パドックの隅で
東京競馬場は、でかかった。
「……でけぇ」
声に出ていた。
入場ゲートをくぐった瞬間、視界いっぱいにスタンドが広がった。
屋根が空を切り取っている。その下に人がいる。人、人、人。
日曜の昼前。4Rの最中なのに、もうこの人数だ。
「ぼさっとすんな」
宮田さんが先に歩き出した。
紺のジャケットの背中が、人混みに吸い込まれていく。
パドックはスタンドの奥にあった。
まだ馬は出ていない。人だけが輪になって並んでいる。
柵の前に、もう3列。4列。
「最前列、取れねぇぞ」
「分かってます」
奏に頼まれた。
『パドック、ちゃんと場所取っといてね』
場所取れって言われても、この人混みだ。
「あっちだ」
宮田さんが顎で指した。
パドックの左端。ちょうど角になる場所。
人の流れが切れている。盲点みたいなところだ。
「よく分かりましたね」
「先代と来たことがある」
そう言って、宮田さんはそれ以上何も言わなかった。
爺さんと、この場所に立ったことがあるのか。
何を見たんだろう。
どんな馬を、どんな数字で。
聞きたかったけど、聞けなかった。
柵の1列目。角の一番端。
この位置なら、馬が輪を回るときに真正面から見える。
電光掲示板が遠くに見えた。
『馬場状態 芝:良』
良馬場。
ポケットの上から万年筆をなぞる。
アサツユの表示にあった【隠れ適性:良馬場巧者】。
このために東京にした。雨の話も、内回りの話もぜんぶこの1行のためだ。
アサツユのレースは5R。
「テンカザクラは何Rですか」
「京都の6Rだ」
宮田さんがメモを見ずに答えた。
調べてあるのか。いつの間に。
「こっちが終わってからだな」
「……そうですか」
「気にすんな」
「お、いたいた!」
聞き慣れた声がした。
人混みの向こうから、奏が手を振りながら走ってくる。
作業着じゃない。白いシャツに、ベージュのコート。
髪が風で乱れている。羽田から来たばかりの顔だ。
「ぎりぎり! 朝イチの便、遅れてさ。タクシー飛ばしてきた」
言いながら、奏は俺と宮田さんの間に割り込んだ。
宮田さんが半歩、左にずれる。嫌そうな顔はしていない。
5Rのパドックのアナウンスが鳴った。
人混みがざわめいた。柵の前に、さらに人が押し寄せる。
俺は柵を握った。
手が少し冷たい。10月の東京は、思ったより風がある。
「陸」
奏が小声で言った。
「緊張してる?」
「してない」
「嘘つき」
「……してる」
「正直」
奏が前を向いた。
それ以上、何も聞かなかった。
パドックの入口から、馬が1頭ずつ出てきた。
1頭出てくるたびに、柵の前がざわめく。
1番人気は7番だった。
栗毛の大きな馬。胴が長い。歩くたびに肩の筋肉が動く。
予想家たちが一斉にメモを走らせる。
カシャ、カシャ、カシャ。
シャッター音が3つ重なった。
俺の目は14番を探していた。
いた。
『アサツユ』は、列の後ろのほうを歩いていた。
黒鹿毛。体は小さくない。ただ、周りが大きい。
首が低い。目が柔らかい。周りの馬が首を振ったり鼻を鳴らしたりしている中、こいつだけ何もしていない。
引いているのは先生の厩舎の厩務員だった。
丸顔の50代くらいの人。キャップをかぶっている。
アサツユが、その帽子を鼻でつついた。
……おい。
厩務員が手綱を引き直した。
アサツユは何事もなかったようにまた歩き出す。
3歩いって、もう1回つついた。
厩務員が困った顔で帽子を押さえた。
アサツユは、満足そうに首を戻した。
「……ほんとにやった」
奏が小声で言った。
「つつかれるって、言ったよね私」
言った。
パドックの外からじゃつつかない。中にいる人間の帽子をこいつはつつく。
でも、誰も見ていない。
全員が7番を見ている。
7番が角を曲がるたびに、柵の前の人が動く。
波みたいに。7番を追って、右へ左へ。
14番が角に来ても、動かない。
隣の客が話していた。
サングラスの男。タバコを耳に挟んでいる。
「14番、記念出走だろ」
もう1人。段の上の老人。
「血統見て消した。母親が1400以下しか走ってねえのに2000だ」
消した。
閉じた血統表が、ここにもある。
お前が見たのは血統表だ。俺が見たのは違う。
ポケットの中で、万年筆を握った。
【アサツユ(牡・2歳)】
【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】
【隠れ適性:中距離向き】
【隠れ適性:良馬場巧者】
【隠れ適性: 】
3行目は、空白のままだった。
9月に見送ったときと同じ数字。
握ったまま、視線を7番に移した。
栗毛の大きな馬。
電光掲示板に馬体重が出ている。486キロ。
胴長の体に筋肉が乗っている。見た目だけなら、こいつが一番だ。
【グランフェザー(牡・2歳)】
【スピード:A】【スタミナ:B+】【パワー:A】【根性:B】【賢さ:B+】
【隠れ適性:マイル向き】
【隠れ適性:道悪巧者】
【隠れ適性: 】
出た。
視える。
2歳の新馬戦でこの数字なら、十分に勝負になる。
1番人気の根拠が、目の前にある。
握ったまま、14番に視線を戻す。
……。
比べるまでもなかった。
スピードは、こっちが上。
スタミナは、比べる相手じゃない。
パワーは、同じA。
根性が、一番違う。
賢さも、こっちが上。
7番の隠れ適性は、マイル向き。道悪巧者。
今日の東京、芝2000、良馬場。
どっちも、合ってない。
アサツユは、中距離向き。良馬場巧者。
全部、合ってる。
万年筆を離した。
数字が消える。
7番の栗毛がただの栗毛に戻る。
14番の黒鹿毛がただの黒鹿毛に戻る。
「陸」
奏が言った。
「さっきから何ずっと握ってんの」
……バレてた。
「お守りだよ」
「前もそれ言った」
「お守りは何度でも握るもんだ」
「ふーん」
奏はそれ以上聞かなかった。
「行くぞ」
宮田さんが俺の胸を指した。
朝、馬主受付で受け取ったバッジがそこにある。
関係者用の出入口で、係員にバッジを見せる。
宮田さんも同じように胸を上げた。
「どうぞ」
柵の外に残った奏が、小声で言った。
「行ってらっしゃい」
内側は、外側より静かだった。
客の声が柵1枚隔てて遠くなる。代わりに馬の蹄の音が近くなる。
「止まーれー」
号令が飛んだ。
騎手たちが1列になって入ってきた。色とりどりの勝負服。
14番の位置に、小柄な背中が来た。
白に青の二本輪。
勝負服だ。
爺さんが登録したままの、ひなた牧場の服。変えていない。
着ているのは知らない顔だ。20代前半。頬が薄い。騎手にしては小さいが、騎手だから小さいのは当たり前だ。
須賀、か。
アサツユの横に立って、一度だけ鼻面を見た。それだけだった。
白いシャツにネクタイの背中が振り返った。
先生だ。
爺さんの葬式で会ったきりだ。少し痩せたかもしれない。
「オーナー、お疲れ様です。今日はようこそ」
「お世話になってます」
「宮田さんも、わざわざ」
「オーナーの供です」
宮田さんの声が平らだった。
供って。
「うちの須賀です」
須賀がヘルメットを小脇に抱えて、頭を下げた。
「須賀です。よろしくお願いします」
「日向です」
握手をした。手が小さい。でも握りは強かった。
目が動く。客席と馬と先生を、順番に見ている。
警戒している目だ。
「乗り方ですが」
先生が先に口を開いた。
「無理せず前のほうで流れに乗ってください。2歳の初戦ですから。折り合いさえつけば」
前のほうで流れに乗る。
先生の考えは分かる。無難だ。安全だ。
「先生」
俺が口を挟んだ。
「いいですか」
先生が少し目を丸くした。爺さんの頃は、馬主が乗り方に口出しすることはなかったのかもしれない。
「こいつは坂路でラスト1ハロンが一番速かったんです。上りきってから息が戻るのも一番早かった」
早口になっていた。自分でも分かる。
止まらない。
「2000は最後までもちます。前に行かなくていいです。直線まで脚を溜めてほしいんです。今日みたいな良い馬場なら、最後に一番いい脚を使いますから」
一気に言った。
先生が須賀を見た。
須賀はアサツユを見ていた。
黒鹿毛の首をじっと見ている。
それから俺に視線を戻した。
「……母はツキノシズクですね」
出馬表で見てきたのだろう。
「はい」
「1400以下がほとんどだと」
「14戦全部です」
須賀が一瞬、黙った。
ただ、俺の目を見ていた。
それから視線をアサツユに戻した。
「……オーナー」
須賀がペコリと頭を下げた。
「お言葉、ありがとうございます。坂路の調教タイムは僕も確認してます」
確認してる。
なら分かるはずだ、と言いたくなった。飲み込んだ。
「ただ」
須賀が顔を上げた。丁寧な目のまま、どこか硬い。
「14番です。外枠からだと、どのみち前に行くのは厳しいです」
言い方を選んでいた。「無理だ」ではなく「厳しい」にしてくれている。
「東京の2000は、最初のコーナーまでが短いんです。外から無理に出して先団に取りつこうとしたら、最初の300で脚を使うことになる。2歳の新馬戦でそれをやると、大抵は3コーナーで止まります」
分かってる。
ゲームでもそうだ。外枠から無理に前に行くとスタミナが溶ける。
でも、こいつのスタミナはA+だ。
……言えない。
「それと」
須賀がもう一度、アサツユを見た。
黒鹿毛の首が、また帽子に向かって動きかける。今度は止まった。
「正直に言います。母の戦績を見ると、2000がもつかは分からないんです」
「直線まで溜めて、脚が残っていなかったら最後方のまま終わる。そういうレースになる可能性は、僕のなかでゼロじゃないです」
ゼロじゃない。
最後方のまま。
18頭の18番目のまま。
口が開きかけた。
閉じた。
「……僕が言えるのは、乗ってみないと分からない、ということだけです」
須賀の声が少し低くなった。
「でも、乗るのは僕です。最後は僕が判断します」
そこだけ、目が揺れなかった。
丁寧な人だ。でも、この1文だけは丁寧じゃなかった。
騎手の言葉だ。
「分かってます」
それしか言えなかった。
須賀がアサツユに向き直った。
黒鹿毛が須賀の顔を覗き込んだ。
鼻が動く。帽子がない。今度はつつけない。
須賀が深呼吸を1つした。
「……分かりました。参考にします」
半信半疑、だった。
参考にする。
使うとは言っていない。
厩務員に左脚を持ち上げてもらって、須賀が一瞬で跨った。
アサツユは動かなかった。帽子をつついたときと同じで、何事もなかったみたいな顔をしている。
「よろしくな」
宮田さんが短く言った。
須賀が軽く頭を下げた。
18頭の蹄の音が、地下馬道に吸い込まれていった。
◇
馬券売場には行列が3列あった。
宮田さんも奏も並ばなかった。2人とも俺の後ろに立って、黙って待っている。
……居心地が悪い。
でも、100円だ。三上さんの100円。
マークカードを塗る。5レース。14番。単勝。100円。
発売機に入れた瞬間、後ろで奏が小さく息を吸ったのが分かった。
振り返らない。
出てきた馬券は、レシートより少し大きいくらいの紙切れだった。
東京5R 単勝14番 100円
財布の一番奥にしまった。
すぐ取り出せる場所には入れたくない。入れたら、レース中に何度も確認しそうだ。
「三上さんに頼まれたやつ?」
「そう」
「当たったら焼肉だって?」
「……よく知ってるな」
「宮田さんから聞いた」
宮田さんの背中が、1回だけ揺れた。
笑ったのか。笑ってないのか。
スタンドの前に出た。
左に宮田さん。右に奏。
後ろで、男が2人、スマホを覗いていた。
「14番、300倍だって」
「300?」
「誰が買うんだよ、あんなの」
笑った。
俺だ。
正確には三上さんだ。
100円だけど。
ターフビジョンが切り替わった。
パドックの映像から、オッズの画面になる。
電光掲示板も同時に動いた。数字が一斉に書き換わる。
1番人気。7番。
グランフェザー 1.9倍。
木曜の予想では2.1だった。
もっと売れた。
その下。
ずっと下。
18番人気。
14番。
アサツユ 314.7倍。
木曜の予想では287.4だった。
売れていない。どころか、少し増えている。
……三上さん、まだ焼肉屋の予約の話をしてるらしいけど。
この数字を見たら、たぶん笑う。
俺は笑えなかった。
1番人気が、マイル向き。
一番下が、中距離向き。
……逆だ。
……見てろよ。
声には出さなかった。
口の中だけで言った。
「300倍か」
宮田さんが、俺の横で言った。
新聞を読むときと同じ、平らな声だった。
「314.7です」
「……そうか」
宮田さんはそれだけだった。
「宮田さん」
「なんだ」
「ファンファーレ、まだですか」
「まだだ」
「……遅くないですか」
「待て」
短い。
でも、宮田さんも待っていた。
2杯目の麦茶に口をつけられなかった人の顔が、横にある。
ファンファーレが鳴った。
スタンドがどよめいた。
何万人の息が一斉に変わる音だ。
右の手が、暖かくなった。
奏の手だった。
何も言わずに、俺の手を握っている。
ぎゅっと、強く。
俺は握り返さなかった。
握り返したら、指が震えるのが伝わる。
そのままにした。
奏の手も、そのままだった。
宮田さんは左で、何も見ていないふりをしていた。
向こうの1コーナー奥に、ゲートが見えた。
白い枠が横一列。
ここからだと、馬は豆粒くらいだ。
1頭入るたびに、スタンドが小さくざわつく。
7番が入ったとき、一段大きく揺れた。
14番。
白に青の二本輪が、ゲートの前で一瞬止まった。
嫌がるな。
止まったのは、一瞬だった。
アサツユが、すっと入った。
……お前、パドックで人の帽子つついてた奴だよな。
最後の1頭が入った。
18頭が、白い枠の中に消えた。
ターフビジョンの14番の横には、まだ314.7。
右手が、まだ暖かい。
――ゲートが、閉まる。




