないのか。



 ポケットの中で、万年筆を握る。


【アサツユ(牡・2歳)】

【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】

【隠れ適性:中距離向き】

【隠れ適性:良馬場巧者】

【隠れ適性:    】


 ――上がってる。


 スピードがA+。パワーがA。賢さがA。

 去年の冬に「負けてる」と指折り数えた3つが、全部1段ずつ上がっている。


 あの日のテンカザクラと比べると、スピードと賢さは並んだ。パワーはまだ1段下。

 でも、スタミナと根性はこっちが上のままだ。

 合計なら、去年の向こうは越えた。


 向こうも、この8ヶ月で上がってるんだろうけど。


 ……いや、待て。


 行が、1つ増えている。


 良馬場巧者。


 2年半前、命名の日の夕方に「中距離向き」が出た。それからは何をしても増えなかった行だ。

 距離の次は馬場らしい。


 ゲームなら素直に喜ぶところだ。出るレースを選ぶための情報が、1個増えた。

 良い馬場なら走る。

 逆に言えば、雨の日は――たぶん、そうでもない。


 ……そっちも込みで覚えとこう。



「日向さん?」


 西岡さんがこっちを覗き込んでいた。

 俺は坂路の上を見たまま、固まっていたらしい。


「あ、すみません。いい時計ですね」


「ですよね」


 西岡さんがクリップボードをめくって、さっきの数字を表に書き込んだ。

 裏に、白い紙の端が見えている。A4が2枚。


 まだ挟まってたんだ、あれ。


「思ったより、動きが良くなってきましたね」


 西岡さんが坂路の上を見た。

 テンカザクラの前で出していた、あの明るい声。の、半分くらいの明るさだった。


 半分。

 去年の12月は、ゼロだった。


「正直に言うとですね」


 西岡さんのペンが止まった。


「坂路を始めたのは、ほかの子と同じ2月からなんです。でも最初から、坂で脚が止まらない。上りきったあとの息の戻りも、うちで一番早くて」


「……へえ」


「1歳の夏に坂で放牧してたって話。あれ、関係あるのかなって」


 関係あるどころか、それしかやってない。


「どうですかね」


「来月の頭には、美浦の厩舎に送ります。デビュー戦をどこにするか、先生と決めといてくださいね。オーナーさんの希望も聞きたいって、先生が」


「……決めときます」


 決めるのは、たぶん宮田さんだけど。


 ◇


「で、どこにする」


 事務所のテーブルに、宮田さんが紙を1枚置いた。

 厩舎の先生がFAXで送ってきた、10月の新馬戦の一覧だ。うちの事務所には、まだFAXがある。


「先生の第一候補は、これだと」


 宮田さんの太い指が、一番上の行を叩いた。


 10月第1週。芝1600m。


「最初は短めで慣らす。2歳の秋なら普通だ」


「2000がいいです」


 即答してしまった。

 宮田さんの眉が動く。


「……理由は」


「坂路で、ラストが一番速いんです。上りきっても息が戻るのが一番早いって、西岡さんが」


「それは聞いた」


「マイルだと、いいところを使う前に終わります。シズクは14戦、全部1400以下でした。同じことを、こいつにはしたくないです」


 宮田さんが黙った。


 『ツキノシズク』の戦績を出すのは2回目だ。1回目は坂の放牧のとき。

 ずるい手なのは分かってる。でも、これしか見せられるものがない。


「……2000な」


 奏が横から紙を覗き込んだ。

 仕事上がりに寄ったとかで、作業着のまま、宮田さんの麦茶を勝手に飲んでいる。


「10月の2000、2つあるよ。第2週の東京と、同じ週の京都」


「どっちが近い?」


「どっちも遠いよ。北海道からなんだから」


 そりゃそうだ。


 東京か、京都か。

 距離は同じ。週も同じ。違うのは場所と――


 馬場だ。


 ポケットの上から、万年筆をなぞる。

 良い馬場なら走る。なら、雨の少ないほうに出したい。

 2ヶ月先の天気は誰にも分からない。でも、10月のこの週にどっちがよく降るか、くらいなら。


「奏。10月の東京と京都って、どっちが雨少ないとか分かる?」


「……なんで雨?」


「なんとなく」


 奏の目が細くなった。

 なんとなくで雨を気にする牧場主は、たぶんいない。


「……うちの父、そういうのも表にしてるけど」


「見せて」


「見せてって」


 文句を言いながら、奏がスマホを出した。指で何回かスクロールする。


「篠宮ファームの馬が10月の東京の新馬戦に出たのが、過去10年で31回。そのうち良馬場じゃなかったのが4回」


「京都は」


「同じくらい出てて、7回。たまたまかもしれないけどね」


 サンプルサイズの話をしたら、桜庭さんが嫌な顔をしそうな数字だ。

 でも、うちの馬には効く数字だ。


「東京で」


 宮田さんが俺の顔を見た。


「雨の話はよく分からん」


 太い指が、紙の上の東京の行をなぞる。


「が、京都の2000は内回りだ。直線が短ぇ。ラストが一番速いやつなら、東京のほうがいい。……俺も、そっちを言うつもりだった」


 つもりだった、のところで口の端がちょっとだけ動いた。

 先に言われたのが悔しいらしい。


 ……全部、東京って言ってる。


「東京の、芝2000で」


 声に出したら、決まった気がした。


「先生に電話しとく」


 宮田さんが紙を折った。

 第一候補の1600には、もう何も言わなかった。



「……陸さ」


 奏が麦茶のコップを置いた。


「さっきから、ずっとそれ握ってるよね」


 手の中に、万年筆があった。

 いつポケットから出したのか、覚えていない。


「おじいさんの万年筆、本当に大した遺産だね。握ってると、レースまで選べちゃうんだ」


 冗談の顔だった。

 当たってる。


「……お守りだよ」


「ふーん」


 奏は麦茶の残りを飲み干した。

 信じてない顔だ。それはそれで助かる。


「あれはな、先代も買ったもんじゃねぇんだ」


 宮田さんが子機に手を伸ばしかけて、止めた。


「若ぇ頃に、誰かにもらったって言ってた。誰からかは、最後まで言わなかったな」


 ……誰か。


 初めて聞いた。

 爺さんが誰かからもらったもの。じゃあその前は、誰が握ってたんだ。


 聞こうとしたときには、宮田さんはもう子機を耳に当てていた。


「――ええ、東京の2000で。はい。オーナーの希望です」


 オーナー。

 西岡さんのは、まあ、お客さん向けのやつだ。

 宮田さんの口から出ると、なんか違う。


 あとは先生が登録を出して、出走が決まるのを待つだけ。

 抽選に外れなければ、だけど。


 ◇


 夕方、シズクの馬房に寄った。


 別に用はない。

 お前の息子、東京の2000に出るぞ。それを言いに来ただけだ。


 シズクは乾草から顔も上げなかった。

 母親って、こんなもんか。


 ついでに、万年筆を握る。


【ツキノシズク(牝・9歳)】

【スピード:B+】【スタミナ:A】【パワー:C】【根性:A-】【賢さ:B】

【隠れ適性:中距離向き】

【隠れ適性:良馬場巧者】

【隠れ適性:    】


 シズクにも、出た。

 命名の日と同じだ。俺の目のほうが1段上がると、視える馬の全部に新しい行が出る。


 ……いや。

 その下。


 もう1行ある。


 【隠れ適性】のあとが、空白のまま。

 文字が入るはずの場所だけ、ちゃんと用意されている。


 朝、早坂で視たとき、こんな行あったか。

 ……浮かれてて、下まで見てない。


 距離。馬場。

 ゲームなら、残りは脚質あたりか。


 でもそれは、ゲームの話だ。

 この万年筆の話じゃない。


 万年筆を離す。行が消える。

 握り直す。


 空白は、ちゃんとそこにあった。


 8ヶ月、報告を3行ずつ聞いてただけだぞ、俺。



 ――まだ、視えてないものがあるのか。


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