1勝クラス
12月最初の土曜は、朝の4時でも外がしんと冷えていた。 軽トラのエンジンを温めている間に、俺はもう一度だけ厩舎に戻った。
馬房の奥で、ツキノシズクが小さく耳を動かした。こっちを見ている。 ポケットから万年筆を出して、握り込む。冷えた金属が手のひらにゆっくり馴染んでいく。
【ツキノシズク(牝・9歳)】 【スピード:B+】【スタミナ:A】【パワー:C】【根性:A-】【賢さ:B】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性: 】
数字は前と変わらない。変わらないのに、引っかかる。 スタミナのAは、1400m以下ばかり走らされた牝馬の数字じゃない。 走らせてもらえなかっただけの距離適性が、ここにずっと眠っていたんだと思う。 シズクは俺の手のひらを鼻先でつついて、それから首を下げた。
外で宮田さんの声がした。
「行くぞ」
短い声だった。暗がりに白く息が浮かんでいる。 俺はシズクの首を一度だけ撫でて、馬房を出た。
厩舎を出ると、外気が頬を刺した。
軽トラまでの数十歩を歩きながら、この7週間を少しだけ思い出す。
10月のあの火曜の朝、事務所の黒い電話がまた鳴った。先生からだった。次走は12月、中山・芝2000の1勝クラスに決まった。先生は「そこから始めましょう」とだけ言った。
その週の日曜の焼肉は、三上さんがほとんど1人で食べていた。宮田さんは黙って食って、奏が笑っていた。俺は3切れくらいしか食べてない気がする。
あれから毎日、飼い付けと牧場の仕事を繰り返して、気づけば12月だった。
軽トラの運転席のドアに手をかけて、開けた。
明日は中山で、アサツユの1勝クラスがある。 空はまだ暗くて、粉雪が斜めに落ちていた。
◇
日曜の中山競馬場は、北海道から来た身にはずいぶん暖かかった。 パドックの柵の前に宮田さんと奏と3人で並ぶと、10頭立ての周回がよく見えた。 オッズ板の6番の横には、4.2の数字が出ている。
ポケットの万年筆を握って、まずは1番人気の3番、シャドウリーフから見ていく。単勝2.3倍の、肩の盛り上がった鹿毛だった。
【シャドウリーフ(牡・2歳)】 【スピード:A】【スタミナ:B】【パワー:A-】【根性:B+】【賢さ:A-】 【隠れ適性:マイル向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性: 】
シャドウリーフはマイル向きだ。 スピードのAは本物だけど2000は少し長い。出馬表の前走欄は、1600の新馬戦だった。その距離で勝ち切った馬が、今日は同じ舞台に立っている。
悪くはない。でも、化けるタイプじゃない。
続けて残りの馬たちを見ていく。4番、5番、8番、1番……どれもスピードはB、スタミナはCくらいだ。中にはパワーがCの馬もいて、坂のある中山ではきつそうだった。
最後に6番を見る。
【アサツユ(牡・2歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性: 】
変わらない。 9月からずっと見てきた見慣れた数字だ。パワーのAに重なっていたあの「+」も、今日は見えない。
でも、この5つのA+とAが並んでいる時点で、今日のメンバーでは抜けている。
1番人気のシャドウリーフと比べても、スピードは1段上で、スタミナはずっと上だ。パワーも根性も賢さも、全部こっちが上回っている。
中山の2000は直線こそ短いけど、ゴール前の坂を2回上ることになる。スタミナのA+が、そこで生きる。
今日は、通用する。
隣で奏が、周回してくる馬たちを見ながら小さく言った。
「前より人気あるね」
「そうだな」
「4.2倍だって。びっくり」
「俺もびっくりしてる」
本当だ。単勝314.7倍の馬が、次は2番人気で走っている。オッズ板の数字が別人みたいだ。
「陸は、どう思う?」
「勝てる」
奏が一瞬だけこっちを見て、それからまた前を向いた。
「……そっか」
「そっか、って何だよ」
「ううん。陸がそう言うなら、そうなんだろうなって」
宮田さんは何も言わずに、腕を組んだまま6番を見ている。口元が、ほんの少しだけ動いた。
パドックの周回が終わって、馬たちが本馬場へ向かっていく。6番の黒鹿毛の背中が、地下馬道の暗がりに吸い込まれていくところだった。
「行くぞ」
宮田さんが短く言って、スタンドの階段を上がり始めた。
◇
「スタートしました! 揃ったスタートから、1番がハナを奪って先頭に立ちます!」
おい。 おい、6番は!?
「6番アサツユ、出がいい! すっと前に行きます!」
前かよ!? 前に行くのかよ!? 新馬戦は後ろからだっただろうが!? でも見ろ、折り合ってる、ちゃんと折り合ってる!
「1コーナー、先頭は1番。その1馬身後に6番アサツユがつけます!」
前から2番手!? 須賀、お前何を企んでんだ! ……いや、やめろ俺。 この人のレースだ。信じるしかねえだろ。
「3番シャドウリーフは前から5番手、1番人気は中団前を追走します」
1番人気は中団か。
「向正面、先頭は1番。6番アサツユが2番手でマークします」
マークじゃねえ、監視だ。 その距離、まるで背中を見張ってるみたいだ。
「1000メートルの通過は62秒0」
62秒0!? ゆっくりだ、ずいぶんゆったりだぞ! 前が溜めてる、これは後ろが困る流れだ! でもアサツユは前だから、この流れはこっちの味方だ! いいぞ、そのまま、そのまま!
「3コーナー、先頭は1番。6番アサツユが外から進出を開始します!」
来た! 動いたぞ須賀! 外から、堂々と行くんだな!
「4コーナー、6番アサツユ、外から1番に並びかけます!」
並ぶな、もう並ぶのかよ!? 早えよ、まだ直線も入ってねえのに!?
「直線に入って、先頭に立ったのは6番アサツユ!」
かわした!! 逃げ馬をかわして先頭だ!!
「外から3番シャドウリーフが追い込んでくる! 1番人気が前から2番手に上がります!」
来た! 1番人気だ、やっぱり来たか! 詰まってる、差が詰まってるぞ!?
「残り200、坂の手前でその差は1馬身!」
来るな、来るなよ!? 坂だ、ここからだぞ!! アサツユ、もう一度だ、もう一度くれ!!
「坂を上って、アサツユが再び伸びた! 差はまた広がっていきます!」
伸びた!! 坂でもう一度伸びやがった!! おい、須賀、まだ本気で追ってねえだろ!? それでこの脚!? それでこの脚なの!?
「2馬身差、6番アサツユが楽な手応えで残り100を切ります!」
もう大丈夫か? 大丈夫なんだよな!? 頼む、最後までそのまま来いよ!!
「6番アサツユ、ゴールイン! 新馬戦に続いて2連勝!」
叫んでいたはずなのに、喉からは空気が漏れただけだった。 熱だけが両頬に残っていて、心臓が耳の奥でうるさい。でも体の芯は、いつもの温度に戻りつつあった。 電光掲示板を見上げると、1着に6、2着に3が出ていて、着差は2馬身、勝ちタイムは2分02秒1だった。馬場は良だ。
「新馬で300倍だったやつだろ、これ」
「普通に強くないか!? なんで2番人気なんだよ」
「買ってなかったわ……」
振り返れば、知らない客たちが電光掲示板の6番を指差している。
「勝ったね」
奏が俺の腕をバンと叩いた。痛い。でもその痛みで、やっと現実に足がついた気がした。
「……おう」
宮田さんがそれだけ言って、あとは鼻をすすった。また見なかったことにしよう。
3人で関係者口をくぐって、検量室前で口取りの写真を撮った。 アサツユを引いてきた厩務員の横で、下馬した須賀が鞍を外して小脇に抱え、汗で張り付いた前髪のまま俺の前に来た。
「オーナー」
「はい」
「この馬、まだ余力を残してますよ」
え?
「鞭は1回も使っていません。手綱を押すだけでこの脚です」
淡々と言う。自慢でも謙遜でもなく、事実を伝えているだけの声だ。 ……1回も? 俺はポケットの万年筆を握りしめた。
【アサツユ(牡・2歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性: 】
表示は前と同じだ。 でも1行だけ、さっきとは明らかに違うところがあった。
【隠れ適性:中距離向き】の文字が、前より濃く、くっきりと視界に焼き付いている。まるでそれが今、確定したかのように。
まだ2歳の冬で、1勝クラスを勝ったばかりだ。それでも、余力を残している、という須賀の言葉が頭の中で回っている。 東京の坂で爆発して、中山の坂で突き放した。これがただの中距離向きなわけがない。 皐月賞は中山の2000で、ダービーは東京の2400だ。 俺は万年筆を離した。文字が消えて、アサツユはただの黒鹿毛に戻る。 アサツユがぶふっと鼻を鳴らして、俺の帽子をつついた。お前な。
「前に行ったのは、須賀さんの判断ですか」
須賀は鞍を抱えたまま、一拍だけ目を合わせた。
「最後は僕が判断すると、申し上げました」
短かった。でもそれで全部だった。新馬戦も今日も、須賀が自分で決めてアサツユを走らせたんだ。
須賀が軽く一礼して、検量室の扉をくぐっていく。小さい背中が奥に消えた。
迷う必要は、もうなかった。
――本気で、狙うか。クラシックを。
◇
検量室前を離れて、俺たちは関係者口へ戻る通路を歩いていた。夕方の光が、白い壁に低く差し込んでいる。
先生が隣に並んで、少し歩いてから口を開いた。
「オーナー」
「はい」
「次は、2月の阪神、すみれステークスに使います」
足音だけがしばらく続いた。俺は何も言わずに、先生の横顔を見る。
「条件戦で足踏みさせる馬じゃありません。オープンに出れば、相手は今年の2歳のいいところばかりになりますよ」
10月に地元紙で見た、写真つきの大きな記事が頭に浮かんだ。
宮田さんは前を向いたまま、腕を組んでいる。奏も黙って、俺の半歩後ろを歩いている。
「はい」
それだけ答えた。先生はうなずいて、また前を向く。
アサツユはもう厩舎のほうへ引かれていって、黒鹿毛の背中は通路の先に見えなくなっていた。
――次は、桜庭ステーブルの馬とも同じ舞台で走ることになる。




