中山、決戦前夜
『ひなた牧場』へ上がる坂道に、見たことのない車が何台も並んでいる。 普段この坂を上がってくるのは、三上さんの錆びた軽トラくらいだ。それが今朝は、路肩にワゴンが詰めて停まり、放牧地の柵の前には三脚が林みたいに立っている。
レンズの先にいるのは、『ツキノシズク』だった。 10歳の母馬はカメラの列なんか気にもせずに、柵の際に生えた若い草を、ぶちぶちと音を立ててちぎっている。
「日向さん、生産者として、明日の『皐月賞』はどんなお気持ちですか」
「おかげさまで、ここまで来られました。あとは馬と、乗る人に任せます」
用意してきた答えを、そのまま読んだ。 本当は上着のポケットの中で、出馬表を刷った紙の角を何度も指でなぞっている。木曜に枠順が出た。18頭立ての1枠2番、内も内だ。『アサツユ』の行は、もう目をつぶっても浮かぶ。
「アサツユは4戦3勝、前走の『若葉ステークス』も完勝でした」
記者が付箋だらけの手帳をめくった。よく調べてきた人だ。
「ただ、お母さんのツキノシズクは、現役時代は14戦すべて1400メートル以下ですよね。皐月賞は2000です。距離の不安はありませんか」
坂路民の掲示板では、その同じ数字が「外れ血統」の一言で片付けられた。あのころは、この柵の前に誰も来なかった。 今はその外れ血統の母に、レンズが一列に並んでいる。
「母は、短い距離しか使われなかっただけです。長い距離が走れないかどうかは、まだ誰も試していません」
親子そろって中距離向きなのを、俺は知っている。言えないけど。
「……それ、見出しにしていいですか」
「やめてください。母が照れます」
後ろのカメラマンが肩を揺らして笑ったが、記者は笑わずに付箋を1枚増やした。本気で見出しにする気だ。
「相手はやはり、『桜庭ステーブル』の『テンカザクラ』でしょうか。2戦2勝、『すみれステークス』では、アサツユがハナ差で負けています」
「強い馬です。だから明日、前に出る意味があります」
「厩務員の宮田さんですよね。宮田さんからも、ひと言いただけますか」
宮田さんは腕を組んだまま、シズクのほうへ目を細めている。
「……オーナーに聞いてくれ」
事務所では毎日「お前」と呼ぶくせに、レンズの前だとこれだ。こっちは平熱の顔を保つので手一杯だっての。
柵の向こうから、車の鍵を提げた奏が歩いてきた。
「シズクの近くでフラッシュは焚かないでくださいね。母馬なんで。あと陸、そろそろ出ないと間に合わない」
「分かった」
「分かったなら靴、履き替えて。その長靴で飛行機乗る気?」
スニーカーに履き替えて奏の車に乗り込んだ。後部座席の宮田さんは、坂を下りきるまで、窓越しにシズクの放牧地を見続けた。
◇
日高を発って中山の門をくぐったのは昼過ぎで、前日の土曜だっていうのに、スタンドへの通路はもう人でいっぱいだった。
「オーナー、こちらです」
関係者の入口に先生の姿があった。
「アサツユは、前日のうちに美浦から入れました。当日の朝に運ぶより、ひと晩ここの空気を吸わせたほうがいい馬だと思いまして」
「様子はどうですか」
「着いてすぐ、飼い葉を食べ始めました。輸送で少し体は減っています」
「どのくらい減りました?」
奏が先生と俺のあいだに半歩出た。
「数字は、明日の発表で見てください。心配する量ではありません」
……教えてくれないのか、それ。
「なら、今夜の飼い葉を残さなければ、だいたい戻りますね」
「わたしも、そう見ています」
獣医と調教師がそろってそう言うなら、俺は黙って頷く係だ。
スタンドに上がると、前日発売のオッズ板が目に入った。
「1番人気、テンカザクラで2.1倍。アサツユは……2番人気の4.6倍だって」
奏は読み上げてから、口をとがらせた。
「前は1番人気だったのに。ちょっと悔しくない?」
新馬戦で314.7倍だった馬が、G1で4.6倍だ。悔しいどころか、人生何があるか分からんな。
「黒いのは母親が短距離だろ。2000は最後に止まるって」
後ろの客の声に、内心で返す。持つんだよ。スタミナA+だぞ、こっちは。
「……直線が短ぇ」
隣で宮田さんが言った。 1枠2番から4コーナーで内に閉じ込められたら、外へ出す前に終わる。すみれステークスで詰まったのも、4コーナーだった。
「須賀さんから、伝言を預かっています」
いつの間にか、先生が後ろに来ていた。須賀は今日も中山で乗っていて、レースの合間以外は調整ルームだ。前の晩から、外とは連絡が取れない決まりになっている。
「『中山の2000は、前に一度勝ってます。12月の1勝クラス、2番手から2馬身。この馬は、このコースを知ってます』と。それから」
先生が少しだけ口元をゆるめた。
「『どこを通るかは、ゲートが開いてから僕が選びます。馬が先に選んだら、そのときはそっちに乗ります』だそうです」
「2番だと、やっぱり内は混みますか」
「混みます。G1ですから。だから、ああ言ったんでしょう」
「外を回すかどうかは須賀さんに任せます、と伝えてもらえますか」
「伝えようがないですよ。もう、あの部屋の中ですから」
「……ですよね」
ボス戦の直前に装備を全部入れ替えるやつはいない。俺はポケットの紙から手を離した。
◇
夕方、最終レースが終わったあと、スタンド裏の通路で人の輪にぶつかった。 照明とマイクが伸びる輪の真ん中で、スーツの男が質問に答えている。桜庭だ。
「すみれステークスからの直行で、不安はありませんか」
「調教の時計は、どれも予定の範囲に収まっています。数字の上で、不安な点はありません」
答えは丁寧で短くて挑発のひとつもない。 照明係のひとりが、通路の先に停まった馬運車のほうへライトを振った。 桜庭が受け答えの途中で片手を上げた。手のひらを下にして、光をゆっくり地面のほうへ押し下げる。
「そちらには向けないでください。馬がいます」
照明係が慌ててライトを戻した。
「ひなた? ああ、すみれの2着の」
照明係まで連れた囲みの外で、桜庭側の若いスタッフが隣に言った。……合ってるよ。今のところはな。 額に星のある馬は、厩舎地区の奥の馬房だ。3行目を見るには、ここからでは遠すぎた。
輪の切れ目から桜庭の目がこっちを向く。 何か言われるかと思った。2か月前は検量室前で、先月は電話越しで、この男は必ずひと言置いていった。 今日の桜庭は、何も言わない。袖口のカフスに軽く指を触れて、それから、ほんのわずかに顎を引く。 俺も、軽く頭を下げた。丁寧語の代わりの、つもりだ。
桜庭はもう次の質問に答えている。……何か言えよ。調子狂うだろ。 俺は輪に背を向けた。
◇
日が傾くと、厩舎地区の入口の明かりが、やけに白く見えはじめた。 馬房をひと目見るだけ、と先生に頼み込んで、特別に許してもらった。先生の厩舎の担当さんに付いてもらう約束だ。
「宮田さんは」
「俺はいい。行ってこい」
宮田さんは上着のポケットに手を突っ込んで駐車場のほうへ歩き出し、2、3歩のところで、振り返らずに言った。
「先代がよく言ってた。馬は嘘をつかない、ってな」
「……それ、今言います?」
宮田さんは振り返らない。背中が駐車場の薄暗がりへ溶けていく。
胸ポケットの万年筆が、急に重くなった気がした。 先代は、馬を見るときは必ずこれを持ってきた。若い頃に誰かにもらった物だと、前に宮田さんから聞いた。 馬は嘘をつかないと言い切れたのは、先代が何を見ていたからだ。この万年筆をくれた誰かは、それを知っていたんだろうか。
馬房の通路は干し草と、少し湿った木の匂いがした。 担当さんが奥のほうから軽く会釈して、自分の作業に戻っていく。
アサツユは馬房の真ん中に静かに立っている。 俺の足音を聞いて、片方の耳だけをこっちへ向ける。それから、鼻から長く息を吐いて、また飼い葉桶に顔を戻した。
「……落ち着いてんな、お前」
胸ポケットから万年筆を抜いて、手の中に握り込んだ。
【アサツユ(牡・3歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A+】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】
……変わってねえ。4週間、1個もブレてない。思い込みなら、もうちょっと揺れるだろ。 アサツユは輸送で減った体のまま、平気な顔で干し草を噛んでいる。
万年筆を胸ポケットに戻すと、通路の蛍光灯のかすかな唸りが、また耳に戻ってきた。
「明日は本番だぞ。セーブもリトライもない、1回きりの周回だ」
アサツユは尻尾をひとつ振っただけで、返事はない。
「内で詰まっても、外を回されても、お前は自分で出口を探せる。俺はそれを知ってる。だから、好きに走ってこい」
黒い目が一度だけこっちを見た。鼻息がひとつ、短く漏れて、すぐに消えた。
「オーナー、そろそろ。明日は朝から、報道の方が厩舎の周りに増えますので」
通路の奥から担当さんが声をかけてきた。
「はい。ありがとうございます」
馬房の扉に掛かった札には、マジックで『アサツユ』と書いてある。 その4文字をもう一度目に入れてから、俺は通路の出口へ向き直った。 明日のパドックで、額に星のあるあの馬を真っ先に視てやる。
――明日、決着をつける。




