日本ダービー
ファンファーレの最後の1音が消えても、スタンドは息をひそめたままだった。 スタンド前のゲートに、18頭が1頭ずつ収まっていく。内から10番目に、白と青の勝負服が見えた。
スタートの瞬間、スタンドの空気がぶつんと弾けた。
「揃ったスタートです! 各馬横一線、まずは7番が先手を主張します!」
18頭が芝を掴む音が腹の底まで届く。ゲート前で固まっていた息を、俺はようやく吐いた。
7番が行ったか。あれは逃げる気満々だな。
隣で奏が手すりを握ったまま前のめりになる。宮田さんは腕を組んだ姿勢のまま、まばたき一つしない。
「アサツユは出た、出た! 10番好スタートです、無理せず中団へ!」
黒い体が馬群の真ん中あたりにすっと収まっていく。引っかかる素振りも、行きたがる素振りもない。あれだけのスタートを切っておいて、あっさり折り合っている。
……うわ、あの位置に入ったのか。内の8番と9番の後ろ、ちょうど12番手くらいだ。
「テンカザクラは12番、外から好位に上がっていきます。前から4番手、外の3列目です」
額の星が、前の集団の外側で光った。須賀の白と青は馬群の真ん中で、まだ動かない。動かないでくれ、今は。
「さあ各馬、1コーナーへ入ります。先頭は7番、2番手に5番、そして外から12番テンカザクラが4番手、10番アサツユは中団の12番手あたりを追走しています」
『アサツユ』は首を低く保ったまま、前の背中を追っているだけだ。それでいい。ここからだ。ここから、あの黒いのが本当の顔をする。
向正面に入って、馬群はゆるやかに縦へ伸びた。 1000メートルの標識を過ぎるところで、実況の声が一段高くなった。
「1000メートルを通過、先頭7番、タイムは1分1秒2! 平均的な流れです。2番手に5番、3番手に内から3番、4番手に外から12番テンカザクラ!」
1分1秒2。2400メートルなら平均的な流れだ。前も簡単にはばてない。
「10番アサツユ、中団を追走。まだ動きません、手応えは楽です!」
楽、なのは見れば分かる。首が低い。鞍の上で須賀の肩が動いていない。あれは、まだ何もしていない顔だ。
……え、ちょっと待った。上がってる?
黒い体が、馬群の中ほどで前の馬の背中の隙間へするりと入っていく。
「おいおい、もう上がっていくのかよ。まだ向正面だぞ。折り合いは、ついてるのか?」
「アサツユ、位置を上げます。前から8番手まで上がってきました! 相変わらず手応えは楽!」
楽で、上がっている。これが自在か。馬が行ける場所を見つけて、須賀がそれを止めなかった。
「12番テンカザクラ、外の4番手のままこちらも楽です。7番のペースに付き合わず、自分のリズムを守っています」
額の星は、まだ余裕の顔で外を回っている。あっちも、動かない。動かないまま同じペースで、こっちより前にいる。
前から4番手と8番手。まだ4頭ぶん、星の馬のほうが前にいる。
3コーナーの大ケヤキの向こうで、前の集団がざわりと動いた。
「3コーナーを回ります! 先頭は7番がまだ守る、しかし後続が動いてきました!」
大ケヤキを過ぎたあたりで黒い体がぐっと沈み込む。須賀がわずかに手綱を抑えると、アサツユはそれに逆らわず、外目の進路を探しながら馬群の背中をかすめるように進んでいく。
「もう6番手かよ!? 脚、どれだけ残ってんだ!!」
前が開いた一瞬の隙を突いて、アサツユが前から6番手まで浮上する。だが外ではもっと鋭い動きが光っていた。
「12番テンカザクラ外から進出! 4番手から2番手へ並びかけます!」
額の星が2番手の5番の外から、先頭の7番へ並びに行く。完全に自分のリズムだ。7番の脚色はもう鈍っている。代わりに『テンカザクラ』の手応えは満ち満ちていた。
「あっちはもう先頭をうかがってやがる!? 3コーナーでもう仕掛けるのかよ!」
「4コーナーを回って最後の直線! 7番が後退しテンカザクラが先頭に並びかける!」
先頭だった7番がガクンと失速する。その外からテンカザクラが力強く交わしていく。アサツユは前の馬の壁を避けて、須賀が馬を外へ外へと持ち出していく。
「外だ外!! 前がふさがる前に出してくれ!!」
「テンカザクラ先頭に立つ! 外から10番アサツユ、5馬身ほど後ろです!」
直線を向いたアサツユの前に、星の馬の尻尾がはるか先で揺れているのが見えた。
「離れてるじゃねえか……!? ここから届くのかよ!!」
「さあ最後の直線、残り400、ここからは上り坂です! 先頭は12番テンカザクラ、外から10番アサツユが上がってきます!」
坂だ、ここからが本当の勝負どころだ。星の馬の尻尾がまだ前にある。でも須賀の手が動いた、あれはもう一段ギアを入れる合図だ。
「アサツユ外から加速! 差を詰めます、テンカザクラ必死に逃げる!」
化ける、ここで化けるんだ。坂で止まる馬と、坂で伸びる馬の差が今出る。
「残り300、差2馬身! アサツユの脚色が違う、テンカザクラの手応えが怪しくなってきた!」
見えた、星の馬の耳が後ろに倒れた。脚が上がってる。こっちは首を低くしたまま、まだ沈む余地を残している。ゲームで言うなら、ラスボスのHPゲージが赤く染まったところだ。
「アサツユ! いけっ、アサツユ!」
奏が手すりに身を乗り出して叫んだ。声が掠れている。宮田さんは腕を組んだまま、組んだ指だけが白くなっていた。
「残り200、差1馬身! アサツユ外から2番手! テンカザクラ先頭を守る!」
届くぞ、この脚なら届く。
ここからが、ほんとうの追い比べだった。
まだ離れてるのかよ――いや、もうそんなもんじゃねぇ、あの首がさらに下がってる、沈めてる、まだ沈められるんだこの馬!!
残り200を過ぎて、テンカザクラの脚が一瞬重くなった。その隙を突いて須賀の手が動く。手綱を押し続ける、ただ押し続ける。鞭は1回だけ肩に見せた――打たない。それでも黒い体がもう一段沈み込む。
「アサツユ外から差を詰めます! 残り150、テンカザクラが再び伸びる!」
きたかよ――!? 星の馬が二の脚で食らいついてきやがった!?
テンカザクラの耳が後ろに倒れたまま、もう一度肩の筋肉が盛り上がる。先頭を譲るつもりが毛頭ない顔だ。額の星が汗を弾いて、日差しの中で白く光る。だがこっちは首がまだ下がる余地を残してやがる。
「残り100! テンカザクラ先頭! アサツユが外から半馬身まで迫りました!」
あとちょっとじゃねえか――っておい、もうそこまで詰めてんのかよ!! ラスボスの残りゲージ、あと少しじゃねぇか!!
テンカザクラの完歩が、ここへ来て半歩縮んだ。その半歩ぶん、アサツユの鼻先がぐっと前へ出る。黒い首が芝を削るように低く、さらに低く伸びて――
アサツユの鼻先が、星の馬の肩口に並んだ。
「――並んだ、並んだ! 並んだぞ――!」
「アサツユ、最後の1完歩! 伸びた、伸びた! テンカザクラも凌いでいる! 際どい! 際どいです! どっちだ! どっちが先だ!」
2頭の影が、ゴール板の白線の上で重なった。
俺は手すりの上で目を見開いたまま、息が止まっていた。どちらが先に入ったか、自分の目では分からなかった。黒い首と星の額が、同じ一瞬に線を越えたように見えた。いや、そうじゃないかもしれない。分からない。何も分からない。
「……嘘だろ、まじか」
「……これ、どうなってんだよ」
ターフビジョンにゴールの瞬間が映し出された。スロー再生で、2頭の鼻先が白線に触れる1フレームが止まる。すぐにまた再生される。止まる。再生される。まるで映像自体が迷っているみたいだった。
奏が両手で口を押さえている。指の間から息が漏れる音だけが聞こえた。
宮田さんが組んでいた腕を、ゆっくりとほどいた。下ろした手が、一度だけ握り直される。
着順を示す表示板に、「写真判定」の文字が点滅し始めた。
何万人もいる競馬場が、息を止めた。
隣の客の声が耳に届く。
「10番か12番か」 「どっちが先だった」 「分かんねえな」
ざわめきが波のように広がって引いていく。でもこのスタンドの前の手すりだけは、まるで空気が凪いだみたいに動かない。
俺は手すりを握っている。万年筆には触らない。今はもう目で見たものだけを信じるしかない。
頼む――あの黒いのが先だったはずなんだ。
表示板の点滅が、止まった。
1着の欄に「10」が灯り、2着の欄に「12」、着差の欄に「ハナ」と出た。
「ハナ差です! アサツユ、日本ダービー制覇!」
実況の声がスタンドを揺らした。
勝ち時計は2分23秒8。馬場状態は良。
奏が何かを言おうとして、声にならなかった。
着順の数字が灯ったその瞬間、スタンドが爆発した。
「10番だ! アサツユだぞ!」 「ツキノシズクの子だぞ! 母親は1400以下しか走ってないって言われてたのに!」 「日高の借金まみれの牧場だってバカにされてた馬が!」 「2400で勝ちやがった! まじかよ!」
さっきまで好き勝手言ってた連中が手のひらを返して叫んでいる。でも今はそれが心地よかった。
「父カムイボシ! 母ツキノシズク! 日高の小さな牧場が日本ダービー馬を送り出しました!」
実況のコールがスタンドの歓声をさらに押し上げる。
シズク。お前は14戦すべて1400メートル以下で走って、「外れ血統」の烙印を押された。でもお前の腹から出た子が、東京の2400を制したんだよ。血の壁なんてぶっ壊して見せたんだ!
芝の上で、須賀が馬上から右手の拳を高く突き上げている。
白に青の二本輪の勝負服の袖が風にはためいて、その拳は一番高い場所で光っていた。
須賀の拳が下がるよりも早く、横から体がぶつかってきた。奏だ。
「勝った……勝ったよ、陸!」
泣きながら笑った顔が目の前で歪んでいる。普段のはきはきした声はどこへやら、鼻水と涙でぐしゃぐしゃだ。
俺は体が強張ったまま動けないでいたけれど、奏の肩を掴む手だけは勝手に動いた。
そのすぐ隣で、背中に重い衝撃が走った。宮田さんだ。
無骨な腕が俺の首に回り、そのまま力任せに抱きしめられる。肋骨がきしむほど痛い。でも、その痛みが今の俺には一番しっくりくる現実だった。
宮田さんは何も言わない。ただ俺の背中を一度だけ強く叩いた。低く鼻をすする音が耳元で聞こえた。
周りの歓声が鼓膜を震わせている。さっきまで冷えていた体の芯から、熱いものがこみ上げてきた。
喉の奥で何かが震えて、ようやく音になった。
「……勝ったな」
芝の上では、黒い馬体がゆっくりとスタンド前へ戻ってくる。
――やった。俺たちの馬が、日本一になった。




