314.7倍
ゲートが、開いた。
「スタートしました! 18頭、ほぼ揃ったスタートです」
来た! ついに来たぞ! 14番は、14番どこだ!? ……いた! 白に青の二本輪、真ん中あたりで出てる!
「まず先手を取りにいったのは1番、外から2番も並んでいきます」
前なんかどうでもいい! 須賀、どうすんだ、どうすんだよ!
「その外、7番グランフェザー。1番人気がスッと好位に取りつきます」
1番人気は、やっぱり出がいい! でも関係ねえ、関係ねえよ!
14番は―― 下げた!? 下げてきた! どんどん後ろに行く、おい、どこまで行くんだよ!?
「1コーナーから2コーナー。先頭は1番、2馬身離れて2番、3番手に7番グランフェザー、その内に3番と4番」
実況は前ばっかりだ。 当たり前だ、誰も14番なんか見てない! 俺だけ見てりゃいい、俺だけ見てる!
「中団に10番、11番、12番。後方から14番アサツユ、最後方は8番です」
呼ばれた! 1回だけ、名前呼ばれた! 後ろから……1、2、3……6頭目! 13番手かよ!? 後ろから数えたほうが早えよ!
須賀の判断だ、俺じゃない。 前は厳しいって、あの人は言ってた。 だから下げたんだ、自分で決めて!
「1000メートルの通過は61秒2」
61秒2!? ちょっと速くね!? これ2歳の新馬戦だぞ!? 前の2頭、飛ばしすぎだって!
「先頭は依然1番、リードは2馬身。縦長の隊列で3コーナーに向かいます」
縦長だ、前と後ろが離れてる! でもまだ動くなよ、まだ! ここで脚使ったら直線で終わる!
……え? 須賀の手が、動いた。 外に出した! 1頭、2頭……2頭かわした!? 鞭は使ってねえ! 手綱だけだ! 11番手! やるじゃねえか、須賀!
「3コーナーから4コーナー。前の2頭、ここで一杯か。後続が差を詰めてきます」
ほら見ろ! ほら見ろよ! 61秒2で飛ばしたツケだ!
「内から7番グランフェザー! 手応え十分、1番人気が先頭に並びかける!」
来た! 1番人気だ! 内で溜めてた、ずっと待ってたのかよ! 手応えが違う、まだ走る!
14番は!? 外だ! 大外を回してる! 10番手、9番手……8番手! 1頭ずつ来てる! ロスした、大回りだ―― でも内は詰まってる、しょうがねえ!
「4コーナーを回って直線コース! 先頭は7番グランフェザー!」
7番手、6番手! 4頭かわした! でも先頭まで、まだ遠い! あと5頭、あと5頭もいる!
「グランフェザー先頭! 2番手との差は4馬身! これは1番人気、楽な手応えだ!」
4馬身!? 4馬身もあるの!? 遠い、まだ遠いよ!! 14番からじゃ、どんだけ離れてんだよ!
「残り400を切って坂にかかる! 先頭は依然グランフェザー!」
坂だ! 東京の坂が来るぞ! ここで消える馬が多いんだ!! 須賀、いつ鞭だ、いつ使うんだ!
――おい。 須賀の右手が上がった。
入った!! 当たった!! 音が見えた、空気が裂けた!!
……え? 伸びた。 いや違う!! 爆発だ!! え? 速くね? 速すぎるって!! 何あの脚!? 何あの脚なの!?
「グランフェザー、坂を上って先頭! 後続はまだ来ない!」
来てる! 来てるって!! 5番手! 1頭かわした!! 4番手!! もう1頭きたぞ!! 坂だぞ!? 坂の途中だぞ!? なんで上がってんの!? 3番手!! 止まんない、全然止まんない!!
「残り200! グランフェザー先頭! ――いや、外から1頭来た! 大外、14番アサツユ!」
呼ばれた!! 実況が、アサツユって言った!!
「アサツユが2番手に上がった! しかし先頭とはまだ4馬身!」
4馬身!? まだ4馬身もあるの!? 無理だよ、もう時間がないぞ!! でも来てる、14番は来てる!!
7番だ、あの栗毛がまだ先頭だ! マイル向きだろ、お前! 2000の坂はきついはずだ!! ほら、脚が重い、見てて重いぞ!!
「残り100! 差は3馬身! アサツユが迫る!」
来い!! 来い来い来いよ!! 来てくれぇぇ!! 頼むから!!
「1馬身! グランフェザー粘る! アサツユ、大外から猛然と!」
1馬身!! 来た来た来た!! 須賀!! 須賀やってくれ!!
「残り50! 半馬身! 並ぶか、並ぶか!」
半馬身!! あと半馬身だけ!! ……並んだ? 並んだのか、これ!? 頼む、頼む……!
「7番と14番、2頭の叩き合い!」
須賀の鞭が入った、もう1回入った!! 出た!! 頭が出たぞ!!
「――抜け出した! 抜け出したのは大外一気、アサツユだ!」
抜けた!! 抜けたぞ!! アサツユだ!! アサツユが抜けた!!
「アサツユ、先頭でゴールイン! 18番人気のアサツユです!」
……あれ? 叫んでいたつもりが、声はひとつも出ていなかった。喉の奥で全部つっかえていたらしい。
スタンドがどっと揺れて、どよめきが背中を押してくる。 俺は立ったまま――というより止まったまま、電光掲示板を見上げていた。
1着に14、2着に7。着差は半馬身で、写真判定のランプは点かない。 ターフビジョンの14番の横では、314.7の数字が止まっていた。
確定だ。 ……確定、なんだよな?
まだ右の手が暖かい。そう思ったところで、左肩にずしりと重みが乗った。宮田さんの手だった。 何も言わずに、骨がきしむくらいの力で掴んでくる。 次の瞬間、右の手がほどけて、横から奏が飛びついてきた。腕が首に回って、そのまま3人でひとかたまりになる。
「陸! 勝った、勝ったよ!」
宮田さんの手が震えている。いや、震えているのは俺の肩のほうか。 宮田さんは顔を背けて、鼻をすすった。見なかったことにしておこう。
俺はといえば、体温は低いままなのに、心臓だけがやけにうるさかった。 財布の一番奥には、三上さんの100円の紙切れが入っている。出して確かめたりはしない。そこにあるのは分かってる。
……勝ったんだ。 ゲームなら、ここでファンファーレとリザルト画面が出るところだ。 現実は、どよめきと、首に回った奏の腕と、宮田さんが鼻をすする音だけだった。 悪くない。いや、最高だろ、これ。
後ろで声がした。スタンドの後ろで笑っていた、あの男2人だ。
「……14番って、あの14番?」
「単勝、3万超えてんぞ」
はい、それ俺です。 正確には三上さんのお金だし、100円だけど。
母のツキノシズクは、14戦すべて1400m以下を走った馬だった。 長い距離が走れなかったんじゃなくて、走らせてもらえなかっただけだ。 2000をもたせる脚は、ずっとあの血の中にあったんだと思う。 7番は坂で脚を使いきっていた。マイルの馬に、東京の2000は長すぎたんだろう。
◇
「下りるぞ」
宮田さんはもう階段に足をかけていた。俺と奏も、人の肩をよけながら最前列の柵まで下りる。
ゴールを過ぎた18頭が、ゆっくり速度を落として、ばらばらに戻ってくる。 1着の馬も最下位の馬も、同じ足取りだ。白に青の二本輪も、その中に混じっていた。 須賀は手綱を緩めて、アサツユの首を一度だけ叩いた。拳を突き上げたりはしない。真面目な人なんだな、と思う。
スタンドの前を通るとき、ぱらぱらと拍手が起きて、「アサツユ」と呼ぶ声が1つか2つ混じった。 レースの前まで、誰も見ていなかった名前だ。
「アサツユ」
奏が、低くて優しい声で呼んだ。馬にだけ使う声だ。 アサツユの耳がこっちを向く。奏が柵に手をかけてもう一度呼ぶと、今度は首ごとこっちを見て、ぶふっと鼻を鳴らした。 奏が笑った。
「オーナー、口取りだ」
宮田さんが胸の馬主バッジを指で叩いた。 勝った馬の横に並んで記念写真を撮る、あれだ。 ゲームならボタン1つで飛ばしていた画面に、まさか自分が映ることになるとは思わなかった。
関係者口から地下の通路を抜ける。奏の胸にも同伴の札が揺れていた。 宮田さんが受付で、ちゃっかりもう1枚もらっておいたらしい。
検量室の前に出ると、ちょうどアサツユが厩務員に引かれて入ってきたところだった。 須賀が鞍から降りて、外した鞍を腕に抱える。ヘルメットを脱ぐと、汗で髪がぺったり額に張り付いていた。 その髪を拭おうと手を上げたとき、アサツユが首を伸ばして、鼻で須賀の頭をつついた。
……やりやがった。
須賀はヘルメットを持ったまま固まって、目を丸くしている。アサツユは追い打ちで、もう一度耳の横をつついた。 須賀が少し笑った。口の端だけが動く、小さい笑い方だ。 それから馬の鼻を一度だけ軽く叩くと、アサツユは満足そうに首を戻した。お前な。
「オーナー」
振り返ると、先生が立っていた。目を丸くして、口が半開きのまま、深く頭を下げてくる。 何も言わなかったけど、言いたいことは目に全部書いてあった。
口取りはあっという間だった。アサツユを真ん中に須賀と先生と厩務員が並び、俺はその端に立たされる。 フラッシュが光ったけど、ちゃんと笑えていたかは分からない。たぶん変な顔をしてた。
ポケットの万年筆を握って、アサツユを見た。 首の汗が光っていて、呼吸もまだ荒い。それでも目だけは、いつもの柔らかいままだ。
【アサツユ(牡・2歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性: 】
変わらない。9月からずっと見てきた、見慣れた数字だ。 ――いや、待て。 パワーのAの右側に、うっすら何かが重なっている。小さくて薄いけど、「+」に見えた。 目を凝らしたら消えた。握り直してみても、もうただのAに戻っている。
さっきのは何だったんだ。汗か、光の加減か。それとも――。
ほかの数字は動いていない。スピードもスタミナも、根性も賢さも、隠れ適性の3行目の空白も、そのままだ。 万年筆を離すと数字が消えて、アサツユはただの黒鹿毛に戻った。呼吸は少しずつ落ち着いてきている。
「……これ、化けるな」
口に出してから気がついた。自分でも聞こえないくらいの、低い声だった。 宮田さんが隣でこっちを見る。
「なんだ」
「なんでもないです」
「そうか」
宮田さんは、また前を向いた。
◇
検量室の前に、ICレコーダーとメモ帳を持った記者が何人か集まりはじめた。 その輪の真ん中で、勝負服のままヘルメットを脇に抱えて立っているのが須賀だった。
「おめでとうございます。18番人気、単勝314.7倍。見事な大外一気でした」
須賀は輪の中で一度頭を下げた。首筋を汗が伝っている。
「ありがとうございます」
丁寧な声だった。息はまだ少し上がっている。
「道中は、どういうレースを?」
記者がレコーダーを近づけると、須賀は一拍置いてから、まっすぐ前を見た。
「道中、指示された通りに乗ったら、想像以上の脚を使ってくれました」
……指示された通り? いやいや、指示なんかしてない。 俺が言ったのは「前に行かなくていい」と「直線まで脚を溜めてほしい」の2つだけだ。 下げる位置も、外に出す場所も、鞭を入れるタイミングも、全部須賀が自分で決めたことだ。 なのにこの人は、「指示された通り」と言った。
お前のレースだろ、須賀。 それを、俺の手柄にしてくれたのかよ。
「……そうか」
宮田さんが小さく呟いた。聞こえたのはそれだけで、目は輪の中の須賀から離れない。でも、頬が少しだけ緩んでいた。
奏が遠慮なしに、肘で俺の脇腹をつついてくる。
「痛い」
「聞いた?」
「聞いた」
「あれ、陸のことだよ」
「……分かってる」
奏はそれ以上何も言わなかった。 輪の中で、須賀がもう一度頭を下げる。
「強い馬に乗せてもらって、感謝しています」
それだけ言って記者に会釈すると、輪がほどけた。 須賀はアサツユのそばまで歩いていって、黒鹿毛の首を一度だけ撫でた。 パドックで俺を見ていたときの、警戒する目じゃない。馬を見る、騎手の目だった。
この人は、信じていいのかもしれない。たぶん。いや、たぶんじゃなくて、そういう人なんだと思う。
須賀がこっちに気づいて、軽く頭を下げた。俺も会釈を返す。言葉は交わさなかったけど、それで足りた気がした。
「オーナー」
宮田さんが小さく言った。
「はい」
「馬券、まだ財布の中だろ」
「……はい」
「帰ったら、三上さんに電話だ」
「焼肉の話、まだ生きてますかね」
「生きてる。あの人はそういう人だ」
通路の向こうから、スタンドのざわめきが届いてくる。配当が出たらしい。 単勝314.7倍で、100円が3万1470円になった。
奏の手が、まだ俺の脇腹のそばにあった。
「離して」
「離すよ」
離さなかった。まあ、いいか。俺もそのままにしておいた。
厩務員に引かれて、黒鹿毛の背中が通路の奥に消えていく。須賀の小さい背中も、検量室の中に入っていった。 ポケットの上から財布の形をなぞる。一番奥の紙切れは、まだちゃんとそこにある。
壁の向こうのざわめきは、まだ収まらない。 奏がスマホの画面をこっちに向けた。
「京都、10分後だって」
「見ない」
「嘘つき」
「……見る」
「正直」
奏がスマホをポケットに戻す。 宮田さんは左で前を向いたまま、何も言わなかった。俺も動かなかった。
――これで、まだ始まりに過ぎない。




