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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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22/55

横から差し込まれる




 12月の半ばを過ぎた夜、俺は事務所のストーブの前で、分厚い冊子をめくっていた。  来週、静内の市場で開かれる繁殖馬セールの、上場馬カタログだ。


 アサツユの賞金は入った。……ありがたい話だ。  でも借金800万円はまだ残ってるし、アサツユの預託料も毎月出ていく。まるで借金という名の幽霊が背中に乗っかってるみたいだ。降りてくれない。


「宮田さん」


「なんだ」


「2頭目、入れたいです」


 宮田さんはストーブのやかんの位置を直しながら、一瞬だけ手を止めた。


「……いくらだ」


「200万まで」


「足りねえだろ」


「分かってます」


 分かってるよ。200万で買える繁殖牝馬なんて、ろくなのがいないことくらい。  でもな、俺には万年筆がある。


 ◇


 翌週、静内の市場は冷たい風が吹いていた。  俺と宮田さんと奏の3人で、上場馬の馬房を順番に見ていく。


 奏は歩きながら、ブランドのついた繁殖馬の名前を読み上げては「高いね」「無理だね」と報告してくる。分かってる。俺の財布の厚さが分かってるなら頼むから声に出さないでくれ。


 52番の馬房の前で、足が止まった。


『ハルノサザナミ(牝・7歳)』  現役成績は18戦0勝。未勝利で引退した馬だ。血統表に目立つ名前はない。カタログの隅にひっそり載っている。


「この馬、安く落ちるって話だよ」


 奏が小声で言った。市場の関係者から聞いた情報だろう。


 安く落ちる。俺にとっては良い言葉だ。


 宮田さんが腕を組んだまま馬房の中を見ている。何も言わない。


 ハルノサザナミは、柵の向こうで静かに立っていた。地味な鹿毛で、特に目立つところはない。


 でも。


 俺はポケットの中で、万年筆を握りしめた。


【ハルノサザナミ(牝・7歳)】 【スピード:B】【スタミナ:A】【パワー:A-】【根性:A】【賢さ:B+】 【隠れ適性:長距離向き】 【隠れ適性:道悪巧者】 【隠れ適性:    】


 スタミナAに根性A。  18戦して未勝利の馬の数字じゃない。


 これだけの底力がありながら勝てなかったんじゃない。勝たせてもらえなかっただけだ。ツキノシズクと同じだ。  道悪巧者で長距離向き。道悪の長いレースでこそ化けるポテンシャルがここにある。


 これは掘り出し物だ。絶対に外せない。  万年筆の力を緩めると、文字がふっと消えた。ハルノサザナミはただの地味な鹿毛に戻る。


 俺はポケットに手を入れたまま言った。


「この馬、いいと思う」


 奏が目を丸くする。


「え? これ? 未勝利馬だよ?」


「見た目は地味だけどな。でもいい馬だ」


 理由は言えない。言ったら万年筆のことになっちまう。  宮田さんが馬房の中をじっと見ている。


「……200だぞ。それ以上は出さねえ」


 短い言葉だった。でもそれだけで十分だった。


 俺がうなずくと、宮田さんも一度だけうなずいた。  市場の事務所で購買者の番号札を受け取る。プラスチックの薄い板に「42」と書かれている。


 これが俺たちの武器だ。借金まみれの牧場が、たった200万の予算で挑むセリだ。  負けるわけにはいかない。


 ◇


 午後1時、セリが始まった。


 52番が、引かれてきた。


「では52番、ハルノサザナミ、7歳の繁殖牝馬です」


 鑑定人の声が、すり鉢状の客席に落ちる。


「50万から、いかがですか」


 しーん。  場が静かだ。誰も手を挙げない。


 未勝利馬に、人気のない血統。そりゃそうだ。カタログの隅っこにも載ってた馬だからな。  ……俺の番だ。


 札を挙げた。


「60万」


「60万、出ました。ほかに」


 後ろのほうで、小さく手が挙がる。


「70万」


 地元の小さな牧場だ。顔は知ってる。負けるわけにはいかない。


「80万」


 80、90、100万。  競り合いは、ゆっくりだった。100万で、あの牧場の手が下がった。


「100万、他にありませんか。100万、1回」


 いける。  いけるぞ、これ。


「100万、2回」


 ここで、場がざわついた。  後ろの列から、札が挙がった。


「300万」


 ……え?  声の主は、黒いコートの男だった。札の番号は見えない。すっと挙げた手が、竿の先みたいに動かない。


 鑑定人が一瞬、口ごもった。


「300万、出ました。300万、ほかに」


 周りの客席がごそごそと揺れて、ひそひそと声が混ざり始める。


 俺の番号札が、膝の上で小さく揺れた。  手が勝手に動く。上がれ、上がれって。


 おい、やめろ。200万が上限だ。それ超えたら牧場の首が締まる。分かってる。  分かってるよ。


 でも、あの数字を視たのは、俺なんだぞ。スタミナAと根性Aを、この目で視たのは。


「っ」


 上げかけた手首を横から黙って押さえられた。宮田さんの手だ。骨ばった指が、万力みたいに効いている。  宮田さんは前を向いたまま、何も言わない。


 言わなくていい。分かってるから。  俺は唇を噛んで、札を膝に下ろした。


「300万、2回」


 黒いコートの男は、一度も表情を変えなかった。挙げた手が、まだ竿みたいに動かない。  あの挙げ方は、よそ様の手つきだ。


「300万、最後です」


 木槌が、鳴った。


「52番、300万円で売却です」


 すり鉢にどよめきが落ちて、消える。  隣で奏が小さく「あーあ」と漏らした。


 ハルノサザナミは、知らないまま引かれていった。  俺の万年筆だけが、その数字を知っていた。


 木槌の音がまだ耳に残っている。  セリ場を出た通路は薄暗くて、壁沿いに馬を引いた人たちが行き交っている。


 俺は番号札を握りつぶしたまま歩いていた。42の数字が手のひらに食い込んでいる。


「陸、ちょっと待って」


 奏が袖を引いた。小声だ。


「あの人、桜庭ステーブルの買い付けの人だよ。篠宮ファームでも顔を見るから間違いない」


 見ると、黒いコートの男が真っ直ぐこっちへ歩いてきていた。  脇に避けようとして、男の足が止まった。


 俺の足も、止まった。  男はスッと頭を下げた。丁寧な、行儀のいい会釈だった。


「日向さん、でしたね」


 声も丁寧だった。


「統括から、日向さんが札を挙げた馬は押さえておくように言われておりまして」


 それだけだった。  男はもう一度小さく頭を下げて、通路の向こうへ歩いていく。黒い背中が人混みに消えていくのを、俺はただ見ていた。


 ……押さえておく、って。  俺が挙げた馬を最初から見てたってことか。


 悔しさが喉の奥で詰まっていた。言葉が出てこない。出てきても、きっとろくな言葉じゃない。  だから、何も言わなかった。


 宮田さんも何も言わなかった。奏も黙って俺の袖を掴んだままだった。  市場の出口の光が白い。粉雪がまた落ち始めていた。


 駐車場までの道を3人で黙って歩いた。  俺は、振り返らなかった。


 ◇


 帰りの車は、奏が運転した。  車の中は、しばらく誰も喋らなかった。  ワイパーが雪を払う音とスタッドレスの軋みだけが続く。俺は窓の外の白い景色を見ながら、さっきの木槌の音を頭の中で何度も鳴らしていた。


 300万。  あの男は、ためらいもなく手を挙げた。俺は200万が上限で、それすら宮田さんの手に止められた。


 資金力の差はたぶん100倍ある。いや、もっとだ。同じ土俵に立っているつもりでいたけど、土俵そのものが違うのかもしれない。


「陸」


 奏が前を向いたまま言った。視線は雪の先の道路だ。


「資金力では、敵わないよ。それはどうしようもない」


「……分かってる」


「でも」


 ハンドルを握る手が、少しだけ強くなった。


「あなたには、見えてるものがあるでしょ」


 あなた、と言った。普段は「陸」って呼ぶのに。  俺は思わず奏の横顔を見た。前を向いたまま、まぶたも動かさない。顔だけが、いつもの研修厩務員の顔をしている。


 俺は何も言えなかった。万年筆のことは、誰にも言っていない。言えるわけがない。でも奏は、俺が馬を見るときの目を見ている。アサツユのときも、ハルノサザナミの前で足を止めたときも、ずっと隣で見ていた。


「……そうだ」


 後ろから、宮田さんの低い声が落ちてきた。ひと言だけだ。それで足りた。  俺はポケットの中で、冷たい万年筆を握った。


 量より質だ。俺たちのやり方でいく。  1頭に、全部を懸ける。それしかできないから、それをする。


 窓の外で、粉雪が斜めに流れていく。ヘッドライトの先が、白くぼやけていた。


 ◇


 牧場に着いたときには、外はもう真っ暗だった。  厩舎の電気をつけて馬の様子を見てから、事務所に入った。シズクは静かに寝藁に伏していた。  宮田さんが無言でストーブに火をつける。青い炎が跳ねて鉄がチリチリ鳴る。奏も黙って席に座ったままだ。


 ストーブの前に手をかざしたとき、ポケットの携帯が震えた。画面には「須賀」の2文字。


「……もしもし」


『夜分にすみません、須賀です。先生から、オーナーに伝えてくれと言われまして。次のすみれステークス、使ってくると聞いた馬に、1頭、気になるのがいるそうで』


「はい」


 一拍、空いた。


『――テンカザクラです』


 携帯を耳に当てたまま、動けなかった。今日、黒いコートの男に競り負けた。300万で横から差し込まれた。あの背中は桜庭ステーブルの背中だった。悔しさが腹の底で音を立てて熱に変わっていく。


「分かりました。ありがとうございます」


 電話を切って、ストーブの火を見たまま言った。


「次の相手、テンカザクラだ」


 宮田さんの目が細くなった。奏が息を飲む音が聞こえた。ポケットの中で万年筆を握る。冷たい金属が、手のひらで熱くなっていた。

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― 新着の感想 ―
名門の癖にこすい手を…でも無意識の内に認めてるって事かな。 こんな序盤に気づくなんて流石ライバル。 でもこうなると庭先とかしかないのかな…厳しいね。
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