星を目印に
スタンドを埋めた人の声が屋根に跳ね返って、パドックまで降ってくる。 『皐月賞』の日曜は、音の厚みがまるで違う。誰かの広げた競馬新聞が春の風にばさばさ鳴る。
馬主エリアの柵の向こうを18頭が周回している。 ゼッケンの「2」が俺の目の前を通り過ぎた。 木曜から分かってる数字だ。それでも輪の内側を歩く『アサツユ』を見ると、紙の上よりずっと重い。
「マイナス4キロだって」
隣で奏が馬体重の表示を見上げた。 朝いちばんに先生の許しをもらって、アサツユの脚を診てから来たらしい。コートの裾に敷き藁がひとつ付いたままだ。
「先生の言ったとおり、心配する量じゃない。朝の飼い葉も、桶の底まで舐めてたって」
「輸送の分だけ、きっちり減ったってことか」
「そういうこと。ほら見て、踏み込みが深いでしょ。後ろ脚が前脚の跡を越えてるから」
宮田さんは競馬新聞に目を落としたまま、1枚もページをめくらない。聞いてる顔だ。
パドックの反対の隅に、仕立てのいいスーツの男が立っている。桜庭だ。 君の馬が、4月の中山まで上がってこられたら。2か月前に聞いた声が、耳の奥で鳴った。 上がってきたよ。1枠2番っていう、おまけ付きでな。
列の中ほどに、額に小さな星のある『テンカザクラ』がいる。 胸ポケットから万年筆を抜き、掌に握り込んだ。
【テンカザクラ(牡・3歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A】【パワー:A+】【根性:B+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:先行】
3行目が埋まってる。 【先行】。好位で前を取って、そのまま押し切る形の馬だ。 先月の電話で桜庭が言い切ったのは、強がりでも何でもなかったわけだ。
視線を少し前へずらすと、脚の長い黒鹿毛が内側の列を歩いてくる。 こっちの3行目は、何度視ても変わらない【自在】だ。向こうは前で運ぶ。こっちはどこからでも追える。 万年筆を胸ポケットに戻したところで、横から視線が刺さった。
「……なんで?」
奏が目を細めて、俺の顔と星の馬を見比べている。
「さっきから、桜庭さんとこの馬ばっかり見てる。自分の馬より長く」
「敵情視察だよ。負けたことのない馬なんだから」
奏はそれ以上は聞かずに、周回の列へ目を戻した。聞かないでいてくれるのがいちばん怖い。
「止まれ」の号令がかかって、列がほどけた。 白に青の二本輪の勝負服が、ロープの内側をまっすぐこっちへ来た。須賀だ。
「オーナー。伝言、届きましたか」
「届きました。こっちの返事は、届かなかったでしょうけど」
「調整ルームですから」
「だから、今言います。どこを通るかは、須賀さんが選んでください。俺から言えるのは、ひとつだけです」
須賀は黙って、次の言葉を待った。
「前にいるのは、たぶん星の馬です。新馬戦も、すみれも、好位から動いて押し切ってる。今日もきっと、早めに前で構えます」
「目印にしろ、ってことですね」
「追いかける相手が、最初から見えてるってことです」
「助かります。内で囲まれても、星だけ見てればいい。……どこで動くかは僕が決めますけど、目印はもらっておきます」
アサツユが首を伸ばして、須賀のヘルメットのてっぺんを鼻でこつんと押した。
「……分かってるって。お前も聞いてたんだろ」
須賀は馬にだけ聞こえる声で言い返した。口の端が少しだけ上がる。
「須賀さん」
宮田さんが、新聞を畳んだ。
「坂までは、我慢させてやってくれ。あの馬は、坂で脚を使う馬だ」
「はい。中山の坂は、こいつもう知ってますから」
須賀が鞍に跨がる。斤量57キロを背負った黒い背中が、地下馬道の暗がりへ吸い込まれていった。
◇
ファンファーレが鳴り終わると、スタンドを揺らしていた声が一度だけすっと引いた。 スタンド前のゲートに18頭が収まっていく。内から2つ目の白と青が、アサツユだ。
「スタートしました! 18頭、ほぼ横一線のきれいなスタート! さあ、何が行くか!」
アサツユのスタートは悪くない。悪くないのに、外から3頭、4頭と馬が内へ寄ってくる。 白と青の勝負服があっという間に色とりどりの馬体の陰に沈んだ。
「先手を取ったのは16番、外から主張していきます。2番手にテンカザクラ、好位の外につけました。1番人気、いつもの位置です」
星の馬は最初の100メートルでもう一番いい席に座ってる。パドックで視た【先行】の1行が、そのまま芝の上を走ってるみたいだ。 アサツユは内ラチ沿いの中団、前から9番手あたりだ。前にも横にも、馬の尻と鞍上の背中が並んでいる。
「1コーナーから2コーナー、隊列はあまり縦長になりません」
向正面でも、前に2頭、外に2頭。ラチと馬に挟まれた細い箱の中で、須賀の手綱はじっと動かない。
「向正面の中ほど、1000メートルの通過は59秒8。平均ペースで流れています」
平均ペースってことは、前がばてないってことだ。
奏は双眼鏡を押し当てたまま動かない。 宮田さんはレースが始まってから一度も座っていない。
「3コーナーを回って、テンカザクラが早くも外から先頭をうかがう! 後続も一斉に動いた! 内の各馬は苦しいか!」
内の箱は開くどころか、外から押されてさらに狭くなる。
「前に3頭、外に2頭!! これじゃすみれの4コーナーそのまんまじゃねえか!!」
でも、須賀は外へ振らない。 手綱を握った拳が、外じゃなく、内ラチのほうへほんのわずかに寄った。
「4コーナーをカーブして直線コース! テンカザクラ、もう先頭に立った! 逃げた16番は一杯か、ずるずると後退!」
16番が下がってくる。下がりながら、ほんの少しだけ外へよれた。 その一瞬、内ラチと16番のあいだに、馬1頭ぶんの細い隙間が開いた。
須賀の拳がそこで初めて前へ出た。 アサツユの首が沈んで、黒い体が隙間に頭から飛び込んでいく。
「1頭ぶんの隙間に頭から行くのかよ!? 須賀さん正気か!!」
「内から! 内からアサツユ! 最内を突いて、2番アサツユが伸びてくる!」
「アサツユ、そのまま!! まっすぐ!!」
奏が双眼鏡を放り出して叫んだ。 坂だ。中山の急坂が目の前で馬群を1頭ずつ鈍らせていく。 星の馬はまだ先頭にいる。けど、その差が坂の途中で縮み始めた。
「上れ、上れよ!! 坂で脚を使う馬なんだろ、お前は!!」
「坂を上がってテンカザクラ先頭! しかし内からアサツユ、アサツユが迫る! 残り100!」
黒い体が一完歩ごとに大きくなって、星の馬の尻尾がアサツユの鼻先で揺れた。それが鞍の横になり、肩になる。
「届け!! その鼻、あと少しだけ前に突っ込め!!」
「テンカザクラか、アサツユか! 2頭並んでゴールイン!」
2頭がひとかたまりのままゴール板の前を駆け抜けた。
「テンカザクラ、粘り切った――! 内のアサツユ、わずかに届かない!」
届かなかった。ゴール板を過ぎる瞬間、外の星の馬の首が内の黒い首のほんの少し先にあった。スタンドの真正面からだと、それがはっきり見えてしまう。 ターフビジョンにゴールの瞬間が繰り返し映っても、首の位置は1回も入れ替わらない。 やがて着順の表示に灯が入り、1着の欄に星の馬の番号が出た。 その下の2着の欄に「2」、着差の欄には「クビ」とだけある。 勝ち時計は1分58秒4、馬場は良。少し遅れて『確定』のランプが点いた。
「……すみれがハナで、今日がクビ。縮めにきて、広げてんじゃねえか」
口から出たのはそれだけで、手すりを握った指がなかなか離れない。
「最内割って、あそこまで来るかよ、黒いの」
「2番の単勝、握りしめてたのによお。クビってなんだよ、クビって」
後ろの客の声が降ってくる。 奏が、拾い上げた双眼鏡をゆっくり下ろした。
「……アサツユ。よく走ったね」
届かない距離なのに、馬にだけ向ける声だった。 それから奏は、ターフを見たまま俺にだけ聞こえる声で言った。
「……2回目だからね」
何か返そうとして、喉のところで言葉が止まった。 宮田さんは、そこでようやく椅子に腰を下ろした。座って、何も言わない。 星の馬のウイニングランを、俺は最後まで目を逸らさずに見た。
◇
検量室前の通路へ降りると、歓声が壁一枚ぶん遠くなった。汗と泥と、濡れた革の匂いがする。 後検量を終えた須賀が、鞍を小脇に抱えて出てきた。まっすぐ俺の前で止まる。
「オーナー」
須賀の唇が一度だけ固く結ばれて、それからほどけた。
「枠さえ普通なら……いや、これは言い訳ですね。次は絶対に」
「内を割ったのは、須賀さんの判断ですよね」
「はい。外へ回したら、坂の前で終わってました。星の馬が先に行くのは分かってたので、星だけ見て、開くのを待ちました」
「なら、言い訳じゃないです。あれ以外に道はなかった。1枠2番が回ってきた日の、いちばんいい乗り方でした」
須賀は何か言いかけて、やめた。代わりに、抱えた鞍の腹帯を指で1本ずつ揃え直す。
担当さんに引かれて、アサツユが戻ってきた。 奏は俺より先に膝をつき、前脚を左右とも蹄の縁まで指でなぞった。
「息の入りが早い。蹄も欠けてない。……この子、まだ走れるって顔してる」
宮田さんは黙ってタオルを取り、首筋の汗を何度も拭いた。それから、ひと言だけ置く。
「……坂で、伸びてた」
俺は、アサツユの正面に立った。 負けた直後に視るのは、正直、怖い。1つでも欠けてたら、全部俺の思い込みだったことになる。 胸ポケットの万年筆を抜いて、握った。
【アサツユ(牡・3歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A+】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】
……1つも欠けてない。 パドックで視た星の馬と並べると、スピードは同じで、スタミナと根性と賢さはこっちが上だ。パワーだけは向こうがA+で、こっちはAの1段下になる。 坂で並んでから前に出きれなかったのは、たぶんそこだ。でも、内で待たされた時間がなければ、並ぶのは坂のずっと手前だった。
本当に力で負けてる馬なら、あの箱の中から首ひとつまでは詰めてこられねえよ。負けたのは力じゃなくて、待たされた分の展開だ。
万年筆を胸ポケットに戻すと、通路の向こうが騒がしくなった。 口取りの写真を撮り終えたテンカザクラの一団がこっちへ歩いてきて、記者のカメラが寄った瞬間、桜庭は黙って馬と記者のあいだに半歩入った。 すれ違いざま、桜庭の目が一瞬だけアサツユに止まる。
「いいレースだったよ、日向くん。……でも、2回続けて前にいたのは僕の馬だ」
返事を待たずに、桜庭はテンカザクラの後ろについて歩き去った。
「オーナー、最終に乗りますので、僕はこれで」
鞍を抱え直した須賀が、通路の奥へ向きかけた。
「須賀さん」
須賀が振り返る。汗で張り付いた前髪の下で、目だけがまだレースの中にいた。
「次はダービーです。東京の2400なら、前にいる馬を追いかける直線が今日よりずっと長い。今日のクビ差は、あそこでまとめて取り返しましょう」




