奏の迷い
いつもうるさい奏が、シズクの馬房の前で黙っていた。
年が明けて、2月になった。テンカザクラが同じすみれステークスに出てくる予定だと聞いてから、もう6週間がたつ。アサツユは3歳になって、美浦の先生のところでレースを待っている。あと3週間だ。
夕方の飼い付けを終えて、俺は厩舎の奥のほうへブラシを取りに行った。
シズクの馬房の前で奏がブラシを握ったまま立っていた。手は動いている。動いているけど、目がどこも見ていない。馬体を撫でるブラシの音だけが、厩舎の中に一定のリズムで落ちている。
俺は隣に並んで、自分の分のブラシを手に取った。
「奏」
「……へ? あ、うん。なに」
返事が一拍遅れた。いつもの倍くらい遅い。早口の奏が一拍遅れるのは、だいたい天気か馬か俺のどれかが原因だ。雪はいつものことだ。馬も元気だ。消去法でいくと、たぶん俺だ。心当たりは……まあ、ある。
「ブラシ、同じとこばっかり撫でてる」
「えっ」
奏は手を止めて、シズクの脇腹を見た。見て少し赤くなった。
「……ほんとだ。ごめん、シズク」
シズクはされるがままに立っている。耳だけが奏のほうを向いて、鼻先が小さく上下した。文句を言うでもなく、ただ静かに立っている。この馬はいつもそうだ。誰かがそばにいるだけで、黙って待っててくれる。
「シズク、気持ちよさそうだぞ」
「そう? 私、手抜きしちゃったかも」
「手抜きっていうか、魂が抜けてた」
「失礼な」
軽く笑った。笑ったけど、声の端っこが少しだけ引っかかった。俺はブラシを動かしながら、その引っかかりの正体を探るでもなく、ただ隣で同じ馬を撫でていた。厩舎の外では雪が降っている。音もなく積もっていくやつだ。
シズクが首を下げて奏の肩に鼻先をこすりつけた。奏は少しだけ目を細めて、その鼻面を手のひらで包んだ。
そしてブラシを持つ手を止めた。
「ねえ陸」
「ん」
「うちの牧場さ、年間50頭以上生まれるんだ」
ぽつり、と言った。ブラシを持ったまま、シズクの首筋を見ている。
「生まれた仔は、名前がつく前に番号で呼ばれるの。去年の17番とか、22番とか。父が決めるんだけど、ずっとそうだった」
「知ってる」
「知ってるよね。幼馴染だもんね」
奏はまたブラシを動かし始めた。
「私、小さい頃からそれが当たり前だと思ってた。番号で呼ばれて、データに乗せられて、いい子は残って、そうじゃない子は売られる。それが牧場だと思ってた」
シズクが鼻を鳴らした。奏の手が首から肩へゆっくり移動する。
「でもね、ずっと引っかかってたの。番号で呼ぶの。馬は番号じゃないのに」
声が少し細くなった。
「獣医を目指したのは、馬のそばにいたかったからなんだけど……戻ってきて、また番号の仔たちを見て、思っちゃった。この子たちの名前、誰がつけるんだろうって」
俺はブラシを動かしながら黙って聞いていた。
「うちの父のやり方、間違ってるとは思わない。篠宮ファームの規模を維持するには、あのやり方しかないのも分かってる」
奏は一度言葉を切った。シズクの鬣を指で梳きながら、目を伏せた。
「でも……陸を見てると、違うやり方もあるんだなって」
俺の手が一瞬止まった。
「アサツユのことも、シズクのことも、陸はちゃんと名前で呼んでる。番号じゃなくて、最初から名前で見てる。それって……すごいことだよ」
アサツユの名前をつけたのは奏だし、俺が一番、数字で馬を見てるんだけどな。
最後のほうは少し早口になった。いつもの奏だ。でも声の端っこが、まだ揺れている。
「私、この先どうやって牧場と関わっていけばいいのか分からなくなっちゃった。獣医の勉強をして戻ってきたのは間違いじゃないと思うけど、篠宮ファームの娘として、あの番号の仔たちの前に立つとき、いつも少し息が詰まるんだ」
寝藁を踏む音だけがしばらく続いた。シズクが奏の手の甲に鼻先をこすりつけた。奏はそれを黙って受け入れている。 俺は何も言わなかった。言うべきじゃないと思った。今はただ、隣に立って同じ馬を撫でていればいい。
しばらくして、俺は口を開いた。
「……親父さんに、言ってみればいいんじゃないか」
言ってから、思った。まずい出だしだ。
奏はブラシの手を止めて、ゆっくりこっちを見た。呆れと、ちょっとだけ呆れと、もうひとつ呆れが混ざった目だった。呆れしかない。
「言えたら苦労しないって」
「……だよな」
だよな。自分でも思った直後だったから、自分へのツッコミが二重になって喉の奥で詰まった。
「『お父さん、番号で呼ぶのやめて』なんて言えるわけないじゃん。次のセールの上場リストもう固まってるし」
「そっか」
「そっか、じゃないよ。陸のアドバイス、実行不可能すぎる」
奏は少しだけ笑った。口の端だけの、いつもの三割くらいの笑い方だった。でもゼロよりはマシだ。ゼロよりは。
それから笑い方は、すぐに消えた。奏はまたシズクの首筋に目を落とす。ブラシは動いていない。シズクだけが、二人のあいだで静かに立っていた。
俺は自分のブラシを再び動かし始めた。鬣を撫でて、鼻梁を撫でて、また鬣に戻る。
何か言うべきなのは分かってる。でも俺は、言葉がうまいほうじゃない。馬の話なら早口になれるくせに、人の話になるとこうだ。万年筆があっても、人の心の数字は視えない。 ……あったら便利だな。いや、それはちょっと怖いか。
ブラシを止めて、俺は次の言葉を探した。
「奏なら、自分のやり方を見つけられるよ」
「……え?」
「番号で呼ぶか名前で呼ぶか、どっちが正しいとかじゃなくてさ。奏なりの攻略法が、そのうち見つかるんじゃないか」
言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。攻略法って。なんだそれ。
「……ルート分岐みたいなもんだろ。正解が一つじゃないゲームもある」
最後のほうは壁を見ながら言った。シズクの鬣が目の前でゆれている。これ以上奏の顔を見ながらゲームの話するのは無理だ。
一瞬の沈黙のあと空気が揺れた。
「……ふふっ」
小さく笑った音が耳に入って、俺は思わず横を見た。奏がきょとんとしてこっちを見ている。目が合った瞬間、すぐ前を向いた。耳の端が、真っ赤になっている。
「……ありがとう。ちょっと、救われたかも」
早口で言って、ブラシを動かし始めた。いつものリズムより少しだけ速い。シズクが耳をピクリと動かして、鼻を鳴らした。
俺もブラシを動かした。 厩舎の外で雪が降っている。屋根に積もる音はしない。ただ静かに、白いものが落ち続けている。
沈黙が長くなって、さすがに居心地が悪くなった。
「……あ、そうだ」
俺はブラシの手を止めずに言った。話を逸らすことにした。
「昨日、先生から電話あったんだ」
「先生? ……ああ、美浦の」
奏もブラシの手を止めなかった。目はシズクの肩を見ている。
「アサツユ、順調ですって」
「ふうん」
「調教も問題ないって。もうそろそろ追い切りも本格的にするらしい」
「じゃあ元気ってことだね」
「元気だな。相変わらず順調らしい」
俺はブラシのリズムに合わせるように言葉を並べた。並べているうちに、ちょっとだけアサツユに会いたくなった。目の前のシズクを見て、そう思う。
「美浦でも人の帽子つついてるのかな」
「絶対つついてるよ」
奏が即答した。ブラシを持つ手が止まる。こっちを見ている。目が少し細くなって、口角が上がっている。いつものはきはきした顔だ。
「陸がいない分、余計に人の迷惑になってるんじゃない?」
「俺がいると止めてくれるのかよ」
「止めてたでしょ。ここにいた頃、つつかれてたの、陸か宮田さんだったし」
……確かに。そうだった。俺と宮田さんの帽子が交代で被害に遭ってた。
「美浦の厩務員さん、気の毒だな」
「気の毒って。自分の馬でしょ」
「だから気の毒なんだよ」
奏がふっと息を吐いて、それからブラシを一度だけシズクの首筋に当てて滑らせた。最後のひと撫でだ。シズクが小さく鼻を鳴らした。
「はい、終わり。シズク、おやすみ」
優しい声だった。馬にだけ出る声だ。シズクが鼻先を奏の袖にこすりつけて、奏はそれを手のひらで受け止めた。
奏はブラシをバケツに戻して、壁にかけてあったコートを手に取った。袖を通す背中を見ながら、俺も自分のブラシを置いた。
厩舎の出口で、奏がコートのボタンを留めながら振り返った。外の雪が、開いた扉から細く入り込んでいた。
「絶対、勝ってよね。テンカザクラに」




