デビューの日
スマホの画面に、うちの馬の名前が載っていた。
『2歳新馬』。東京、芝2000m。18頭立て。
五十音順の一覧で、アで始まる名前はだいたい一番上に来る。
アサツユ 牡2 父カムイボシ 母ツキノシズク
その行の右端に、生産者の欄がある。
ひなた牧場
…………。
いや、知ってる。うちで生まれたんだから、うちだ。
知ってるけど、こうやって活字になると、どこか知らない牧場みたいに見える。
スクショした。
2枚撮った。
10月、2週目の木曜日。夕方。
先生から宮田さんに電話があったのは、1時間前だ。
出馬投票は22頭。18頭立てだから、4頭は抽選で弾かれる。
弾かれたら、また別の週に投票し直し。
うちは通った。
「通ったぞ」
子機を置いた宮田さんは、それしか言わなかった。
麦茶を1杯飲んで、もう1杯注いだ。
2杯目はテーブルに置いたまま口をつけていない。
……緊張してたのか、この人。
9月の頭に、『アサツユ』は『早坂育成牧場』から美浦の厩舎へ移っている。
馬運車に乗る前、西岡さんが「行ってらっしゃい」と首を叩いた。俺はその横で、ポケットの中の万年筆を握った。
3行目の【隠れ適性】は、空白のままだった。
あれから1ヶ月。
俺はまだ1回も美浦に行っていない。行っていいとも言われていない。
画面を横にスクロールする。
騎手の欄に「須賀」とあった。
知らない名前だ。
「先生とこの若ぇのだ」
宮田さんが俺の肩越しに画面を覗いた。
「先生が乗せたいって言うんなら、それでいい」
「上手いんですか」
「これからだ」
それ、答えになってない。
さらにスクロールする。
予想オッズ、という欄があった。
一番人気の馬が2.1倍。
アサツユは、18頭の18番目だった。
287.4倍。
一覧では一番上。
オッズでは一番下。
……知ってた。いや、知らなかったけど、知ってた。
「通った!?」
事務所の戸が開いて、奏が入ってきた。
作業着に長靴のまま。仕事上がりに、そのまま寄ったらしい。
「通った」
「よかったぁ……」
奏はその場にしゃがみ込んだ。
それから立ち上がって、テーブルの上の麦茶を飲んだ。宮田さんの2杯目だった。
宮田さんは何も言わなかった。
自分で注いで、一口も飲めなかった麦茶だ。
「あ、そうだ。これ」
奏が作業着のポケットから、折りたたんだ新聞を出した。日高の地元紙だ。
広げたのは2歳馬の特集のページ。
一番上に、でかい写真があった。
水色の馬着。額に小さな星。
今期の目玉 『テンカザクラ』 日曜・京都でデビュー予定
見出しの下に、記事がびっしり3段。
父『グランクレスト』。母『ミスティアリア』、重賞3勝。桜庭ステーブル生産部門統括のコメントは、ひと言だけだった。
「当然、勝ちにいきます」
「……当然、ね」
声に出したのは俺だった。
桜庭さんだ。
早坂の駐車場でも、電話で同じ言葉を言っていた。もっと低い声で。
「馬に当然もクソもあるか。走ってみなきゃ分かんねぇ」
宮田さんが鼻を鳴らした。
珍しく長い。たぶん、俺より先に腹を立てている。
日曜の京都。
しかも、京都の2000。
うちが雨と内回りで蹴ったほうだ。
同じ日の、同じくらいの時間に、向こうは西で走る。
「……で、うちは」
奏の指がページの一番下に降りていく。
今週デビュー予定の主な日高産馬、という欄。馬の名前が8頭、1行ずつ並んでいる。
その5番目。
アサツユ(牡・父カムイボシ)
以上。
母の名前すら載っていない。
「1行だね」
「1行だな」
「写真、テンカザクラだけで半ページあるよ」
「半ページだな」
奏が新聞を睨んだ。
睨んでも、行は増えない。
俺はスマホに戻った。
出馬表の下に、掲示板へのリンクがある。
見なきゃいいのに、見る。
312:名無しの坂路民
東京の新馬、メンツ地味だな
313:名無しの坂路民
アサツユって何
314:名無しの坂路民
父カムイボシ。誰
315:名無しの坂路民
母ツキノシズク、14戦全部1400以下
それでなんで2000に出すんだよ
316:名無しの坂路民
ひなた牧場ってどこ
317:名無しの坂路民
日高の個人牧場。HPが5年前で止まってる
318:名無しの坂路民
記念出走でしょ
319:名無しの坂路民
単勝300倍なら100円入れとくわ(入れるとは言ってない)
320:名無しの坂路民
血統表見て閉じた
……閉じるなよ。
あと、HPは知ってる。更新の仕方が分からないんだよ。
14戦、全部1400以下。
それ、俺が宮田さんに言ったやつだ。2000に出す理由として。
同じ数字を見て、向こうはページを閉じた。
俺はレースを決めた。
「……なにこれ」
奏の声が1段低くなった。
いつの間にか、俺の横から画面を覗き込んでいる。
「記念出走って何。誰が書いたの、これ」
「名無し」
「知ってる! 全員名無しじゃん!」
奏の指が画面の上で止まっていた。
スクロールもせずに、「血統表見て閉じた」の行を見ている。
「……悔しいね」
悔しい、か。
悔しいのかな、俺。
テーブルの下で、ポケットの万年筆に指が触れた。
最後に視た数字は、全部覚えている。
スピードA+。スタミナA+。根性A+。
この掲示板の誰も知らない数字だ。
14戦全部1400以下の母が、本当は中距離向きだってことも。
知ってるのは、たぶん世界で俺1人。
…………。
あ、駄目だ。
口の端が上がる。
「……なんで笑ってんの」
「いや」
だって。
一番下だぞ。
ゲームなら、一番下から始めたキャラが一番楽しい。伸びしろが全部こっちのもんだ。
新聞の1行も、287.4倍も、記念出走も、閉じられた血統表も。
まだ1回も走ってない馬につけられた値段だ。
「上等だ」
声に出していた。
「全部ひっくり返してやる」
事務所が静かになった。
奏がぽかんと口を開けている。
宮田さんの手がコップに伸びて、空なのに気づいて止まった。
「……お前、そういうこと言うやつだったか」
「今のは、なしで」
「もう聞いた」
「聞いた聞いた。録っとけばよかった」
奏が笑った。さっきまで新聞を睨んでいた顔のまま、笑った。
それから新聞を折り直した。
テンカザクラの写真が内側に入って、一番下の8行が表に来るように。
言うんじゃなかった。
でも、撤回はしない。
◇
土曜の朝、4時半。
外はまだ真っ暗だった。
ポケットには、宮田さんが調べてきたメモが1枚。
千歳から羽田の一番安い朝の便と、府中のビジネスホテル。シングル2部屋、1泊。
字はFAXより読みにくい。
「宮田さんの分も、俺が出しますよ」
メモを受け取りながら、そう言ってしまった。
言ってから、通帳の残高が頭をよぎる。
「俺の分は俺が出す」
「でも、うちの馬の用事ですし」
「オーナーに旅費出させる厩務員がいるか」
そこから先は、何を言っても聞かなかった。
……助かった。
オーナー、2回目。まだ慣れない。
牧場の朝夕の飼い付けは、三上さんに頼んだ。
『おう、2日だろ。任せとけ』
電話の向こうの声がでかい。スマホを耳から離しても聞こえる。
『その代わり、単勝100円買ってこい。100円だぞ。1000円じゃねぇ』
「なんで100円なんですか」
『当たったら焼肉な』
「当たったら、って言いましたね今」
『言ってねぇ』
言った。
地元の目利きの噂を広めた人ですら、100円だ。
シズクの馬房に寄る。
「行ってくる」
シズクは乾草から顔も上げなかった。
知ってた。
「――陸!」
軽トラの横に、奏が立っていた。
懐中電灯を持って、作業着の上にダウンを羽織っている。
「見送りじゃないから。朝の見回りのついで」
「篠宮ファームの見回り、うちの前通るっけ」
「通る。今日から通る」
通らない。
「土曜はうち、2歳の出荷があって抜けらんないの。だから明日の朝イチの便で行く。パドック、ちゃんと場所取っといてね」
「分かった」
「あと、帽子かぶってたら、アサツユにつつかれるからね」
「パドックの外から、どうやってつつくんだよ」
「あの子ならやる」
……やりそうなのが怖い。
奏は懐中電灯で軽トラの荷台を照らして、それから俺の顔を照らした。
眩しい。
「行ってらっしゃい」
西岡さんと同じ言葉だった。
声の明るさは、だいぶ違ったけど。
運転席に乗り込む。
助手席の宮田さんから、防虫剤の匂いがした。
見たことのない紺のジャケットを着ている。先代の葬式でも、これだったかもしれない。
エンジンをかける。
ライトの先に、牧場の柵と、裏の坂が浮かんで消えた。
国道に出て、しばらく誰も喋らなかった。
「……先代が見たら、なんて言うかな」
宮田さんが、窓の外を見たまま呟いた。
分からない。
俺は爺さんが馬の前で何を言っていたのかも、ろくに知らない。
「宮田さんは、なんて言うと思うんですか」
「知らねぇ。だから聞いた」
ずるい。
しばらくして、宮田さんがもう一度口を開いた。
「たぶん、なんも言わねぇな」
「え」
「なんも言わねぇで、一晩中馬の前に立ってる。そういう人だった」
シズクのお産の夜にも、同じ話を聞いた。
ポケットの上から、万年筆をなぞる。
これを握って、爺さんは何を視てたんだろう。
俺と同じものか。それとも、まだ空白の3行目の中身まで、全部か。
信号で止まったとき、スマホが震えた。
奏からだった。
『予想オッズ更新。まだ一番下』
『あと三上さん、もう焼肉屋の予約の話してる』
……100円で。
画面を伏せる。
アサツユまで、あと1日。
――いよいよ、デビュー戦だ。




