巻き戻し
日高に戻って3日目の夜、事務所のノートパソコンの中で、中山の4コーナーがまた最初から流れ出した。 白に青の二本輪が、前を行く5番と内ラチの間に挟まれて、須賀の手綱が止まる。そこで一時停止をクリックして、俺はまた巻き戻しのボタンに指を置いた。
何回見てもあそこだ。脚じゃない。位置だ。
坂を上がってからのアサツユは、テンカザクラと完全に互角だった。いや、伸び方だけなら上だった。残り200から差を詰めたのはアサツユのほうで、あれはスタミナA+と根性A+の成せる業だ。あの脚を最後まで隠してたんだから、能力で負けたわけじゃない。
負けたのは道中だ。4番手の内。ゲームでいうなら理想のポジションのはずだった。最短距離で脚を溜めて、直線で抜け出す。セオリー通りだ。でも今回は前の5番が壁になった。内ラチと5番の間に挟まれて、外に出すのに1拍使った。その1拍で、テンカザクラはもう坂の途中にいた。
隠れ適性の3行目は【自在】だった。どこからでも行ける。なら、あの4コーナーで無理に内にこだわる必要はなかったはずだ。
再生を止めたとき、事務所の扉が開いた。宮田さんが湯呑みを2つ持って入ってきて、俺の横に1つ置く。湯気が立っている。
「見てたのか」
「見てました」
宮田さんは何も言わずに、自分の湯呑みを両手で包んだ。
俺は湯呑みに手を付けないまま、もう一度だけ画面の4コーナーを見た。それからノートパソコンを閉じる。
「宮田さん、須賀さんに電話します」
宮田さんは湯呑みを口元で止めて、小さく頷いた。
アサツユの主戦の番号を押す。呼び出し音のあと、受話器の向こうで落ち着いた声が応じた。
「お疲れ様です、オーナー」
「須賀さん、今大丈夫ですか」
「はい。どうぞ」
丁寧で無駄がない。いつもの須賀だ。
「次走のことなんですが、レース運びを相談したくて」
「4コーナーで詰まったのは僕の判断です。それは、すみませんでした」
須賀はそこで一度切って、それから続けた。
「ただ、内を通ったこと自体は間違いだと思ってません。2000で外を回せば、まるまる1頭分は損します。あの馬場なら、内のほうが脚は残るんです」
言い方は淡々としていたが、その声には3日前と同じ硬さが残っていた。あのハナ差を、須賀もまだ肩に乗せている。 騎手の理屈としては、たぶん正しい。正しいんだけど、あの4コーナーを何十回も見た俺は、もう答えを知っている。
「損しても届きます」
俺は言った。
「残り200で外に出して、坂だけでハナまで詰めたんですよ。1頭分外を回るくらい、あいつは坂で取り返します」
「……それは、乗ってた僕が一番分かってます」
「だから、位置は須賀さんの好きなところでいいです。内にこだわらなくていい。あいつは前でも後ろでも走れます」
「……前でも後ろでも、ですか」
「新馬戦は後ろから差して、1勝クラスは前から行って勝ってるし。どっちでも崩れない馬です」
受話器の向こうで、須賀が一拍黙った。
「……分かりました。前が壁になりそうなら、次は早めに外へ出します。先生とも相談して、調教で馬群の中と外を試してみます」
「お願いします」
「失礼します」
通話が切れた。静かな電子音が一度だけ鳴って、消えた。 湯呑みの湯気が、まだ細く立ち上がっていた。
宮田さんが湯呑みを置く音が、机の上で小さく鳴った。
「前でも後ろでも、か」
宮田さんは独り言みたいに言った。俺は返事をしなかった。する必要がないと思ったからだ。
「何を見た」
「走り方を見ました」
「……そうか」
宮田さんは湯呑みをもう一度持ち上げて、それから置いた。湯気はもう立っていない。
「お前のやり方は、先代より理詰めだな」
「時代が違いますから」
俺はそれだけ言って、冷めかけた湯呑みに手を伸ばした。
◇
オープン特別の賞金が通帳に入ったのは、それから数日たった朝だった。 事務所の机に通帳を広げて、俺は宮田さんの前で電卓を叩いた。
オープン特別の2着賞金が約640万入っている。2着の本賞金800万の8割だ。
「宮田さん、見てください」
「ん」
「入りました。640万」
「そうか」
「先にカムイボシ牧場へ64万振り込みます。約束の1割です」
「分かってる」
残りを足して、もう一度電卓を叩いた。
手元は約1180万。年末に新馬戦と1勝クラスの賞金が入ったときは預託料が払えなくなるのが怖くて借金に手をつけられなかったが、今回は額が違う。農協の借金800万を一括で返しても、約380万残る。美浦の預託料は月70万だから、約5ヶ月分だ。
「農協の借金、全部返します」
宮田さんは湯呑みを置いた。
「元金は据え置きで、ずっと利子だけでしたから」
「……おう」
「一括で払えます」
宮田さんは湯呑みを見たまま黙っていた。俺が育成ゲームの資金管理みたいに電卓を叩いて数字を並べている横で、ただ黙って聞いている。
「農協、行きましょう」
「……」
宮田さんは椅子から立ち上がって、壁にかけてあった上着を取った。
町の農協の窓口は、平日の昼前で空いていた。
窓口の男性が通帳と書類を並べた。先代の頃からひなた牧場の担当で、俺の顔も宮田さんの顔も知っている。
「一括返済ですね。確認します」
俺は書類の3か所にハンコを押した。金額は8,000,000円。事務的な手続きが淡々と進む。
キーボードを叩く音がして、通帳に文字が刻まれる。
「……借入の残高、0円になります」
平坦な声だった。でも声の端に何かあった。安堵か確認か、分からない。
「権三郎さんの代から、毎月、利子だけ持ってきてもらってましたからね」
男性は書類を整えながら、少しだけ目を細めた。
「先代が借りた金だ」
後ろで宮田さんが、それだけ言った。それ以上は何もない。男性も頷いて書類を綴じた。
返済の控えと通帳を受け取った。借入の欄の0を見ても、特に何も感じなかった。終わった、というだけだ。
農協を出ると3月の風が冷たかった。駐車場の軽トラに乗り込んでエンジンをかける。宮田さんが助手席に黙って座って、シートベルトを締めた。 走り出す前に、ポケットのスマートフォンが鳴った。三上さんだった。
「おうオーナー! 見たぞ中山! ハナだろ、ハナ!」
耳から離しても、助手席まで聞こえる声だった。
「……すみません、負けました」
「バカ言え、あんなもん負けのうちに入るか! 町じゅう、ひなたの黒いのの話で持ちきりだぞ。次は取れよ、次は。焼肉はそのときだ」
言いたいことだけ言って、電話は切れた。借金を返してきたところだとは、言いそびれた。……まあいいか。あの人に言ったら、夕方には町じゅうが知ってる。 宮田さんは窓の外を見たまま、小さく鼻を鳴らした。
牧場に戻って、事務所の電気をつけた。宮田さんは黙って自分の椅子に座る。
返済の控えを棚に置いた。先代の写真が飾ってある場所だ。角ばった顎と、深い皺の間に据わった目は、生前と同じように何も言わなかった。職人の顔だ。最後まで牧場を辞めなかった人の顔だ。
紙1枚の上に先代からの借金が載っていた。8,000,000円の文字と、残高0円の文字が、同じ紙の上に並んでいる。
後ろで宮田さんが湯呑みを置く音がした。
「先代に見せてやりたかったな」
それだけだった。俺は頷かなかった。頷くと重くなりそうだったから。
控えを手に取ってみた。指先で持ち上げた感触は、紙1枚分の重さしかなかった。
「……軽っ」
◇
美浦の坂路に来たのは、オープン特別から1週間たった日曜の朝だった。
坂路は朝の光で白んでいた。 坂の下で併せ馬の3頭が並び、その前にもう1頭いる。アサツユは真ん中で、左右を挟まれる形だ。まるで育成ゲームのコース取り練習だ。というか、実際あれだ。4コーナーで壁を作って、そこから抜け出す。シミュレーションだ。
須賀が軽く合図を出した。アサツユの手綱がわずかに動く。
1本目は遅れた。 左右の馬が並んでいる間に外へ持ち出すタイミングが半拍遅れる。須賀が外に導いたとき、前の馬がすでに半馬身先に行っていた。坂の途中で追いついて、最後は並んだけれど、出るのが遅れた分だけ脚を余計に使っている。
戻ってきたアサツユの息は少し荒かった。須賀が鞍の上で小さく首を振ったのが見えた。
「もう1本」
先生が坂路の上から声をかけた。ネクタイを緩めていない。朝からずっとあの格好だ。
2本目。 3頭が並んで、前が塞がる。同じ形。今度は須賀の手綱が早めに動いて、アサツユはその合図ですっと外へ持ち出された。坂の途中で前の1頭を置いていく。1本目とは明らかに違う。
須賀が鞍から降りて、先生のほうへ歩いた。俺も坂路の脇から近づく。
先生は腕を組んだまま、坂路を見下ろしていた。
「レースまで、これを続けます」
◇
10日後の水曜、最終追い切りの朝も、俺は坂路の脇に立っていた。
坂の下で3頭が並ぶ。アサツユは真ん中だ。左右を挟まれ、前にも1頭いる。10日前と同じ布陣だ。先生が組んだわざと詰まる形だ。
須賀が合図を出した。3頭が同時に動く。
坂の途中で前の馬が少し抑えに入る。左右の2頭が詰めてくる。袋小路だ。10日前なら須賀の手綱が動くのを待つところだ。
アサツユの肩が、動いた。
須賀の手より半拍早い。右へすっと肩を入れて、左右の馬の間にできた僅かな隙を自分で見つけた。須賀がそれを受けて手綱を流す。外へ出るのに1秒もかからない。
左右の2頭も前の1頭も置いていく。脚色が違った。鞍上の須賀は何もしていない。手綱を握ったまま、アサツユに乗っているだけだ。
坂の上まで行って、アサツユが戻ってきた。
俺はポケットの万年筆を握った。
【アサツユ(牡・3歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A+】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】
賢さが、上がっている。
AがA+になっている。他の数値は変わらない。
この10日で上がった。馬群の中で進路を探す練習を繰り返して、アサツユは学んだ。詰まった場所から抜け出すタイミングを、自分の目で計ることを覚えたのだ。
須賀の合図を待たずに動いた。レース運びの柔らかさが、まるで別物になっている。
これなら、次は違う。
万年筆を離した。文字が消えて、アサツユはただの黒鹿毛に戻る。
◇
美浦から戻った次の日の夜、事務所には俺と宮田さんしかいなかった。宮田さんは自分の椅子で湯呑みを包んでいて、ストーブの音だけがしている。
スマートフォンが鳴った。画面には「先生」の2文字が出ていた。
「オーナー。出馬投票、通りました」
先生の声はいつもどおり短い。前置きがない。
「土曜の阪神、若葉ステークスです。2着までに入れば、皐月賞に出られます」
「分かりました」
俺はそれだけ返した。先生は「では」と言って切った。
スマートフォンを机に置く。宮田さんは湯呑みを置いて、俺を見ていた。
「決まったか」
「決まりました」
宮田さんは頷いて、また湯呑みを持ち上げた。
クラシックトライアル――皐月賞への切符を懸けた一戦が、始まる。




