手のひら返しと、圧勝の報せ
402:名無しの坂路民 東京5Rの14番、誰か説明しろ
403:名無しの坂路民 まさかの激走だろこれ 単勝314.7倍って何なの
404:名無しの坂路民 18番人気の馬が大外一気で差し切るとか 夢ありすぎる
405:名無しの坂路民 あの「記念出走だろ」って書いたやつ息してる?
406:名無しの坂路民 血統表見て閉じた者です すみませんでした
407:名無しの坂路民 まあ展開がハマっただけだろ 前が61秒2で飛ばしてたし
408:名無しの坂路民 母ツキノシズクは14戦全部1400以下だぞ 2000がもつわけないと思ってた
409:名無しの坂路民 血統も見直されるかもな、これ
410:名無しの坂路民 ちなみに「単勝300倍なら100円入れとく」って 書いてたやつ、結局入れたの?
411:名無しの坂路民 入れてない まさか本当に来るとは思わなかった
月曜の夜になっても、俺はひなた牧場の事務所で競馬掲示板のスレッドを眺めていた。 日曜の夕方からずっと伸び続けているスレだ。古いオフィスチェアの後ろからは、奏が覗き込んでいる。
「見て、ここ!」
宮田さんは事務机の向こうで、日曜の競馬紙を広げている。 広げたまま、さっきから1ページもめくっていない。 興味がないふりをしてるんだろうな。してるよね、宮田さん。
412:名無しの坂路民 爺さんから継いだんだって 祖父の遺志を背負った若き生産者 燃え展開すぎて草
燃え展開ってなんだよ。俺は普通に牧場を継いだだけなんだが。
「宮田さん、これ」
宮田さんは新聞の端を直した。 ページはめくられていない。
「……知らねぇ」
知ってる。 全部聞こえてる。
413:名無しの坂路民 にしても単勝314.7倍はひどい オッズつけた奴全員謝れ
414:名無しの坂路民 謝るわけねえだろ 18番人気の馬買ってるわけねえ
415:名無しの坂路民 俺は買ったぞ 100円な
416:名無しの坂路民 嘘つけ
417:名無しの坂路民 本当だ 焼肉の約束してる
「あっ」
奏が声を上げた。
「焼肉!」
「……三上さんだ」
415番で焼肉の約束って、間違いなくあの人だ。
「陸」
「なんだ」
「3万1470円で焼肉って何人いけるの」
「安い店なら5人」
418:名無しの坂路民 次走も買いだな 俺は買う
419:名無しの坂路民 さっそく手のひら返してて草
420:名無しの坂路民 いいんだよ勝てば官軍だろ
「手のひら返しが早いな」
低い声で言った。 自分でも驚くくらい静かだった。
「あ、ちょっと待って」
奏がスマホを取り出した。
「予想サイトのコメント欄見て。これ」
奏が指さしたのは、コメント欄の1件だった。
「この馬の次走は買い。母系の距離適性は見直すべき。坂で加速できる脚は普通じゃない。牧場は小さいけど馬は本物」
「見た?」
「見た」
「次走は買いだって」
「分かってる」
分かってる。 俺が一番分かってる。
でも、読んでるだけで少しだけ嬉しかった。 見ず知らずの誰かが、アサツユを見てくれた。
宮田さんが新聞を折りたたんだ。 初めて動いた。
「……オーナー」
「はい」
「もう遅いぞ。明日は5時だ」
「はい」
「消せ」
「はい」
パソコンを落とすと、事務所には外の風の音だけが残った。
◇
火曜の朝、飼い付けを終えて事務所に戻ると、ストーブの前の椅子に奏がいた。 日高の地元紙を広げている。
「陸、これ」
奏が紙面を俺のほうに向けた。
「先週は1行だけだったんだよ」
先週の新聞は俺も見た。『アサツユ(牡・父カムイボシ)』の1行だけで、母の名前すらなかった。 でも今日は、紙面の隅にちゃんと記事がある。
見出しは「18番人気アサツユ 東京で差し切り」。写真はなくて、10行くらいの短い記事だった。
「ツキノシズクの名前も載ってる」
本当に、母の名前があった。ツキノシズクが14戦すべて1400m以下だったことまで、丁寧に書いてある。 締めは「距離適性は未知数。今後の成長に注目したい」だった。
記事の行数を指で数えてみた。1、2、3……ちょうど10行だ。 そのすぐ上には、写真つきの大きな記事が載っていた。
京都新馬戦 テンカザクラ5馬身差圧勝
日曜に、奏のスマホで見たから知ってる。1番人気、単勝1.3倍の圧勝だった。 好位から楽に抜け出した、と書いてある。記事の分量は、アサツユの10倍はありそうだ。
「テンカザクラ、強かったんだね」
「そうだな」
テンカザクラを1歳の冬に鑑定したときの数字が、頭をよぎる。
【スピード:A+】【スタミナ:A】【パワー:A+】【根性:B+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】
あれから10ヶ月で、あの数字がそのまま結果になった。新馬戦を5馬身差だ。 そりゃそうだよな。あの数字なら、それくらいはやる。
「陸、コーヒー飲む?」
「飲む」
奏が立ち上がった。
こっちは10行。悪くない。 悪くないけど、な。
そのとき、事務所の黒い電話が、ジリリリリと古いベルを鳴らした。
宮田さんが馬房から戻ってきたところだった。 手を拭きながら受話器を取る。
「はい、ひなた牧場」
「……はい。ツキノシズクは元気です」
「……次の仔ですか。それは、オーナーと相談しまして」
問い合わせだった。受話器を置いた途端、また鳴る。
「……はい。見学ですか。いつでしょうか」
これで2件目だ。
受話器を置いたそばから、またジリリリリと鳴りだした。
「はい、ひなた牧場」
「……はい」
相手の声が大きくて、受話器からこっちまで漏れてくる。
「……はい。少々お待ちください」
宮田さんは受話器を手で押さえて、俺のほうを見た。
「オーナー」
「はい」
「お前に代われだと」
「……誰ですか」
「出りゃ分かる」
受話器を取った。 耳に当てた瞬間、鼓膜が割れそうになった。
『勝ったな! 見てたぞ!』
三上さんだ。
「はい、聞いてます」
『あの坂の脚は何だ! 18番人気だぞ! 314倍だぞ!』
「314.7です」
『細けえことはいいんだよ!』
細かくない。 0.7倍分は三上さんにとっては誤差らしい。
『町じゅうに言っといたからな』
「……言ったって、何をですか」
『アサツユのことだよ! ひなた牧場の馬が東京で勝ったってな!』
ああ、だからか。全部、三上さんが撒いた種だったのか。
「三上さん、それ今朝の電話のことですよね」
『ああ、何件か来たろ?』
「2件来ました」
『そりゃ少ねえな。俺は10人には言ったんだが』
『焼肉な』
「はい」
『日曜だ』
「日曜」
『町のあそこだ。12時集合な』
「ちょっと待ってください、俺の都合は」
『じゃあな!』
一方的に切れた。
「三上か」
宮田さんが新聞の上に手を置いたまま聞いてきた。
「そうです」
「何て」
「焼肉は日曜だそうです」
「12時か」
「……なんで12時って分かるんですか」
「あいつはいつも12時だ」
知ってるのか。
「俺の返事は聞いてませんでした」
「聞くわけねえだろ。あいつはそういう人だ」
だから言ったろ。 宮田さんの顔にそう書いてあった。
奏が笑った。 声を出して笑った。
「だって陸、焼肉行くんでしょ」
「行くとは言ってない」
「行くよ」
「なんで」
「三上さんが決めたから」
決めたからって。
宮田さんが新聞を折りたたんだ。
「オーナー」
「はい」
「日曜、俺も行くぞ」
「……宮田さんまで」
「行く。あいつの焼肉はでかいからな」
でかい、って。 焼肉の話をしているのか、三上さんの話をしているのか。
奏がまた笑った。
「じゃあ私も」
「呼んでない」
「宮田さんが行くなら私も行く」
「なんでそうなるんですか」
「だって焼肉だよ」
焼肉だよ、で済む話でもないんだが。
俺は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
三上さんの100円が3万1470円になって、焼肉5人分。
……合ってる。 計算は合ってる。
また、電話が鳴った。
◇
話は2日前の日曜、午後にさかのぼる。
『桜庭ステーブル』本社棟の3階にある統括の部屋は、静かだった。カーテンは半分だけ開いている。
玲司は革張りの椅子に座っていた。 背筋を伸ばしたまま、正面のモニターを見ている。
モニターに映っているのは、京都6Rの2歳新馬、芝2000mだ。 そのモニターの中で、ゲートが開いた。
「スタートしました」
「テンカザクラ、好スタート。3番手につけます」
好位につけた。予定どおりだ。 玲司はタブレットのペンを一度だけ回した。
「直線に入って、テンカザクラ抜け出します」
鞭は入らない。騎手が手綱を少し動かしただけで、馬が前に出ていく。
「ゴールイン。1着、テンカザクラ。勝ちタイム2分01秒2。上がり3ハロン、34秒0」
モニターの中で、ゴールを過ぎたテンカザクラが速度を落としていく。 額の小さな星が、画面の中で揺れている。 父グランクレスト、母ミスティアリア――玲司が自分で選んだ配合だ。
「当然だ」
口の端がわずかに上がった。本人も気づかないくらいの笑いだった。
ネクタイの結び目を少し緩めたところで、ドアが叩かれた。
「どうぞ」
木島が入ってきた。
「統括、おめでとうございます」
「5馬身ですね」
「ああ」
一礼して出ていきかけた木島が、ドアの前で振り返った。
「そういえば」
「東京の5Rの新馬、ひなた牧場の馬が勝ったそうですよ」
玲司の手は動かなかった。 東京5Rの出馬表なら、名前だけは見ていた。 見る必要はないと、決めていた。
「18番人気で。うちの若いのが騒いでました」
「単勝300倍超えだそうです」
「では、失礼します」
木島が出ていった。
部屋がまた静かになる。 回していたペンが止まって、玲司の眉間に一瞬だけ皺が寄り、すぐに消えた。
「……ふん、まぐれだろう」
誰もいない部屋に、そう言った。
玲司はタブレットを引き寄せて、東京5Rのレース映像を探して再生した。
玲司の目は、14番だけを追っていた。
残り400で坂にかかる。普通なら、ここで終わる馬のはずだった。
鞭が入ったところで、14番の脚が変わった。 坂の途中で、加速している。 ペンを持つ玲司の指が止まった。
玲司は巻き戻して、直線だけをもう一度見た。
見返したのは、鞭が入って脚が変わる坂の途中だ。 他の馬が芝を掴んで踏ん張っている中で、14番だけが浮くように前に出ている。
母はツキノシズクで、父は種付け料の安い種牡馬だ。
それが、東京の芝2000で、坂で加速した。 玲司は考えるように目を閉じ、少しして、もう一度画面を見つめた。 止めた映像の中で、14番はまだ坂を駆け上がっていた。
前は61秒2で通過していて、流れは速かった。ハイペースの恩恵を受けただけかもしれない。
玲司はタブレットを伏せて、椅子の背にもたれた。
――サンプルは、まだ1つだ。




