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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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切符の行方




 2日後の土曜、阪神のパドックに立つと、3月下旬にしては風が冷たかった。  『若葉ステークス』の周回は、もう始まっている。13頭の中で2着までに入れば、『皐月賞』の優先出走権が手に入る。


 1か月前、同じ阪神の『すみれステークス』で、俺たちはハナ差の2着に負けた。今日はそのハナの分を取り返しに来た。


 7番のゼッケンを付けた黒鹿毛が、柵の内側を回ってくる。  『アサツユ』は相変わらず脚が長い。首を低くして、黒い目は前を行く馬の尻だけを見ている。オッズ板では、その7番が2.4倍の1番人気で、2番人気は10番の栗毛だ。  『テンカザクラ』の名前は、今日の出馬表のどこにもない。


「テンカザクラ、出てねえのか」


「皐月も回避らしいぞ。脚元がどうとか聞いた」


 前の列のおじさんたちが、競馬新聞を指で叩きながら言い合っている。


 隣では、奏が柵に両手を置いたまま、アサツユの後ろ脚だけを目で追っている。今日も白いシャツにベージュのコートだ。


「トモの踏み込み、すみれのときより深いね。後ろがちゃんと使えてる」


 奏は柵の向こうから目を離さずに言って、それから横目で俺をうかがった。


「覚えてるよね。次負けたら許さないって言ったの」


「覚えてる」


「ならいい」


 反対側では、宮田さんが腕を組んだまま、前を通るアサツユを首だけで追っている。


「……歩きが、ゆったりしてきたな」


 宮田さんにしては長い感想だ。


 俺はコートのポケットに手を入れて、万年筆を握った。


【アサツユ(牡・3歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A+】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】


 賢さはA+のまま、3行目には自在が並んでいる。前と横を塞がれても、こいつは自分で出口を探せる。  問題は、それを誰にも言えないことだ。「賢さがA+になったので大丈夫です」なんて言ったら、奏には熱を測られて、宮田さんには黙って車の鍵を取り上げられる。  それに、あの日だって俺は数字を見て「負けてない」と思っていた。自分の目がただの思い込みだったら、という考えだけは、喉の奥に小骨みたいに引っかかったままだ。


 万年筆から手を離すと、パドックのざわめきが耳へ戻ってきた。


 止まれの号令の前に、胸の馬主バッジに指で触れてから関係者口をくぐった。号令がかかると、白に青の二本輪の勝負服が芝を横切ってくる。  須賀は俺の前で足を止めて、軽く頭を下げた。何か言おうとして、俺は口を閉じた。位置の話は、あの電話で全部した。ここで言い直したら、任せたことにならない。


「前が壁になりそうなら、早めに外。そこまでは覚えてます。あとは、乗るのは僕ですから。最後は僕が決めます」


「それでいいです」


 須賀は小さく頷いて、厩務員さんの手を借りてアサツユに跨った。アサツユが一度だけ耳を後ろへ倒して、すぐ前に戻す。乗り手の声を聞くときの耳だった。


 ◇


 スタンドに戻ると、ファンファーレが鳴り始めたところだった。  阪神の芝2000mは内回りで、ゲートはスタンドの目の前、4コーナー寄りに置かれる。1コーナーまでの距離は短い。


「1番人気は7番アサツユ。昨年の秋、東京の新馬戦を最低人気から差し切った黒鹿毛です。前走はハナ差の2着、今日は雪辱を期します」


 あのとき314.7倍だった馬が、今日は2.4倍だ。実況にまで新馬戦の話をされると、背中のあたりがむずがゆい。  隣で奏が、コートの前を両手でぎゅっと握りしめた。


「スタートしました!」


 ゲートが開く金属音が、スタンドの屋根に跳ね返った。13頭がほぼ横一線で飛び出して、目の前を地鳴りみたいな蹄の音が通り過ぎていく。


 揃った! 出遅れなし、そこはもう心配してねえ!!  問題はこの先だ。ここで内に押し込められたら、また同じことになる!


「ハナを切ったのは3番、外から12番が2番手。2番人気の10番は3番手の外。4番手の内に1番、7番アサツユはその後ろ、5番手の内です」


 5番手の内か。前に1番、右はラチ。……おい待て、前走とほとんど同じ並びじゃねえか!?


「1000メートルの通過は61秒0。落ち着いた流れです」


 手応えは悪くない。……それ、前回も言ってたやつだろ!?


「3コーナー。2番手に10番が外から上がっていきます。7番アサツユは5番手の内、前に1番、外から11番が並びかけてきた。アサツユ、内で包まれる形です」


 前に1番の尻、外に11番の肩、右は内ラチ。白に青の二本輪が、3方向を塞がれたまま回っていく。


 またかよ!? 同じ配置でリトライなんか、こっちは頼んでねえぞ!!  どこだ、出口!! どこにも空いてねえじゃねえか!!


 3コーナーと4コーナーの中間で、外の11番が前を追いかけて、わずかに外へ膨らんだ。


 黒い馬体が左へずれた。  白に青の二本輪が、1頭分だけ外へ出て隙間から抜けてくる。ここからだと、誰がどう動かしたのかまでは見えない。


「おっと、7番アサツユ、ここで外へ持ち出した! 包まれた位置から、するりと抜けてきます!」


 出た!? 今の、どっちが出した!? 須賀さんか、お前か!?  どっちでもいい、とにかく前が開いたぞ!!


「4コーナーを回って直線! 先頭は3番、外から10番が並びかける! その外から7番アサツユ!」


 外を回ったぶん、アサツユは10番のさらに外で直線を向いた。須賀が電話で言っていた、まるまる1頭分の損だ。  分かってて外に出たんだろ。損したぶんは坂で返せ、アサツユ!!


「10番、内の3番をかわして先頭! 2番人気の栗毛が、早くも抜け出しにかかる!」


 栗毛の太い首が、ぐんと前へ出た。内の3番が見る間に後ろへ沈んでいく。  そこで先に行くのかよ!? その首、坂まで持つのか見せてもらおうじゃねえか!!  外の1頭分がスタンドから見るとやけに遠い。馬場の真ん中が、こんなに広いとは思わなかった。


「10番が先頭、しかし外から7番アサツユが並びかける! 2頭の叩き合い!」


 須賀の手が、そこで初めてはっきり動いた。ムチは抜かずに、手綱を押して体ごと前へ送り出す。栗毛の鞍上はもうムチを振るっているのに、2頭の頭の位置がじりじり入れ替わっていく。  スタンドの前列が、波みたいに立ち上がった。前の人の背中で、コースが半分隠れる。俺は手すりから身を乗り出して、白に青の二本輪だけを目で追った。


「坂にかかる! 7番アサツユ、ここで前に出た!」


 坂の途中で、2頭の脚色がはっきり分かれた。栗毛は首の振りが大きくなって、脚が地面を叩く間隔が詰まっていく。黒い首は低いまま、同じ幅で前へ前へと伸びていく。  止まらねえ、坂でぜんぜん止まらねえ!! これがお前の脚だろうが、全部見せてやれ!!


「抜け出した! 抜け出したのは、あの新馬戦の再来か――! 黒鹿毛が坂を駆け上がる!」


 新馬戦の日、東京の長い直線を大外から上がってきたのと同じ脚だ。あの日は誰も見ていなかった馬が、今日は1番人気を背負っている。  坂を上りきっても、アサツユの脚色は落ちなかった。ぐっと首を沈めて、そこからまたひと伸びする。後ろの栗毛との差が、縮まるどころか開いていく。


 離れろ、もっと離れろ!! 今度は鼻の先なんかじゃ終わらせねえからな!!


「7番アサツユ、今ゴールイン! 前走の雪辱を果たしました! 皐月賞の優先出走権を勝ち取ったのは、黒鹿毛アサツユ!」


 ゴール板を過ぎても、俺は声を出さなかった。手すりに置いた両手が、そこから離れない。


「陸!!」


 バン、と俺の腕が鳴った。手加減というものを一切知らない叩き方だ。


「勝った、勝ったよ、ねえ見た!? あの子、坂で突き放したよ!」


 見てたから、何も言えないんだよ。  返事をする前に、肩にずしりと重いものが乗った。宮田さんの手が俺の肩を掴んでいる。顔はコースへ向けたまま何も言わず、指にだけ、やけに力が入っていた。


 電光掲示板の1着の欄に、7が点いた。2着に10、着差は「1 1/2」。勝ちタイムは2分01秒0、上がり3Fは34秒6で、馬場は良だった。


「10番から買ったのに……あの黒鹿毛、坂で別の馬になりやがったな」


「テンカザクラがいねえからだろ。皐月でまた負けるって、どうせ」


 後ろの声が、妙にはっきり耳に残った。言い返す気は起きない。4月になれば分かる。  宮田さんの手がようやく離れて、顎で関係者口のほうをしゃくった。


 ◇


 検量室前に着くと、1着の枠場へアサツユが引かれてくるところだった。首から胸前まで汗で光っている。  先生は枠場の脇で手帳を開いたまま、俺に短く会釈した。


 口取りは、須賀を乗せたまま枠場の前で撮った。轡の横に俺が立ち、何度かシャッターが鳴る間も、アサツユだけは知らん顔で地面の匂いを嗅いでいる。  撮影が終わると、須賀は鞍を外して検量室へ入っていった。  その間に、奏がアサツユのそばへ寄って、低い声で言った。


「アサツユ。……がんばったね。えらかったね」


 馬にだけ使う声だ。俺に向けるときの半分くらいの速さで、倍くらいやわらかい。


 検量室から、須賀が戻ってきた。鞍を小脇に抱えて、汗で額に張り付いた前髪もそのままだ。


「オーナー。4コーナーの手前、僕の手よりこの馬のほうが先でした。僕が出す前に、自分で肩を入れて外へ出たんです」


 こいつは坂路で見た肩の入れ方を、本番の4コーナーでそのままやったのか。  その須賀の頭に、横からアサツユの鼻先がぬっと伸びてきた。汗で張り付いた前髪のあたりを、ぐいぐいと押す。須賀は首をすくめて、少し笑った。


「分かってるって。お前の手柄だよ」


 あの須賀が、馬に向かってタメ口をきいている。たぶん、本人は気づいていない。


「ねえ、陸。知ってたでしょ。この子が自分で外に出るって」


 奏が、いつの間にか俺の横に戻ってきている。


「……調教、見てたからな」


 嘘じゃない。言っていないのは、その後に見たもののほうだ。  奏はしばらく俺の顔を眺めた。


「……ふうん。許してあげる」


「何を」


「前の、ハナ差の分。今日ので帳消しにしてあげるって言ってんの」


「そりゃどうも」


「なにその返事」


 奏の肘が俺の脇腹をつついた。


 先生が手帳を閉じて、こっちへ向き直った。


「優先出走権、取れました。次は皐月賞です。中山の坂に向けて、美浦で脚を作り直します」


「はい。よろしくお願いします」


 先生はいつもの短さで「はい」とだけ返した。  これでアサツユは4戦3勝だ。並べてみると、ちょっと出来すぎている気がする。


 ポケットでスマートフォンが震えた。三上さんだ。


「おう若旦那! 見たぞ阪神!! 勝ったな、今度こそ勝ったな! 焼肉だ焼肉!」


「……三上さんの奢りですよね」


「バカ言え、お前の奢りだ! 金入るんだろ、勝ったんだから」


「……まあ、入りますけど」


「よし決まりだ、店はこっちで押さえとくからな!」


 言うだけ言って、電話は切れた。借金を返したことは、また言いそびれた。


 ◇


 厩舎へ引き上げるアサツユを、検量室前の出口で見送っていると、黒いコートの男が近づいてきた。  セリの会場で、桜庭の札を挙げた男だ。奏が小さく声を落とした。


「……桜庭さんとこの人だ」


 男は俺たちの前で丁寧に頭を下げた。


「日向さん。おめでとうございます。統括から、お伝えするよう言いつかっております。テンカザクラは、皐月賞に向かいます。先ほど、陣営として正式に発表いたしました」


 パドックで聞いた噂とはまるで逆だった。  奏がスマートフォンを取り出して、黙って俺のほうへ傾けた。一番上の見出しは、『テンカザクラ、皐月賞へ直行 すみれS勝ちの2戦2勝馬』だった。  こっちは前走で負けて、今日やっと切符の端をつかんだところだ。向こうはトライアルなんか使わずに、もう改札の前で待っているような顔だ。


「統括が、少しだけと」


 男が自分のスマートフォンを差し出した。画面は通話中で、差し出した手はそこからぴくりとも動かない。  受け取って耳に当てると、聞き覚えのある声がした。


「上がってきたね、日向くん」


 1か月前の検量室前で聞いた声だ。君の馬が、4月の中山まで上がってこられたら、だけどね。


「今度は、詰まったなんて言わせないよ。君の馬がどこを通っても、前にいるのは僕の馬だ」


 平熱で返すつもりだった。おかげさまで、とか、そのくらいの言葉で。


「――望むところだ」


 電話の向こうで、短く笑う息の音がして、通話が切れた。  ……今の、丁寧語で言うべきだったか。  スマートフォンを返すと、男は表情を変えずに受け取り、出口の向こうへ戻っていった。


「……中山か」


 宮田さんがぼそりと言った。


 出口の先で、アサツユがこっちを振り返った。厩務員さんに引き手を軽く引かれて、長い脚がまた前へ歩き出す。


 額に星のあるあの馬の3行目を、俺はまだ見ていない。

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