支えてくれる人たち
ただの水曜の追い切りなのに、なんでこんなに人が集まってるんだ。 『美浦トレーニングセンター』のウッドチップコースの脇で、俺は朝靄の向こうに並んだ顔を数え直した。 先生と担当さんはいつもどおりだ。その横に、日高から一緒に来た宮田さんがいる。
俺がレンタカーを駐めて歩いてくるあいだに、宮田さんは誰より先にコースの柵の前へ立った。 少し離れて、研修を休んで来た奏が、腕時計とコースを交互に見ている。
さらにその向こうで、見覚えのない男が2人、長いレンズのカメラを柵に載せている。
「記者さんですよ。皐月賞の2着から、急に増えまして」
白いシャツにネクタイの先生が、俺の視線をたどって小声で言った。
「アサツユ目当てですか」
「半分は、そうでしょうね。もう半分は、テンカザクラがダービーに向かう予定だと聞いて、相手の様子も見ておきたいんでしょう」
すみれでハナ差、皐月賞でクビ差だ。星の馬に2回続けて先着できなかった馬の追い切りを、わざわざ朝早くから撮りに来る物好きがいる。 ありがたい話のはずなのに、なんとなく背中がむずむずした。
記者の片方、日焼けした年かさのほうが、手帳を持ったまま先生に寄ってきた。
「先生、2回ともテンカザクラの後ろですけど。ダービーでは、逆にできますか」
「それは、レースのあとで聞いてください」
先生はそれ以上言わなかった。記者は肩をすくめ、レンズを覗き直した。
「オーナー」
宮田さんが、柵のほうを向いたまま俺を呼んだ。美浦では、宮田さんは俺を「お前」と呼ばない。
「来るぞ」
向こう正面の霧の中から、2頭ぶんの蹄の音が近づいてくる。湿ったウッドチップを蹴る、こもった音だ。 内に僚馬、外にアサツユの併せ馬だと聞いていた。先に出た僚馬を後ろから追いかけて並び、最後の1ハロンだけ強めに追う予定だ。
3コーナーを回ったところで黒い体が霧から抜け出し、須賀が合図の位置より手前で自分から手綱を動かすと、アサツユは外へ半馬身ずれて、前の僚馬の真横へするすると並びに行った。 誰にも呼ばれていないのに、自分の場所へ顔を出しに行くみたいな動きだった。
……おい、まだ予定の地点より前だぞ。 須賀の判断だ。先生に言われた位置まで待たずに、自分で並べる場所を取りに行った。ゲームで言えば、指示待ちのAIを卒業して、プレイヤー操作に切り替わった感じだ。
ポケットの万年筆には、触らなかった。今日は、目の前の脚だけで足りる。
並んでからが違った。 僚馬の騎手が手綱をしごき始めても、須賀の手はまだ動かない。アサツユは首を低く沈めたまま、1完歩ごとに僚馬の鼻先を少しずつ削っていく。 須賀が最後に1回だけ肩ムチを見せた。それだけで黒い体がもう一段沈み、ゴール板の前では僚馬を半馬身ほど置き去りにしていた。 駆け抜けたあとも、アサツユは止まりたがらずに首を振っている。まだ走れる、と言っているみたいだった。
「……今の、見たか」
さっきの記者が、隣のカメラマンに低い声で言った。
「並ぶまでは持ったままで、ムチ1発であれだ。皐月賞の時より、楽に動いてるぞ」
カメラマンの返事は、シャッターの連写の音だった。 記者がこっちを振り向いて、今度は俺に聞いてきた。
「オーナーさん、ですよね。ダービー、いけますか」
「……いい馬ですよ。皐月賞のときより」
それしか言えなかった。記者は手帳に何か書きつけ、またコースへレンズを向け直した。
しばらくして、須賀がコースから戻ってきて下馬した。ヘルメットを脱ぎ、ゴーグルを首に下ろす。汗で額に張り付いた前髪もそのままだ。
「オーナー。前が壁にならない位置、自分で取れました」
「合図より、だいぶ手前でしたね」
「すみません。待っていたら、内に押し込まれる絵が見えたので。あの馬、僕が動いた瞬間にもう分かってくれるんですよ」
須賀の目は謝っている顔じゃなかった。俺がうなずくと、須賀は前髪をかき上げた。
「……最後は僕が判断します。それだけは、これからも変わりません」
「それで構いません」
先生が手元の時計を確かめて、短くうなずいた。
「しまいは、予定より速い。それでいて息は乱れていません。このまま、東京へ向けて仕上げます」
宮田さんは、柵から離れるときに一言だけ言った。
「……脚、残ってたな」
先生がもう一度うなずき、担当さんが馬の手綱を受け取りに走っていく。宮田さんがそう言うなら、先代が見ても同じことを言ったはずだ。
◇
洗い場でアサツユの体を流し終えると、奏が当たり前みたいな顔で前脚の前にしゃがんだ。 蹄壁に手のひらを当てて熱を確かめ、蹄叉を指で押す。球節も同じように撫でてから立ち上がって、担当さんと飼い葉の量の話を始めた。
「この子、ちゃんと食べてるね。カイバ桶、毎回空ですか?」
「空です。舐めて光ってるくらいです」
「なら、皐月賞の疲れはもう抜けてる。蹄も、熱は持ってないです」
担当さんが手帳に何か書き込む。奏も自分のメモ帳に同じことを書いて、そのページを折り目どおりに折り直した。 俺は馬房の前の柱に寄りかかって、その様子を眺めた。研修厩務員の手際より、もう少し先の人間の手つきだった。
アサツユが首を伸ばして、奏の肩口のにおいを嗅ぐ。奏は低い、柔らかい声で「はいはい、もう終わりだよ」と言って、鼻面を撫でた。
担当さんが飼い葉を取りに行って、洗い場に俺と奏だけが残った。
「陸」
「ん」
「ダービーまで、私にもアサツユを診させて」
奏はメモ帳を握ったまま言った。いつもの早口じゃなかった。
「美浦に来られる日は脚と蹄と息を診る。ダービーの週は、休みを取って厩舎に付き添う。診たことは全部書いて、先生と担当さんに渡す。……邪魔にならないように、やるから」
「いや、研修あるだろ。篠宮ファームのほうだって、親父さんが――」
言いかけたところで、奏の目がまっすぐこっちを向いた。
「その父の話をしたいの」
俺は口をつぐんだ。 奏は、アサツユの鼻面にもう一度手を置いた。
「うちの父は、馬を番号で呼ぶでしょ。サクラユキのことも、今でも『18番』って言う。数を打てば、どれかが当たるって」
「私、それが間違いだって言い切れるほど、まだ何も知らない。でも、陸のところは違うでしょ。1頭しかいないのに、その1頭のことを、誰よりも見てる。坂に放して、毎日脚を作って、須賀さんにも先生にも、ちゃんと根拠を渡して」
「……見せられる分は、全部見せてるつもりだよ」
「分かってる。それ以外にも何かあるのも、なんとなく知ってる」
奏はそこで少しだけ笑った。
「だから、ちゃんと横で見たいの。一頭一頭に向き合うやり方を、陸から学びたい」
洗い場の水道から、ぽたりと水が落ちる音がした。 いつもなら、ここで「大げさだろ」とか、「俺から学ぶことなんてゲームの周回効率くらいだ」とか、適当なことを言って逸らしてる。
逸らしかけてやめた。
「……ありがとう。正直、助かる」
奏が目を丸くした。 それから急にアサツユのほうへ向き直って、まったく緩んでいない無口の頬革を締め直し始めた。耳の先が赤い。
「べ、別に、陸のためだけじゃないから。アサツユのためだから」
「分かってる。名付け親だもんな」
「そう。名付け親だから」
アサツユが、奏の手の中で首を振って鼻を鳴らした。締め直された頬革が、さっきより1穴きつい。
「奏、それ、締めすぎだ」
「……知ってる!」
◇
それから4日たった夜、日高の『ひなた牧場』に、奏の軽トラックが入ってきた。 篠宮ファームの研修の帰りに寄った、という奏は、事務所に入るなり俺の許可も取らずに冷蔵庫を開けて、麦茶を2つのコップに注いだ。
「ここ、俺の牧場なんだけど」
「だから何。麦茶は私が先週買ってきたやつだから」
反論の余地がなかった。 宮田さんはもう家に帰っていて、事務所には時計の秒針の音しかない。アサツユのいない馬房のほうから、シズクが寝藁を踏む音がかすかに聞こえた。
奏はコップを1つ俺に押しつけて、外を指さした。
「星、出てるよ」
放牧地の柵の前まで出ると、5月の半ばでも日高の夜はまだ冷たく、空には町で見るのとは桁の違う数の星が散らばっていた。
「……全天マップ、解放済みって感じだな」
「何それ」
「いや、ゲームでさ。最初は真っ暗なマップを歩いて、少しずつ埋めていくやつがあるんだよ。で、全部埋めるとこういう――」
「陸。星を見て最初に出てくる感想がそれなの、ほんとにどうかと思う」
「風情はあるだろ。100時間かけて埋めた地図なんだぞ」
「その100時間で、馬房の掃除できたよね」
ぐうの音も出ない。 奏は柵に両肘をついて、麦茶を一口飲んだ。しばらく、2人とも黙って空を見た。
「ねえ、陸」
「ん」
「陸って、馬を見てるとき、何が見えてるの」
声は軽かった。答えを急かす感じでもなかった。 俺は胸ポケットの万年筆の重さを意識した。今夜は握らない。
「お守りだよ。これ持ってると、ちょっとだけ勘が冴える」
「……なんで、そういう嘘つくかな」
「嘘じゃない。半分は本当だ」
「じゃあ半分は嘘なんだ」
「正直だろ」
奏は小さく吹き出した。それから、空いた手のひらを俺の前に出した。
「じゃあ、本当の半分だけ貸して。ダービーの週、私が美浦に通ってるあいだ」
「……は?」
「冗談。陸の勘は陸が持ってて。私は自分の目で診るから」
奏は手を引っこめて、ジャンパーのポケットからスマホを出した。画面には先生とのやり取りが開いている。
「さっき、先生に頼んだの。ダービーの週、月曜から近くに宿を取って、毎朝付き添わせてくださいって。研修先には、もう休みの届けを出した」
「親父さんには」
「言った。父は『18番の馬主の手伝いか』って。……でも私は、父とは違う道を行く。そのための1週間」
画面の一番下に、先生の返事が見えた。『助かります。担当にも伝えておきます』。 俺は空になったコップを柵の上に置いた。
「ダービー、絶対に見届けるから」
「ああ。いちばん近くで見ててくれ」
奏は麦茶の残りを一息で飲み干し、空のコップを俺のコップの横に並べた。
◇
次の日曜の夜、先生からメッセージが届いた。 『最終追い切りは水曜、須賀が乗ります。出馬投票は木曜で、枠順もその日に出ます。当日の朝に美浦を出て、東京へ運びます』 いよいよ、ダービーウィークだ。 読み終えたところで、もう1通来た。 『テンカザクラの最終追い切りも、同じ水曜の朝だそうです』




