↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/59

初対決、そして勝敗の行方




 2月の終わりの阪神のパドックで、11頭の中に1頭だけ、周りの空気ごと引き連れて歩いている馬がいた。  額に小さな星のある牡馬、テンカザクラだ。早坂育成牧場の厩舎で見て以来だから、1年と少しぶりになる。


 柵の前に詰めかけた客の視線が、一斉にテンカザクラに向かっていた。パドックのどこを見ても、その額の小さな星と、淀みのない歩様に引き寄せられている。客の口からも「テンカ」「また勝つかな」という声が漏れていた。


 俺の隣で奏が息を呑んだのが分かった。


「……やっぱり、綺麗だね」


 その声は小さくて、震えていた。パドックのざわめきにかき消されそうなほど小さいのに、俺の耳にはっきり届いた。


 俺はポケットの万年筆を握り込んだ。


【テンカザクラ(牡・3歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A】【パワー:A+】【根性:B+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:    】


 ……前に見たときは1行だけだった隠れ適性が、今は3行並んでいる。2行目はアサツユと同じ良馬場巧者で、3行目はアサツユと同じく空白だ。  数字のほうは、1歳の冬から1つも変わってない。完成してたってことかよ。


 それでも、アサツユは負けていない。スピードと賢さは同じで、スタミナと根性はアサツユのほうが上。パワーはテンカザクラが上だが、この数字の差なら逆転できる可能性がある。


 俺は万年筆を離して、2番のアサツユに目を移した。黒鹿毛の長い脚が、落ち着いたリズムで土を踏んでいる。客のざわめきが少しずつ遠のいていくように感じた。


 歩様に乱れはない。地面を蹴る音も、前の2走と変わらない。テンカザクラの完璧な歩様と比べれば、多少は地味かもしれない。でも、アサツユはこういう馬だ。派手さはないが、崩れない。


 柵の内側を回ってきたところで、アサツユの鼻先が、引いている厩務員さんの帽子に伸びた。いつものやつだ。厩務員さんは慣れた手つきで、片手でその鼻面を押し返した。


「……悪くねえ」


 隣で腕を組んでいた宮田さんが、それだけ言った。褒め言葉としては、これ以上ない。


 阪神11R、芝2200mのすみれステークスのオッズ板では、9番のテンカザクラが1.8倍、アサツユが3.6倍の2番人気になっていた。


 止まれの号令がかかる少し前に、俺は胸の馬主バッジを確かめてから、関係者口へ向かった。宮田さんと奏も後ろからついてくる。


 柵の内側に入ると、芝の真ん中に、紺のスーツの男が立っていた。  桜庭玲司は、俺に気づくと軽く会釈をした。その表情は穏やかだったが、目は笑っていない。いつもの挑発的な視線だった。


「久しぶりだね、日向くん」


「……桜庭さん」


「テンカザクラは、もう見たかい?」


 桜庭は周回の列に目を向けた。その先で、テンカザクラがゆっくりと回っている。


「いい馬だろう。血統も能力も、すべてが整っている」


「君のアサツユも、なかなかだね」


 桜庭は視線をこちらに戻した。その目には、俺を試すような色が浮かんでいた。


「でも、今日ではっきりさせよう」


「……はっきりさせる?」


「ああ。どちらの馬が上なのか。どちらの生産者が正しいのか」


 桜庭はそこで言葉を切った。俺の反応を待っている。


「血統だけじゃ、馬は決まりませんよ」


 俺がそう言うと、桜庭は一瞬だけ目を見開いた。それから、口元だけで小さく笑った。


「……なるほど」


 それだけ言って、テンカザクラのほうへ歩いていった。


 入れ替わりに、白に青の二本輪の勝負服を着た須賀がやってきて、厩務員さんの手を借りてアサツユに跨った。  俺が「頼みます」とだけ言うと、須賀は「はい」とだけ答えた。


 ◇


 スタンドに戻ると、ちょうどファンファーレが鳴り終わるところだった。  2番のアサツユは、すっとゲートに入った。9番のテンカザクラも、何事もないように収まる。


「スタートしました! 揃ったスタート、2番アサツユも好発です!」


 出た! 五分のスタート、ゲートは満点!!  隣で奏が俺の袖をぎゅっとつかんだ。


「1コーナー、2コーナー、各馬大きな動きはありません。2番アサツユ、4番手の内。9番テンカザクラ、3番手の外」


 内ラチべったりの4番手か。最短距離だ、ゲームなら一番おいしい位置だぞ、これ!  テンカザクラはちょっと外目だけど、須賀はいつもどおりだ。冷静に、淡々と乗ってる。


「向正面に入ります。2番アサツユ、依然として4番手の内。9番テンカザクラ、3番手の外」


 動かなくていい。テンカザクラも、まだ前を追ってない。  ……っていうか、俺の心臓のほうが先にスパートかけてるんだけど!?


「1000メートルの通過は61秒4」


 新馬戦の時より、ちょっとだけ遅い。アサツユは内側でうまく脚を溜めてる。テンカザクラは外を回ってるけど、まだ余裕がある。  このペースなら、最後まで持つはずだ。アサツユのスタミナなら、このぐらいのペースは耐えられる。


「3コーナー、2番アサツユ、依然として4番手の内。9番テンカザクラ、3番手の外。2頭とも変わらず、位置取りは落ち着いています」


「4コーナー、9番テンカザクラが外から上がっていく! 先頭に並びかけます!」


 外から行った!! もう行くのかよ、早仕掛けじゃねえのか!?  で、うちのは!? アサツユはどこだ!?


 内ラチ沿いの黒鹿毛は、前を行く5番の馬と内ラチに挟まれて、身動きが取れない。須賀の手綱がピタッと止まった。


「どけ……頼むから、そこどいてくれ5番!!」


 叫んだ。自分でも驚くくらいの声が出た。周りの客が一瞬こっちを見た気がしたが、構っていられなかった。  奏が俺の腕をぐいっと掴んだ。目は真っ直ぐにコースを見ている。


「アサツユ、諦めないで!」


「直線に入って、先頭はテンカザクラ! 外から堂々と抜け出しました!」


 差が開いてく、見てる間に開いてく!? ちょっと待て、置いてかないでくれ!!


「テンカザクラ、後続を離して悠々と先頭! 2番手争いは激しいが、先頭との差は縮まらない!」


 直線の半ばで、テンカザクラがもう一段加速した。嘘だろ、あれでまだ脚が残ってんのかよ!


「残り200! 内で詰まっていた2番アサツユ、ようやく外に持ち出した!」


 今かよ!? 須賀、それもう1拍早くできなかったのか!?  テンカザクラはもう坂の途中だ。あそこまで差があるのに、今さら外に出たって……


「アサツユ、猛然と伸びてくる! 坂を上がって、テンカザクラに迫る!」


 ……え、詰まってる? 差が詰まってる!? あそこから!?  須賀が手綱をしごいた。アサツユの脚が、明らかに速くなる。


「残り100! テンカザクラが先頭! しかしアサツユが猛然と迫る!」


 いけ、坂ごと飲み込め!! スタミナA+は伊達じゃねえんだよ!!


「1馬身半、1馬身! テンカザクラ、粘る! アサツユ、まだ伸びる!」


 射程圏だ、これもう射程圏だろ!!  アサツユ、お前、こんな脚まで隠してたのか!?


「残り50! 2頭が並んだ! 内テンカザクラ、外アサツユ!」


 並んだ!! うそだろ、本当に並んじまった!!  首と首が、交互に前に出る。黒い首が出て、星のある首が出て、また黒い首が出る。  周りの客がみんな立ち上がっていて、もう実況がほとんど聞こえない。


「テンカザクラ、内でもう一度盛り返す! アサツユも譲らない!」


 盛り返すなよ!! なんでそこからもう一回来るんだよ、お前は!!  あと半歩、いや首の上げ下げ1回分でいい!!  そこで首を伸ばせ、アサツユ!! 今だ、今なんだよ!!


「外か内か! 際どい、際どいぞ!」


 並んだまま、2頭がゴール板を駆け抜けた。


 過ぎてみても、どっちの鼻が前だったのか、俺の目では分からなかった。


 実況の声が、少しだけ遅れて耳に入ってくる。


「2頭並んでゴールイン! テンカザクラか、アサツユか! 際どい勝負、写真判定になります!」


 スタンドがざわついた。悲鳴のような歓声が入り混じって、耳の中でごちゃごちゃに響く。


 電光掲示板の着順の欄に、「写真」の文字が点いた。


 喉が渇いているのに、唾が飲み込めない。  横を見ると、奏も電光掲示板を見上げたまま口が少し開いていて、宮田さんは丸めた競馬新聞を握ったまま、広げもしない。


 どれくらい待ったのかは分からない。たぶん数分だ。体感では、シズクのお腹にアサツユがいた11ヶ月くらいあった。


 1着の欄に、先に数字が点いた。9だった。


「……9か」


 口から出たのは、それだけだった。  続けて2着の欄に2が点いて、着差の欄に「ハナ」の2文字が出る。勝ちタイムは2分12秒9で、馬場は良だった。


 スタンドのあちこちから、空気の抜けるようなため息が上がった。


「うわ、ハナかよ……アサツユの単勝持ってたのに」


「2番の黒鹿毛、4コーナーで内に詰まってたぞ。あれがなきゃ差してたって」


「いや、テンカザクラも最後もう一回伸びてたろ。どっちも化け物だわ」


 前の列のおじさんが、外れ馬券をくしゃくしゃに丸めながら、それでも掲示板の2を指差している。


 ハナ差で、負けた。  負けたのに、アサツユの名前がスタンドのあちこちで呼ばれている。……なんだこれ。どういう顔すればいいんだよ。


「……惜しかったね」


 奏の声は、いつもの半分くらいの大きさだった。  宮田さんが、丸めた新聞で自分の膝を一度だけ叩いた。


「……行くぞ」


 俺たちは無言で頷いて、関係者口をくぐった。足取りは重かったが、止まることはなかった。


 検量室前では、アサツユがゆっくりと戻ってきていた。鞍を外され、水を飲ませられている。須賀は汗を拭いながら、こっちに近づいてきた。


「すみませんでした」


 開口一番、謝罪の言葉だった。その声には、申し訳なさと、ほんの少しの悔しさが滲んでいた。


「4コーナーで内に入れてしまったのが敗因です。テンカザクラがあの位置にいたのに、もっと外を意識すべきでした」


 須賀の表情は硬かった。いつも淡々とした須賀にしては珍しい。


 俺は首を横に振った。


「謝らないでください。あそこから、よく届きかけましたよ」


 須賀は少しだけ黙って、それから顔を上げた。


「外に出してから、坂でもう一段来ました。あと少しでした。むしろ、あそこからここまで食い下がれるとは思いませんでした」


 厩務員さんに引かれたアサツユが、まだ荒い息のまま首を振っている。俺はポケットの万年筆を握った。


【アサツユ(牡・3歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】


 空白だったはずの3行目が、埋まっていた。


 自在……か。


 新馬戦の後方からの差しも、1勝クラスの2番手の先行も、これが理由だったのか。  この馬は、どこからでも行ける。脚質に縛られない。  だったら、あの4コーナーで外にいる手もあったってことだ。次は須賀さんに、好きな位置で乗ってくださいって言える。


 俺は万年筆を離した。文字が消えて、アサツユはただの黒鹿毛に戻る。


 奏は、俺のところに来る前にアサツユのほうへ寄っていった。厩務員さんに一言断ってから、しゃがんで前脚に手のひらを当て、それから脇腹の上下をじっと見ている。  こういうとき、奏は慰めるより先に体を診る。昔からそうだ。


「脚、熱持ってない。息も、もう戻りかけてる」


 膝の砂を払いながら立ち上がって、奏はやっと俺の横に来た。


「……悪い。約束、守れなかった」


「謝るとこじゃないでしょ」


 奏が眉を寄せた。


「あれだけ追い込んで、脚も息もこれだよ? まだ余裕あったってこと。次やったら、絶対勝てるって」


「……そうかな」


「そうだよ。あんな脚見せられて、次負けたら許さないから」


 奏はそう言って、アサツユのほうをちらっと見た。


 俺の反対側で、宮田さんは何も言わずに、アサツユの首筋を見ていた。汗で濡れた黒い毛が、2月の薄い日差しを弾いている。  ハナ差だ。数字にすれば、たぶん10センチもない。


 口取りの撮影を終えた桜庭玲司が、ゆっくりとこっちに歩いてきた。そして、俺の前で足を止めた。スーツの裾が少し揺れた。


「……ハナ差、か」


 勝ったのに、桜庭は笑っていなかった。口元は固く結ばれ、目は鋭いままだった。


「内で詰まってなければ、か。……言い訳は聞かないよ」


 俺はまだ何も言ってない。でも、あの4コーナーを、この人はちゃんと見ていた。


 桜庭は一度だけ、アサツユを見た。


「次は、もっと離す。……君の馬が、4月の中山まで上がってこられたら、だけどね」


 それだけ言って、桜庭は踵を返した。歩き出そうとしたとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。桜庭は一瞬だけ動きを止めて、画面を覗き込む。


 前にも一度見たことのある『会長』の2文字が、画面の上で光っていた。


 その瞬間、桜庭の顔から表情が消えた。電話には出ないまま、スマートフォンをポケットに戻して、また歩き出した。


 その背中に、俺は言った。


「――次は、負けない」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。