好敵手の顔
一時停止を押した指が、また同じところで止まった。 画面の中で、逃げた16番が下がりながら外へよれる。内ラチとのあいだに、馬1頭ぶんの細い隙間が開いた瞬間だ。 『皐月賞』から10日あまりたった平日の昼、『ひなた牧場』の事務所で、俺はこの録画をもう何周したか分からない。
「何べん止めたって、16番は同じとこでよれるぞ」
向かいの机で、宮田さんが競馬の週刊誌を広げたまま言った。開いたままの面には、「アサツユ、クビ差まで迫る」の見出しが出ている。ページは俺が録画を回し始めてから1枚もめくられていない。
「分かってます。よれる場所が分かってるから、そこで止めてるんです」
マウスを押して再生に戻す。 黒い体が隙間に頭から飛び込んで、坂で星の馬との差を詰めていく。詰めて、詰めて、首ひとつ届かないままゴール板を過ぎる。 実況の「わずかに届かない!」を聞く前に、また巻き戻した。ゲームの周回なら、とっくにスキップボタンを連打してる回数だ。
すみれがハナ差で、皐月賞がクビ差だ。2回続けて、『アサツユ』は額に星のある馬の後ろでゴールしてる。 あそこでまとめて取り返しましょう、と須賀に言ったのは俺だ。言った以上、取り返し方くらいは見つけておかないと格好がつかない。
視るのはあの日のうちに済ませた。アサツユはパドックと検量室前の2回で、表示は2回とも1段も落ちてなかった。 あの日視た2頭のステータス画面を頭の中で並べる。負けてる欄はパワーの1段だけで、向こうのA+に、こっちはAで届かない。 スタミナと賢さと根性は全部こっちが上で、根性なんか、育成方針から違う馬かってくらい離れてる。 中山の短い直線じゃ、その差を使い切る前にゴール板が来た。次の『日本ダービー』は東京の2400で、直線だけでも中山よりずっと長い。 残る違いは3行目で、向こうが先行、こっちが自在だった。
マウスに置いた手が、そこで止まった。 先行の馬は、どの枠を引いても前で場所を取りに行くしかない。自在は違う。枠に合わせて、通る場所を選び直せる。 皐月賞のアサツユは、その選び直しをさせてもらえなかった。1枠2番の内に縛られて、選べる場所が最初から1つしかなかった。
……自在って、要は配置ガチャの引き直し券じゃねえか。 向こうは引いた枠で戦うしかない。こっちは、引いた後に選べる。攻略サイトなら太字で書いてあるやつだ。
手近にあったファクスの裏紙を引き寄せて、ボールペンを走らせた。 書くのは人に見せられる根拠だけだ。鑑定のことは紙の上にも残せない。新馬戦、1勝クラス、すみれ。勝ち方を1行ずつ並べていく。
最後の1行を書き終わる前に、机の端でスマートフォンが震えた。画面に出た名前は「須賀さん」だった。
「オーナー、今、少しいいですか」
「ちょうど、こっちからかけようと思ってたところです」
「よかった。……あの日の返事を、まだしてなかったので」
須賀の声は検量室前の通路で聞いたときより少し低い。後ろのほうで、馬房の扉を引くような音が鳴った。
「まとめて取り返しましょう、って言ってもらったのに、僕は最終に行ってしまいましたから。取り返します。まとめて、ちゃんと」
「……はい。そのつもりで、朝からずっと録画を見てました」
電話の向こうで須賀が小さく息を吐いた。
「何回見ても、あの日の僕に他の道はなかったと思います。……でも、次も同じ道しかなかったら、また同じ着差です」
俺はペンを置いた。
「ダービーの枠は、まだ分かりません。初期配置が運次第なのは、どのゲームでも同じですけど」
「そこは祈るしかないですね。皐月賞は、ゲートを出た瞬間から両側が詰まってました」
「なら、どの枠を引いても使える勝ちパターンを、先に決めておきたいんです」
「内でも外でも、ですか」
俺は裏紙の1行目に指を置いた。
「アサツユは、新馬戦を後ろから差し切ってます。1勝クラスは、2番手から押し切りました。前でも後ろでも、勝ってる馬です」
「ええ。……あの馬、どこに置かれても嫌がらないんですよ。首の高さが変わらない。乗ってる僕のほうが、いちばん楽をさせてもらってます」
「すみれは2200を走って、最後まで脚が止まりませんでした。皐月賞の後も、息の入りが早かった」
「降りたあとも、背中にまだ余力が残ってました」
「だから、内で待たないでほしいんです。内を引いたら、早めに自分で場所を取りに行く。外を引いたら、無理に内へ潜らない。前の馬を長い直線で追いかける形を作る」
須賀はすぐには答えなかった。受話器の向こうで、紙をめくるような音がする。
「……皐月賞の僕は、待つしかないと思ってました。1枠2番から外へ振ったら、坂の前で脚がなくなるって」
「はい」
「でも、待たずに自分で動いても、あの馬なら最後まで脚が残る。オーナーは、そう見てるんですね」
「そう見てます」
「根拠は」
「今、読み上げたぶんで全部です」
嘘じゃない。人に言える根拠は、本当にそれで全部だ。 電話の向こうが、少しのあいだ静かになった。
「星の馬は、どの枠からでも前を取りに来ますよ。すみれも皐月賞も、そうでした」
「だから、こっちは場所を選び直す側に回るんです。向こうが先に場所を決めてくれるなら、目印には困りません」
「……参考にします。最後は、ゲートを出てから僕が判断します」
「それで構いません」
「テンカザクラも、ダービーに向かう予定だとこっちでは聞いてます。目印は、今度も星ですね」
「今度も星です」
電話の向こうで須賀が短く笑った。
「今度は、星の横まで行きます。その先は……言わないでおきます。言うと、外れる気がするので」
「験担ぎですか」
「乗り役なので」
次の用事があるので、と言って須賀は電話を切った。
俺は宮田さんのほうへ顔を上げた。
「宮田さん。ダービーは、どの枠を引いても、アサツユに自分で場所を選ばせます」
宮田さんは週刊誌から目を上げずに、「……おう」とだけ言った。 ページは、やっぱり1枚もめくられていない。全部聞いてた顔だ。
もう一度、裏紙の3行を上から読む。人に見せられる根拠だけで、須賀は乗ってきた。見せられないほうの根拠は、俺の頭の中でとっくに答えを出してる。 これなら、勝てる。 声には出してないのに、誰かに聞かれた気がして、首の後ろを掻いた。
◇
同じ日の夜、玲司は『桜庭ステーブル』の繁殖牝馬の厩舎に寄って、通路の照明を少し絞った。それから、本社棟の自分の部屋に上がった。
机のモニターに皐月賞の録画を呼び出して、音を絞って再生する。 会長が名前を付けた『テンカザクラ』は3戦3勝で、G1も勝っていて、数字の上ではどこにも文句のつけようがない。
ゴール前で玲司の指が止まった。 内ラチ沿いから、黒い馬が上がってくる。坂で他の馬が鈍っていく中、その1頭だけが脚色を落とさない。 黒い首は、テンカザクラの首のすぐ後ろまで来て、そこで止まる。
着差はすみれのハナからクビに広がって、数字だけ見れば突き放したことになる。 だが、条件が違いすぎた。テンカザクラは好位の外で、誰にも蓋をされずに走った。向こうは1枠2番の内で中団に閉じ込められ、開いた一瞬の隙間に頭から突っ込んできた。 同じ条件なら、首ひとつはどちらに転んだか。 玲司は答えを出さないまま、もう一度巻き戻した。まぐれで片づけるには、サンプルはもう1つじゃない。
机の端で、スマートフォンが震えた。画面には「会長」とある。 玲司は椅子を回してモニターに背を向け、それから通話に出た。
「……はい」
「玲司か」
「はい。テンカザクラは、順調です」
自分の声が1段低くなっているのが、玲司には分かった。
「当然の結果だ」
それだけ言って通話は切れた。 皐月賞のレースぶりも、ダービーのことも、父は何ひとつ口にしなかった。 玲司は暗くなった画面をしばらく見下ろしてから、椅子を戻した。
早坂の西岡という男から、前に聞いた話があった。日向は、あの黒い馬を坂に放す、と。聞いたときは、効率の悪いやり方だと思った。 あの坂で、毎日あの脚を作っていたわけか。
パドックの隅から見ると、日向の目はアサツユよりテンカザクラに長く向いた。検量室前では、負けた馬の正面に立ったまま、しばらく動かなかった。 玲司は血統表と種付け料と勝率で馬を選び、投資対効果の数字が合えばそれで十分だと思ってきた。
あの男の方が、馬と向き合っているのかもしれない。
検量室前ですれ違ったとき、自分が日向に投げた言葉を思い出す。勝った側の台詞にしては、ずいぶん余裕がなかった。 玲司はシャツの喉もとのボタンを1つ外して、モニターの黒い馬に目を戻した。 誰もいない部屋で、呟きが漏れた。
「――次も、本気で来い。日向」
玲司は皐月賞の録画を閉じて、東京5Rの新馬戦を呼び出した。あの日2回見て伏せた映像を頭から流して、後方の黒い馬のところで一時停止を押した。日本ダービーまで、あと1か月だった。




