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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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21/53

1勝クラス




 12月最初の土曜は、朝の4時でも外がしんと冷えていた。  軽トラのエンジンを温めている間に、俺はもう一度だけ厩舎に戻った。


 馬房の奥で、ツキノシズクが小さく耳を動かした。こっちを見ている。  ポケットから万年筆を出して、握り込む。冷えた金属が手のひらにゆっくり馴染んでいく。


【ツキノシズク(牝・9歳)】 【スピード:B+】【スタミナ:A】【パワー:C】【根性:A-】【賢さ:B】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:    】


 数字は前と変わらない。変わらないのに、引っかかる。  スタミナのAは、1400m以下ばかり走らされた牝馬の数字じゃない。  走らせてもらえなかっただけの距離適性が、ここにずっと眠っていたんだと思う。  シズクは俺の手のひらを鼻先でつついて、それから首を下げた。


 外で宮田さんの声がした。


「行くぞ」


 短い声だった。暗がりに白く息が浮かんでいる。  俺はシズクの首を一度だけ撫でて、馬房を出た。


 厩舎を出ると、外気が頬を刺した。


 軽トラまでの数十歩を歩きながら、この7週間を少しだけ思い出す。


 10月のあの火曜の朝、事務所の黒い電話がまた鳴った。先生からだった。次走は12月、中山・芝2000の1勝クラスに決まった。先生は「そこから始めましょう」とだけ言った。


 その週の日曜の焼肉は、三上さんがほとんど1人で食べていた。宮田さんは黙って食って、奏が笑っていた。俺は3切れくらいしか食べてない気がする。


 あれから毎日、飼い付けと牧場の仕事を繰り返して、気づけば12月だった。


 軽トラの運転席のドアに手をかけて、開けた。


 明日は中山で、アサツユの1勝クラスがある。  空はまだ暗くて、粉雪が斜めに落ちていた。


 ◇


 日曜の中山競馬場は、北海道から来た身にはずいぶん暖かかった。  パドックの柵の前に宮田さんと奏と3人で並ぶと、10頭立ての周回がよく見えた。  オッズ板の6番の横には、4.2の数字が出ている。


 ポケットの万年筆を握って、まずは1番人気の3番、シャドウリーフから見ていく。単勝2.3倍の、肩の盛り上がった鹿毛だった。


【シャドウリーフ(牡・2歳)】 【スピード:A】【スタミナ:B】【パワー:A-】【根性:B+】【賢さ:A-】 【隠れ適性:マイル向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:    】


 シャドウリーフはマイル向きだ。  スピードのAは本物だけど2000は少し長い。出馬表の前走欄は、1600の新馬戦だった。その距離で勝ち切った馬が、今日は同じ舞台に立っている。


 悪くはない。でも、化けるタイプじゃない。


 続けて残りの馬たちを見ていく。4番、5番、8番、1番……どれもスピードはB、スタミナはCくらいだ。中にはパワーがCの馬もいて、坂のある中山ではきつそうだった。


 最後に6番を見る。


【アサツユ(牡・2歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:    】


 変わらない。  9月からずっと見てきた見慣れた数字だ。パワーのAに重なっていたあの「+」も、今日は見えない。


 でも、この5つのA+とAが並んでいる時点で、今日のメンバーでは抜けている。


 1番人気のシャドウリーフと比べても、スピードは1段上で、スタミナはずっと上だ。パワーも根性も賢さも、全部こっちが上回っている。


 中山の2000は直線こそ短いけど、ゴール前の坂を2回上ることになる。スタミナのA+が、そこで生きる。


 今日は、通用する。


 隣で奏が、周回してくる馬たちを見ながら小さく言った。


「前より人気あるね」


「そうだな」


「4.2倍だって。びっくり」


「俺もびっくりしてる」


 本当だ。単勝314.7倍の馬が、次は2番人気で走っている。オッズ板の数字が別人みたいだ。


「陸は、どう思う?」


「勝てる」


 奏が一瞬だけこっちを見て、それからまた前を向いた。


「……そっか」


「そっか、って何だよ」


「ううん。陸がそう言うなら、そうなんだろうなって」


 宮田さんは何も言わずに、腕を組んだまま6番を見ている。口元が、ほんの少しだけ動いた。


 パドックの周回が終わって、馬たちが本馬場へ向かっていく。6番の黒鹿毛の背中が、地下馬道の暗がりに吸い込まれていくところだった。


「行くぞ」


 宮田さんが短く言って、スタンドの階段を上がり始めた。


 ◇


「スタートしました! 揃ったスタートから、1番がハナを奪って先頭に立ちます!」


 おい。  おい、6番は!?


「6番アサツユ、出がいい! すっと前に行きます!」


 前かよ!? 前に行くのかよ!?  新馬戦は後ろからだっただろうが!?  でも見ろ、折り合ってる、ちゃんと折り合ってる!


「1コーナー、先頭は1番。その1馬身後に6番アサツユがつけます!」


 前から2番手!?  須賀、お前何を企んでんだ!  ……いや、やめろ俺。  この人のレースだ。信じるしかねえだろ。


「3番シャドウリーフは前から5番手、1番人気は中団前を追走します」


 1番人気は中団か。


「向正面、先頭は1番。6番アサツユが2番手でマークします」


 マークじゃねえ、監視だ。  その距離、まるで背中を見張ってるみたいだ。


「1000メートルの通過は62秒0」


 62秒0!?  ゆっくりだ、ずいぶんゆったりだぞ!  前が溜めてる、これは後ろが困る流れだ!  でもアサツユは前だから、この流れはこっちの味方だ!  いいぞ、そのまま、そのまま!


「3コーナー、先頭は1番。6番アサツユが外から進出を開始します!」


 来た! 動いたぞ須賀!  外から、堂々と行くんだな!


「4コーナー、6番アサツユ、外から1番に並びかけます!」


 並ぶな、もう並ぶのかよ!?  早えよ、まだ直線も入ってねえのに!?


「直線に入って、先頭に立ったのは6番アサツユ!」


 かわした!! 逃げ馬をかわして先頭だ!!


「外から3番シャドウリーフが追い込んでくる! 1番人気が前から2番手に上がります!」


 来た! 1番人気だ、やっぱり来たか!  詰まってる、差が詰まってるぞ!?


「残り200、坂の手前でその差は1馬身!」


 来るな、来るなよ!?  坂だ、ここからだぞ!!  アサツユ、もう一度だ、もう一度くれ!!


「坂を上って、アサツユが再び伸びた! 差はまた広がっていきます!」


 伸びた!! 坂でもう一度伸びやがった!!  おい、須賀、まだ本気で追ってねえだろ!?  それでこの脚!? それでこの脚なの!?


「2馬身差、6番アサツユが楽な手応えで残り100を切ります!」


 もう大丈夫か? 大丈夫なんだよな!?  頼む、最後までそのまま来いよ!!


「6番アサツユ、ゴールイン! 新馬戦に続いて2連勝!」


 叫んでいたはずなのに、喉からは空気が漏れただけだった。  熱だけが両頬に残っていて、心臓が耳の奥でうるさい。でも体の芯は、いつもの温度に戻りつつあった。  電光掲示板を見上げると、1着に6、2着に3が出ていて、着差は2馬身、勝ちタイムは2分02秒1だった。馬場は良だ。


「新馬で300倍だったやつだろ、これ」


「普通に強くないか!? なんで2番人気なんだよ」


「買ってなかったわ……」


 振り返れば、知らない客たちが電光掲示板の6番を指差している。


「勝ったね」


 奏が俺の腕をバンと叩いた。痛い。でもその痛みで、やっと現実に足がついた気がした。


「……おう」


 宮田さんがそれだけ言って、あとは鼻をすすった。また見なかったことにしよう。


 3人で関係者口をくぐって、検量室前で口取りの写真を撮った。  アサツユを引いてきた厩務員の横で、下馬した須賀が鞍を外して小脇に抱え、汗で張り付いた前髪のまま俺の前に来た。


「オーナー」


「はい」


「この馬、まだ余力を残してますよ」


 え?


「鞭は1回も使っていません。手綱を押すだけでこの脚です」


 淡々と言う。自慢でも謙遜でもなく、事実を伝えているだけの声だ。  ……1回も?  俺はポケットの万年筆を握りしめた。


【アサツユ(牡・2歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:    】


 表示は前と同じだ。  でも1行だけ、さっきとは明らかに違うところがあった。


 【隠れ適性:中距離向き】の文字が、前より濃く、くっきりと視界に焼き付いている。まるでそれが今、確定したかのように。


 まだ2歳の冬で、1勝クラスを勝ったばかりだ。それでも、余力を残している、という須賀の言葉が頭の中で回っている。  東京の坂で爆発して、中山の坂で突き放した。これがただの中距離向きなわけがない。  皐月賞は中山の2000で、ダービーは東京の2400だ。  俺は万年筆を離した。文字が消えて、アサツユはただの黒鹿毛に戻る。  アサツユがぶふっと鼻を鳴らして、俺の帽子をつついた。お前な。


「前に行ったのは、須賀さんの判断ですか」


 須賀は鞍を抱えたまま、一拍だけ目を合わせた。


「最後は僕が判断すると、申し上げました」


 短かった。でもそれで全部だった。新馬戦も今日も、須賀が自分で決めてアサツユを走らせたんだ。


 須賀が軽く一礼して、検量室の扉をくぐっていく。小さい背中が奥に消えた。


 迷う必要は、もうなかった。


 ――本気で、狙うか。クラシックを。


 ◇


 検量室前を離れて、俺たちは関係者口へ戻る通路を歩いていた。夕方の光が、白い壁に低く差し込んでいる。


 先生が隣に並んで、少し歩いてから口を開いた。


「オーナー」


「はい」


「次は、2月の阪神、すみれステークスに使います」


 足音だけがしばらく続いた。俺は何も言わずに、先生の横顔を見る。


「条件戦で足踏みさせる馬じゃありません。オープンに出れば、相手は今年の2歳のいいところばかりになりますよ」


 10月に地元紙で見た、写真つきの大きな記事が頭に浮かんだ。


 宮田さんは前を向いたまま、腕を組んでいる。奏も黙って、俺の半歩後ろを歩いている。


「はい」


 それだけ答えた。先生はうなずいて、また前を向く。


 アサツユはもう厩舎のほうへ引かれていって、黒鹿毛の背中は通路の先に見えなくなっていた。


 ――次は、桜庭ステーブルの馬とも同じ舞台で走ることになる。

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