初対決、そして勝敗の行方
2月の終わりの阪神のパドックで、11頭の中に1頭だけ、周りの空気ごと引き連れて歩いている馬がいた。 額に小さな星のある牡馬、テンカザクラだ。早坂育成牧場の厩舎で見て以来だから、1年と少しぶりになる。
柵の前に詰めかけた客の視線が、一斉にテンカザクラに向かっていた。パドックのどこを見ても、その額の小さな星と、淀みのない歩様に引き寄せられている。客の口からも「テンカ」「また勝つかな」という声が漏れていた。
俺の隣で奏が息を呑んだのが分かった。
「……やっぱり、綺麗だね」
その声は小さくて、震えていた。パドックのざわめきにかき消されそうなほど小さいのに、俺の耳にはっきり届いた。
俺はポケットの万年筆を握り込んだ。
【テンカザクラ(牡・3歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A】【パワー:A+】【根性:B+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性: 】
……前に見たときは1行だけだった隠れ適性が、今は3行並んでいる。2行目はアサツユと同じ良馬場巧者で、3行目はアサツユと同じく空白だ。 数字のほうは、1歳の冬から1つも変わってない。完成してたってことかよ。
それでも、アサツユは負けていない。スピードと賢さは同じで、スタミナと根性はアサツユのほうが上。パワーはテンカザクラが上だが、この数字の差なら逆転できる可能性がある。
俺は万年筆を離して、2番のアサツユに目を移した。黒鹿毛の長い脚が、落ち着いたリズムで土を踏んでいる。客のざわめきが少しずつ遠のいていくように感じた。
歩様に乱れはない。地面を蹴る音も、前の2走と変わらない。テンカザクラの完璧な歩様と比べれば、多少は地味かもしれない。でも、アサツユはこういう馬だ。派手さはないが、崩れない。
柵の内側を回ってきたところで、アサツユの鼻先が、引いている厩務員さんの帽子に伸びた。いつものやつだ。厩務員さんは慣れた手つきで、片手でその鼻面を押し返した。
「……悪くねえ」
隣で腕を組んでいた宮田さんが、それだけ言った。褒め言葉としては、これ以上ない。
阪神11R、芝2200mのすみれステークスのオッズ板では、9番のテンカザクラが1.8倍、アサツユが3.6倍の2番人気になっていた。
止まれの号令がかかる少し前に、俺は胸の馬主バッジを確かめてから、関係者口へ向かった。宮田さんと奏も後ろからついてくる。
柵の内側に入ると、芝の真ん中に、紺のスーツの男が立っていた。 桜庭玲司は、俺に気づくと軽く会釈をした。その表情は穏やかだったが、目は笑っていない。いつもの挑発的な視線だった。
「久しぶりだね、日向くん」
「……桜庭さん」
「テンカザクラは、もう見たかい?」
桜庭は周回の列に目を向けた。その先で、テンカザクラがゆっくりと回っている。
「いい馬だろう。血統も能力も、すべてが整っている」
「君のアサツユも、なかなかだね」
桜庭は視線をこちらに戻した。その目には、俺を試すような色が浮かんでいた。
「でも、今日ではっきりさせよう」
「……はっきりさせる?」
「ああ。どちらの馬が上なのか。どちらの生産者が正しいのか」
桜庭はそこで言葉を切った。俺の反応を待っている。
「血統だけじゃ、馬は決まりませんよ」
俺がそう言うと、桜庭は一瞬だけ目を見開いた。それから、口元だけで小さく笑った。
「……なるほど」
それだけ言って、テンカザクラのほうへ歩いていった。
入れ替わりに、白に青の二本輪の勝負服を着た須賀がやってきて、厩務員さんの手を借りてアサツユに跨った。 俺が「頼みます」とだけ言うと、須賀は「はい」とだけ答えた。
◇
スタンドに戻ると、ちょうどファンファーレが鳴り終わるところだった。 2番のアサツユは、すっとゲートに入った。9番のテンカザクラも、何事もないように収まる。
「スタートしました! 揃ったスタート、2番アサツユも好発です!」
出た! 五分のスタート、ゲートは満点!! 隣で奏が俺の袖をぎゅっとつかんだ。
「1コーナー、2コーナー、各馬大きな動きはありません。2番アサツユ、4番手の内。9番テンカザクラ、3番手の外」
内ラチべったりの4番手か。最短距離だ、ゲームなら一番おいしい位置だぞ、これ! テンカザクラはちょっと外目だけど、須賀はいつもどおりだ。冷静に、淡々と乗ってる。
「向正面に入ります。2番アサツユ、依然として4番手の内。9番テンカザクラ、3番手の外」
動かなくていい。テンカザクラも、まだ前を追ってない。 ……っていうか、俺の心臓のほうが先にスパートかけてるんだけど!?
「1000メートルの通過は61秒4」
新馬戦の時より、ちょっとだけ遅い。アサツユは内側でうまく脚を溜めてる。テンカザクラは外を回ってるけど、まだ余裕がある。 このペースなら、最後まで持つはずだ。アサツユのスタミナなら、このぐらいのペースは耐えられる。
「3コーナー、2番アサツユ、依然として4番手の内。9番テンカザクラ、3番手の外。2頭とも変わらず、位置取りは落ち着いています」
「4コーナー、9番テンカザクラが外から上がっていく! 先頭に並びかけます!」
外から行った!! もう行くのかよ、早仕掛けじゃねえのか!? で、うちのは!? アサツユはどこだ!?
内ラチ沿いの黒鹿毛は、前を行く5番の馬と内ラチに挟まれて、身動きが取れない。須賀の手綱がピタッと止まった。
「どけ……頼むから、そこどいてくれ5番!!」
叫んだ。自分でも驚くくらいの声が出た。周りの客が一瞬こっちを見た気がしたが、構っていられなかった。 奏が俺の腕をぐいっと掴んだ。目は真っ直ぐにコースを見ている。
「アサツユ、諦めないで!」
「直線に入って、先頭はテンカザクラ! 外から堂々と抜け出しました!」
差が開いてく、見てる間に開いてく!? ちょっと待て、置いてかないでくれ!!
「テンカザクラ、後続を離して悠々と先頭! 2番手争いは激しいが、先頭との差は縮まらない!」
直線の半ばで、テンカザクラがもう一段加速した。嘘だろ、あれでまだ脚が残ってんのかよ!
「残り200! 内で詰まっていた2番アサツユ、ようやく外に持ち出した!」
今かよ!? 須賀、それもう1拍早くできなかったのか!? テンカザクラはもう坂の途中だ。あそこまで差があるのに、今さら外に出たって……
「アサツユ、猛然と伸びてくる! 坂を上がって、テンカザクラに迫る!」
……え、詰まってる? 差が詰まってる!? あそこから!? 須賀が手綱をしごいた。アサツユの脚が、明らかに速くなる。
「残り100! テンカザクラが先頭! しかしアサツユが猛然と迫る!」
いけ、坂ごと飲み込め!! スタミナA+は伊達じゃねえんだよ!!
「1馬身半、1馬身! テンカザクラ、粘る! アサツユ、まだ伸びる!」
射程圏だ、これもう射程圏だろ!! アサツユ、お前、こんな脚まで隠してたのか!?
「残り50! 2頭が並んだ! 内テンカザクラ、外アサツユ!」
並んだ!! うそだろ、本当に並んじまった!! 首と首が、交互に前に出る。黒い首が出て、星のある首が出て、また黒い首が出る。 周りの客がみんな立ち上がっていて、もう実況がほとんど聞こえない。
「テンカザクラ、内でもう一度盛り返す! アサツユも譲らない!」
盛り返すなよ!! なんでそこからもう一回来るんだよ、お前は!! あと半歩、いや首の上げ下げ1回分でいい!! そこで首を伸ばせ、アサツユ!! 今だ、今なんだよ!!
「外か内か! 際どい、際どいぞ!」
並んだまま、2頭がゴール板を駆け抜けた。
過ぎてみても、どっちの鼻が前だったのか、俺の目では分からなかった。
実況の声が、少しだけ遅れて耳に入ってくる。
「2頭並んでゴールイン! テンカザクラか、アサツユか! 際どい勝負、写真判定になります!」
スタンドがざわついた。悲鳴のような歓声が入り混じって、耳の中でごちゃごちゃに響く。
電光掲示板の着順の欄に、「写真」の文字が点いた。
喉が渇いているのに、唾が飲み込めない。 横を見ると、奏も電光掲示板を見上げたまま口が少し開いていて、宮田さんは丸めた競馬新聞を握ったまま、広げもしない。
どれくらい待ったのかは分からない。たぶん数分だ。体感では、シズクのお腹にアサツユがいた11ヶ月くらいあった。
1着の欄に、先に数字が点いた。9だった。
「……9か」
口から出たのは、それだけだった。 続けて2着の欄に2が点いて、着差の欄に「ハナ」の2文字が出る。勝ちタイムは2分12秒9で、馬場は良だった。
スタンドのあちこちから、空気の抜けるようなため息が上がった。
「うわ、ハナかよ……アサツユの単勝持ってたのに」
「2番の黒鹿毛、4コーナーで内に詰まってたぞ。あれがなきゃ差してたって」
「いや、テンカザクラも最後もう一回伸びてたろ。どっちも化け物だわ」
前の列のおじさんが、外れ馬券をくしゃくしゃに丸めながら、それでも掲示板の2を指差している。
ハナ差で、負けた。 負けたのに、アサツユの名前がスタンドのあちこちで呼ばれている。……なんだこれ。どういう顔すればいいんだよ。
「……惜しかったね」
奏の声は、いつもの半分くらいの大きさだった。 宮田さんが、丸めた新聞で自分の膝を一度だけ叩いた。
「……行くぞ」
俺たちは無言で頷いて、関係者口をくぐった。足取りは重かったが、止まることはなかった。
検量室前では、アサツユがゆっくりと戻ってきていた。鞍を外され、水を飲ませられている。須賀は汗を拭いながら、こっちに近づいてきた。
「すみませんでした」
開口一番、謝罪の言葉だった。その声には、申し訳なさと、ほんの少しの悔しさが滲んでいた。
「4コーナーで内に入れてしまったのが敗因です。テンカザクラがあの位置にいたのに、もっと外を意識すべきでした」
須賀の表情は硬かった。いつも淡々とした須賀にしては珍しい。
俺は首を横に振った。
「謝らないでください。あそこから、よく届きかけましたよ」
須賀は少しだけ黙って、それから顔を上げた。
「外に出してから、坂でもう一段来ました。あと少しでした。むしろ、あそこからここまで食い下がれるとは思いませんでした」
厩務員さんに引かれたアサツユが、まだ荒い息のまま首を振っている。俺はポケットの万年筆を握った。
【アサツユ(牡・3歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】
空白だったはずの3行目が、埋まっていた。
自在……か。
新馬戦の後方からの差しも、1勝クラスの2番手の先行も、これが理由だったのか。 この馬は、どこからでも行ける。脚質に縛られない。 だったら、あの4コーナーで外にいる手もあったってことだ。次は須賀さんに、好きな位置で乗ってくださいって言える。
俺は万年筆を離した。文字が消えて、アサツユはただの黒鹿毛に戻る。
奏は、俺のところに来る前にアサツユのほうへ寄っていった。厩務員さんに一言断ってから、しゃがんで前脚に手のひらを当て、それから脇腹の上下をじっと見ている。 こういうとき、奏は慰めるより先に体を診る。昔からそうだ。
「脚、熱持ってない。息も、もう戻りかけてる」
膝の砂を払いながら立ち上がって、奏はやっと俺の横に来た。
「……悪い。約束、守れなかった」
「謝るとこじゃないでしょ」
奏が眉を寄せた。
「あれだけ追い込んで、脚も息もこれだよ? まだ余裕あったってこと。次やったら、絶対勝てるって」
「……そうかな」
「そうだよ。あんな脚見せられて、次負けたら許さないから」
奏はそう言って、アサツユのほうをちらっと見た。
俺の反対側で、宮田さんは何も言わずに、アサツユの首筋を見ていた。汗で濡れた黒い毛が、2月の薄い日差しを弾いている。 ハナ差だ。数字にすれば、たぶん10センチもない。
口取りの撮影を終えた桜庭玲司が、ゆっくりとこっちに歩いてきた。そして、俺の前で足を止めた。スーツの裾が少し揺れた。
「……ハナ差、か」
勝ったのに、桜庭は笑っていなかった。口元は固く結ばれ、目は鋭いままだった。
「内で詰まってなければ、か。……言い訳は聞かないよ」
俺はまだ何も言ってない。でも、あの4コーナーを、この人はちゃんと見ていた。
桜庭は一度だけ、アサツユを見た。
「次は、もっと離す。……君の馬が、4月の中山まで上がってこられたら、だけどね」
それだけ言って、桜庭は踵を返した。歩き出そうとしたとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。桜庭は一瞬だけ動きを止めて、画面を覗き込む。
前にも一度見たことのある『会長』の2文字が、画面の上で光っていた。
その瞬間、桜庭の顔から表情が消えた。電話には出ないまま、スマートフォンをポケットに戻して、また歩き出した。
その背中に、俺は言った。
「――次は、負けない」




