東京競馬場、パドック
人の壁でパドックの柵が見えなかった。 去年の秋、ここで足を止める客はまばらだった。
今日は柵そのものが見えない。 『東京競馬場』の5月最後の日曜日は、皐月賞の中山とも新馬戦の日の東京ともまるで別の場所だ。スタンド下の通路からパドックを囲む段の一番上まで、人の頭が隙間なく詰まり、ざわめきが一つの低い音になって足の裏に響いてくる。
『日本ダービー』の日は、競馬場が呼吸の仕方を変えるらしい。
「オーナー、こっちです。今朝美浦を出て、着いてからもカイバは全部食べてます」
担当さんの声に呼ばれて、俺は人垣を肩で割りながら馬主の立つ一角へ降りていった。 先に着いた宮田さんは柵の内側をじっと見ていて、その横で奏が柵に身を乗り出した。
「陸、遅い。もう周回、始まってる」
「スタンドの下で迷った。人が多すぎて、来た道がもう分からない」
「ダービーだよ。当たり前でしょ。……ほら、モニター」
奏があごで示した先のパドックのモニターには、単勝の人気が並んでいる。 1番人気は『テンカザクラ』で、その次の段に、見慣れた名前が光っている。 ――『アサツユ』、2番人気。
去年の秋、この同じ競馬場で、アサツユは18頭中の18番人気だった。単勝314.7倍の、誰も見向きもしない数字だった。 今は黒い馬体が前を通るたびに、人垣のあちこちからスマホが持ち上がる。
「あれだろ、去年の新馬で最低人気だったやつ」 「日高の、借金まみれの牧場の馬だって」 「単勝、買ったぞ俺は。皐月賞のクビ差で惚れた」 「やめとけって。今年はテンカザクラで鉄板だよ。2回続けて先着してんだから」
……借金の話は余計だ。 心の中でだけ返して、俺はモニターをもう一度見上げた。
「……18番人気の馬が、ダービーで2番人気か」
「なに、他人事みたいに」
「他人事じゃないから、実感がないんだよ」
奏は鼻で笑って、新聞の端で俺の腕を軽くはたいた。それから柵の向こうを歩くアサツユに目を移すと、声の温度が一段下がった。
「馬体重、前走からほとんど変わってない。輸送で減ってない。脚の運びも、水曜の追い切りで見た時と同じ」
「それ、毎朝診てた人間の台詞だな」
「毎朝診てたから」
言い切ったあとで、奏は少しだけ唇を結んだ。月曜からの1週間、奏は朝一番に厩舎へ来て、脚と蹄と息を診て、それをメモに書いて毎朝先生に渡した。その紙の束が、今はアサツユの歩様に詰まっている。
枠の話は、木曜に済んでいる。 木曜の夜、先生から電話があった。短い電話だった。
「オーナー、枠が決まりました。外過ぎず、内過ぎずです」 「じゃあ、言い訳のきかない枠ですね」 「須賀とも話しましたが、どの枠でも乗り方は同じです。それと、向こうの星の馬も水曜にいい時計を出したそうです」
宮田さんは腕を組んだまま、何も言わない。 担当さんに引かれたアサツユが、柵の内側をゆっくり回っていく。首は低く、耳はときどき向きを変えて、人の声の方角を確かめているのに、18頭の中にいても歩幅が乱れない。周りの騒がしさを、自分とは関係ない天気くらいに思っている顔だった。
◇
周回が3周目に入ったところで、俺は胸ポケットから万年筆を出して、手のひらに握り込んだ。 祖父の万年筆の軸は、日差しの中でもひんやりしている。 視界の端に見慣れた枠が浮かんだ。
【アサツユ(牡・3歳)】 【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:A+】 【隠れ適性:中距離向き】 【隠れ適性:良馬場巧者】 【隠れ適性:自在】
五つの段階は皐月賞のパドックで見たものと一つも変わっていない。上がってもいないし、下がってもいない。減っていないことが、今日はいちばんありがたかった。 問題は下の3行だ。
東京の芝2400メートル。直線525.9メートル。 中山の2000メートルより、直線はずっと長い。皐月賞で壁に詰まった分を、ここなら取り返せる。 要するに、長く脚を使える馬の舞台だ。うちの馬だ。
場内の掲示には芝の馬場状態が「良」と出ている。 昨日までの晴れが続いて、芝は乾いている。【良馬場巧者】の行は、雨の一滴でも降れば意味が薄くなるはずだった。それが今日は空に雲一つない。
2400メートル、良馬場、長い直線。 ……ただ、条件は向こうにも同じだけ揃っている。テンカザクラの表示にも、同じ2行があった。 違いが出るとすれば、スタミナのA+とAの差と、3行目だ。 向こうは【先行】、こっちは【自在】。それを須賀がどう使うかだ。
万年筆を胸ポケットに戻すと、枠はすっと消えた。 顔を上げると、奏が横目でこっちを見た。何か言いかけた気配があって、でも結局、何も聞かずに柵の向こうへ目を戻した。
◇
係員の声がパドックに通って、周回していた18頭が足を止めた。 騎手たちが一斉にパドックへ出てくる。勝負服の色が芝の上に散らばって、人垣の声がひときわ高くなった。
須賀はまっすぐこっちへ歩いてきた。勝負服に包まれた肩はいつもより少し細く見えて、それでいて足取りに迷いがない。
「オーナー。宮田さん、篠宮さんも」
「須賀さん。……どうですか、今日の雰囲気は」
「すごいですね。デビューの頃は、ここに立つ自分が想像できませんでした」
須賀はそう言いながら、柵の向こうのアサツユに目をやった。
「でも、あいつが落ち着いてるので、僕も落ち着いてます」
「それは何よりです」
俺は掲示に出ている「良」の文字を指で示した。
「馬場は乾いてます。どの枠でも、内で待たずに取りに行ってください」
「皐月賞の時みたいに、壁の後ろで待つのはなし、ですね」
「なしです」
須賀は少しだけ口の端を上げた。
「方針は、もう体に入ってます。あとは、馬の手応えと相談して決めます。そこだけは、譲れません」
……騎手の顔だ。
「譲らなくていいです。須賀さんが決めたことなら、俺は文句を言わない」
須賀が短くうなずいたとき、宮田さんが一歩、前へ出た。 柵の上に置いた節くれだった手を離し、須賀の目を見て低い声で言った。
「……頼んだぞ」
それだけだった。 須賀は一拍、言葉をなくしたように宮田さんを見て、それから深く頭を下げた。
「はい」
担当さんがアサツユを引いてくる。須賀が脚を上げられて鞍に収まると、黒い馬体がほんの少し背を伸ばした。 アサツユの耳が、くるりと須賀のほうへ回る。乗っている人間が誰か分かっている耳だった。
「行ってきます」
須賀の声を残して、アサツユは本馬場への地下馬道へ消えていった。 奏が、柵に置いた手を離して小さく息を吐いた。
「……行っちゃった」
「ああ。あとは、見るだけだ」
◇
スタンドの前に出ると、音の量がまた一段上がった。 ゴール前のスタンドの前列から最上段の屋根の下まで、人で埋まっている。本馬場入場が始まり、馬が馬番順に芝へ出てくるたびに、波のような拍手が起きた。
アサツユが芝に出た瞬間、波が明らかに大きくなった。 返し馬に入った黒い馬体が、緑の芝の上を軽く駆けていく。須賀が手綱を少し緩めると、アサツユは首を伸ばして、気持ちよさそうに大きな完歩で走った。
スタンドの前を通り過ぎるとき、どこかで「アサツユ!」と叫ぶ声がした。続けてもう一つ、さらに別の方向からも。
「314倍の時から買ってんだぞ! アサツユ!」
知らない人間が、うちの馬の名前を呼んでいる。 日高の小さな牧場の、借金まみれだった馬房から出てきた馬の名前を、何万人もの人が知っている。
……見てろよ、先代。 あんたの馬房から出た馬が、今、ダービーの返し馬を走ってる。
「日向くん」
すぐ横から聞き慣れた丁寧な声がした。 振り向くと、桜庭が立っている。三つ揃いのスーツの襟もとはきちんと締まっていて、カフスが日差しを跳ね返している。 人の流れのいちばん端にいるのは、たぶん偶然じゃない。スタンドの手すりの向こう、返し馬を終えてスタート地点へ向かう馬たちの通り道に、自分の影がかからないよう気を配っているように見えた。
「……桜庭さん」
「ここにいると思った。2番人気、おめでとう。サンプルにしては出来すぎだね」
「どうも。出来がいいのは馬のほうなんで」
「知っているよ。君は、馬の見える場所から動かないから」
桜庭はそれだけ言って、芝の上に目をやった。 ちょうどテンカザクラが返し馬に出ていくところだった。額の小さな星が、日差しの中で白く光る。締まった馬体で、肩の筋肉の動きまでここから見て取れた。 テンカザクラが駆け出すと、スタンドの歓声はさらに一段大きくなった。
すみれステークスでハナ差。皐月賞でクビ差。 2回続けて、アサツユの前にいたのはあの星の馬だった。 皐月賞のあとに桜庭から聞いた言葉が、まだ耳の奥に残っている。2回続けて前にいたのは僕の馬だ――あの時、俺は何も言い返せなかった。
しばらく、2人とも黙って芝を見た。
「日向くん」
桜庭が、こっちを向いた。 その目には、いつもの品定めするような色がなかった。見下ろすでも、見上げるでもない、真正面の視線だった。
「今日で、決着をつけよう」
挑発の言葉じゃなかった。サンプルだとか出来すぎだとか、さっきまで付いていた飾りが一つもない。 この男が俺に向けて初めて口にした、混ぜもののない言葉だった。
俺は桜庭の目をまっすぐ見返した。
「――望むところだ」
桜庭の口元が、ほんのわずかに緩んだ。笑ったのかどうかは分からない。 それ以上は何も言わず、桜庭は軽く会釈をして、自分の陣営が固まっているほうへ歩いていった。俺も背を向けて、宮田さんと奏が待つ手すりのほうへ戻った。
「……今の人、桜庭さんでしょ」
「ライバルの馬主」
「知ってる。そうじゃなくて、今の顔。陸、笑ってた」
奏はそれ以上聞かなかった。宮田さんは、ゲートのほうを見たまま動かない。
◇
スタンド前の直線、ゴール板の先で、18頭が輪乗りを始めた。 ここからでもスタート地点は見える。黒い馬体が輪の外側をゆっくり回っている。鞍の上の須賀の勝負服の色まで分かった。
スタンドじゅうの声が、少しずつ引いていく。 誰かが唾を飲み込む音、誰かが新聞を握りしめる音、隣の奏の呼吸の音まで聞こえるほどに、場内が静まっていく。
実況の声も、場内の声も、ふっと途切れた。
「陸、手」
奏に言われて見下ろすと、俺の右手が手すりの上で固い拳になっていた。 指を一本ずつほどく。鉄の手すりに、手のひらの汗の跡が残った。
――ファンファーレが、鳴る。




