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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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19/53

314.7倍




 ゲートが、開いた。


「スタートしました! 18頭、ほぼ揃ったスタートです」


 来た! ついに来たぞ!  14番は、14番どこだ!?  ……いた! 白に青の二本輪、真ん中あたりで出てる!


「まず先手を取りにいったのは1番、外から2番も並んでいきます」


 前なんかどうでもいい!  須賀、どうすんだ、どうすんだよ!


「その外、7番グランフェザー。1番人気がスッと好位に取りつきます」


 1番人気は、やっぱり出がいい!  でも関係ねえ、関係ねえよ!


 14番は――  下げた!? 下げてきた!  どんどん後ろに行く、おい、どこまで行くんだよ!?


「1コーナーから2コーナー。先頭は1番、2馬身離れて2番、3番手に7番グランフェザー、その内に3番と4番」


 実況は前ばっかりだ。  当たり前だ、誰も14番なんか見てない!  俺だけ見てりゃいい、俺だけ見てる!


「中団に10番、11番、12番。後方から14番アサツユ、最後方は8番です」


 呼ばれた!  1回だけ、名前呼ばれた!  後ろから……1、2、3……6頭目! 13番手かよ!?  後ろから数えたほうが早えよ!


 須賀の判断だ、俺じゃない。  前は厳しいって、あの人は言ってた。  だから下げたんだ、自分で決めて!


「1000メートルの通過は61秒2」


 61秒2!? ちょっと速くね!?  これ2歳の新馬戦だぞ!?  前の2頭、飛ばしすぎだって!


「先頭は依然1番、リードは2馬身。縦長の隊列で3コーナーに向かいます」


 縦長だ、前と後ろが離れてる!  でもまだ動くなよ、まだ!  ここで脚使ったら直線で終わる!


 ……え?  須賀の手が、動いた。  外に出した! 1頭、2頭……2頭かわした!?  鞭は使ってねえ! 手綱だけだ!  11番手! やるじゃねえか、須賀!


「3コーナーから4コーナー。前の2頭、ここで一杯か。後続が差を詰めてきます」


 ほら見ろ! ほら見ろよ!  61秒2で飛ばしたツケだ!


「内から7番グランフェザー! 手応え十分、1番人気が先頭に並びかける!」


 来た! 1番人気だ!  内で溜めてた、ずっと待ってたのかよ!  手応えが違う、まだ走る!


 14番は!?  外だ! 大外を回してる!  10番手、9番手……8番手! 1頭ずつ来てる!  ロスした、大回りだ――  でも内は詰まってる、しょうがねえ!


「4コーナーを回って直線コース! 先頭は7番グランフェザー!」


 7番手、6番手! 4頭かわした!  でも先頭まで、まだ遠い!  あと5頭、あと5頭もいる!


「グランフェザー先頭! 2番手との差は4馬身! これは1番人気、楽な手応えだ!」


 4馬身!? 4馬身もあるの!?  遠い、まだ遠いよ!!  14番からじゃ、どんだけ離れてんだよ!


「残り400を切って坂にかかる! 先頭は依然グランフェザー!」


 坂だ! 東京の坂が来るぞ!  ここで消える馬が多いんだ!!  須賀、いつ鞭だ、いつ使うんだ!


 ――おい。  須賀の右手が上がった。


 入った!! 当たった!!  音が見えた、空気が裂けた!!


 ……え?  伸びた。  いや違う!! 爆発だ!!  え? 速くね? 速すぎるって!!  何あの脚!? 何あの脚なの!?


「グランフェザー、坂を上って先頭! 後続はまだ来ない!」


 来てる! 来てるって!!  5番手! 1頭かわした!!  4番手!! もう1頭きたぞ!!  坂だぞ!? 坂の途中だぞ!? なんで上がってんの!?  3番手!! 止まんない、全然止まんない!!


「残り200! グランフェザー先頭! ――いや、外から1頭来た! 大外、14番アサツユ!」


 呼ばれた!!  実況が、アサツユって言った!!


「アサツユが2番手に上がった! しかし先頭とはまだ4馬身!」


 4馬身!? まだ4馬身もあるの!?  無理だよ、もう時間がないぞ!!  でも来てる、14番は来てる!!


 7番だ、あの栗毛がまだ先頭だ!  マイル向きだろ、お前! 2000の坂はきついはずだ!!  ほら、脚が重い、見てて重いぞ!!


「残り100! 差は3馬身! アサツユが迫る!」


 来い!! 来い来い来いよ!!  来てくれぇぇ!! 頼むから!!


「1馬身! グランフェザー粘る! アサツユ、大外から猛然と!」


 1馬身!! 来た来た来た!!  須賀!! 須賀やってくれ!!


「残り50! 半馬身! 並ぶか、並ぶか!」


 半馬身!! あと半馬身だけ!!  ……並んだ?  並んだのか、これ!?  頼む、頼む……!


「7番と14番、2頭の叩き合い!」


 須賀の鞭が入った、もう1回入った!!  出た!! 頭が出たぞ!!


「――抜け出した! 抜け出したのは大外一気、アサツユだ!」


 抜けた!! 抜けたぞ!!  アサツユだ!! アサツユが抜けた!!


「アサツユ、先頭でゴールイン! 18番人気のアサツユです!」


 ……あれ?  叫んでいたつもりが、声はひとつも出ていなかった。喉の奥で全部つっかえていたらしい。


 スタンドがどっと揺れて、どよめきが背中を押してくる。  俺は立ったまま――というより止まったまま、電光掲示板を見上げていた。


 1着に14、2着に7。着差は半馬身で、写真判定のランプは点かない。  ターフビジョンの14番の横では、314.7の数字が止まっていた。


 確定だ。  ……確定、なんだよな?


 まだ右の手が暖かい。そう思ったところで、左肩にずしりと重みが乗った。宮田さんの手だった。  何も言わずに、骨がきしむくらいの力で掴んでくる。  次の瞬間、右の手がほどけて、横から奏が飛びついてきた。腕が首に回って、そのまま3人でひとかたまりになる。


「陸! 勝った、勝ったよ!」


 宮田さんの手が震えている。いや、震えているのは俺の肩のほうか。  宮田さんは顔を背けて、鼻をすすった。見なかったことにしておこう。


 俺はといえば、体温は低いままなのに、心臓だけがやけにうるさかった。  財布の一番奥には、三上さんの100円の紙切れが入っている。出して確かめたりはしない。そこにあるのは分かってる。


 ……勝ったんだ。  ゲームなら、ここでファンファーレとリザルト画面が出るところだ。  現実は、どよめきと、首に回った奏の腕と、宮田さんが鼻をすする音だけだった。  悪くない。いや、最高だろ、これ。


 後ろで声がした。スタンドの後ろで笑っていた、あの男2人だ。


「……14番って、あの14番?」


「単勝、3万超えてんぞ」


 はい、それ俺です。  正確には三上さんのお金だし、100円だけど。


 母のツキノシズクは、14戦すべて1400m以下を走った馬だった。  長い距離が走れなかったんじゃなくて、走らせてもらえなかっただけだ。  2000をもたせる脚は、ずっとあの血の中にあったんだと思う。  7番は坂で脚を使いきっていた。マイルの馬に、東京の2000は長すぎたんだろう。


 ◇


「下りるぞ」


 宮田さんはもう階段に足をかけていた。俺と奏も、人の肩をよけながら最前列の柵まで下りる。


 ゴールを過ぎた18頭が、ゆっくり速度を落として、ばらばらに戻ってくる。  1着の馬も最下位の馬も、同じ足取りだ。白に青の二本輪も、その中に混じっていた。  須賀は手綱を緩めて、アサツユの首を一度だけ叩いた。拳を突き上げたりはしない。真面目な人なんだな、と思う。


 スタンドの前を通るとき、ぱらぱらと拍手が起きて、「アサツユ」と呼ぶ声が1つか2つ混じった。  レースの前まで、誰も見ていなかった名前だ。


「アサツユ」


 奏が、低くて優しい声で呼んだ。馬にだけ使う声だ。  アサツユの耳がこっちを向く。奏が柵に手をかけてもう一度呼ぶと、今度は首ごとこっちを見て、ぶふっと鼻を鳴らした。  奏が笑った。


「オーナー、口取りだ」


 宮田さんが胸の馬主バッジを指で叩いた。  勝った馬の横に並んで記念写真を撮る、あれだ。  ゲームならボタン1つで飛ばしていた画面に、まさか自分が映ることになるとは思わなかった。


 関係者口から地下の通路を抜ける。奏の胸にも同伴の札が揺れていた。  宮田さんが受付で、ちゃっかりもう1枚もらっておいたらしい。


 検量室の前に出ると、ちょうどアサツユが厩務員に引かれて入ってきたところだった。  須賀が鞍から降りて、外した鞍を腕に抱える。ヘルメットを脱ぐと、汗で髪がぺったり額に張り付いていた。  その髪を拭おうと手を上げたとき、アサツユが首を伸ばして、鼻で須賀の頭をつついた。


 ……やりやがった。


 須賀はヘルメットを持ったまま固まって、目を丸くしている。アサツユは追い打ちで、もう一度耳の横をつついた。  須賀が少し笑った。口の端だけが動く、小さい笑い方だ。  それから馬の鼻を一度だけ軽く叩くと、アサツユは満足そうに首を戻した。お前な。


「オーナー」


 振り返ると、先生が立っていた。目を丸くして、口が半開きのまま、深く頭を下げてくる。  何も言わなかったけど、言いたいことは目に全部書いてあった。


 口取りはあっという間だった。アサツユを真ん中に須賀と先生と厩務員が並び、俺はその端に立たされる。  フラッシュが光ったけど、ちゃんと笑えていたかは分からない。たぶん変な顔をしてた。


 ポケットの万年筆を握って、アサツユを見た。  首の汗が光っていて、呼吸もまだ荒い。それでも目だけは、いつもの柔らかいままだ。


【アサツユ(牡・2歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:    】


 変わらない。9月からずっと見てきた、見慣れた数字だ。  ――いや、待て。  パワーのAの右側に、うっすら何かが重なっている。小さくて薄いけど、「+」に見えた。  目を凝らしたら消えた。握り直してみても、もうただのAに戻っている。


 さっきのは何だったんだ。汗か、光の加減か。それとも――。


 ほかの数字は動いていない。スピードもスタミナも、根性も賢さも、隠れ適性の3行目の空白も、そのままだ。  万年筆を離すと数字が消えて、アサツユはただの黒鹿毛に戻った。呼吸は少しずつ落ち着いてきている。


「……これ、化けるな」


 口に出してから気がついた。自分でも聞こえないくらいの、低い声だった。  宮田さんが隣でこっちを見る。


「なんだ」


「なんでもないです」


「そうか」


 宮田さんは、また前を向いた。


 ◇


 検量室の前に、ICレコーダーとメモ帳を持った記者が何人か集まりはじめた。  その輪の真ん中で、勝負服のままヘルメットを脇に抱えて立っているのが須賀だった。


「おめでとうございます。18番人気、単勝314.7倍。見事な大外一気でした」


 須賀は輪の中で一度頭を下げた。首筋を汗が伝っている。


「ありがとうございます」


 丁寧な声だった。息はまだ少し上がっている。


「道中は、どういうレースを?」


 記者がレコーダーを近づけると、須賀は一拍置いてから、まっすぐ前を見た。


「道中、指示された通りに乗ったら、想像以上の脚を使ってくれました」


 ……指示された通り?  いやいや、指示なんかしてない。  俺が言ったのは「前に行かなくていい」と「直線まで脚を溜めてほしい」の2つだけだ。  下げる位置も、外に出す場所も、鞭を入れるタイミングも、全部須賀が自分で決めたことだ。  なのにこの人は、「指示された通り」と言った。


 お前のレースだろ、須賀。  それを、俺の手柄にしてくれたのかよ。


「……そうか」


 宮田さんが小さく呟いた。聞こえたのはそれだけで、目は輪の中の須賀から離れない。でも、頬が少しだけ緩んでいた。


 奏が遠慮なしに、肘で俺の脇腹をつついてくる。


「痛い」


「聞いた?」


「聞いた」


「あれ、陸のことだよ」


「……分かってる」


 奏はそれ以上何も言わなかった。  輪の中で、須賀がもう一度頭を下げる。


「強い馬に乗せてもらって、感謝しています」


 それだけ言って記者に会釈すると、輪がほどけた。  須賀はアサツユのそばまで歩いていって、黒鹿毛の首を一度だけ撫でた。  パドックで俺を見ていたときの、警戒する目じゃない。馬を見る、騎手の目だった。


 この人は、信じていいのかもしれない。たぶん。いや、たぶんじゃなくて、そういう人なんだと思う。


 須賀がこっちに気づいて、軽く頭を下げた。俺も会釈を返す。言葉は交わさなかったけど、それで足りた気がした。


「オーナー」


 宮田さんが小さく言った。


「はい」


「馬券、まだ財布の中だろ」


「……はい」


「帰ったら、三上さんに電話だ」


「焼肉の話、まだ生きてますかね」


「生きてる。あの人はそういう人だ」


 通路の向こうから、スタンドのざわめきが届いてくる。配当が出たらしい。  単勝314.7倍で、100円が3万1470円になった。


 奏の手が、まだ俺の脇腹のそばにあった。


「離して」


「離すよ」


 離さなかった。まあ、いいか。俺もそのままにしておいた。


 厩務員に引かれて、黒鹿毛の背中が通路の奥に消えていく。須賀の小さい背中も、検量室の中に入っていった。  ポケットの上から財布の形をなぞる。一番奥の紙切れは、まだちゃんとそこにある。


 壁の向こうのざわめきは、まだ収まらない。  奏がスマホの画面をこっちに向けた。


「京都、10分後だって」


「見ない」


「嘘つき」


「……見る」


「正直」


 奏がスマホをポケットに戻す。  宮田さんは左で前を向いたまま、何も言わなかった。俺も動かなかった。


 ――これで、まだ始まりに過ぎない。

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