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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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33/60

ゴール板の向こう側




 ウイナーズサークルには、カメラの列ができていた。


 フラッシュが絶え間なく明滅して、目の前が白い箱の中にいるみたいだ。


 ……いや、待て。  本当に勝ったのか、これ。


 ハナ差。ハナって何だ。馬の鼻一つ分だ。それだけで日本一。  いや、分かんね。今の俺には何も分からねぇ。  とりあえず、担当さんに譲られたアサツユの引き手綱を握っている。たぶん、それが現在地だ。


「オーナー」


 耳元で低い声がした。宮田さんだ。  腕組みを解いて、俺の手綱を握る手の上に自分の手を添えた。


「手綱を離すな」


「……はい」


「陸、顔上がってる?」


 奏が手綱の向こうから覗き込んできた。  目はまだ赤い。鼻も赤い。


「……たぶん」


 検量を終えて再び跨った須賀が馬上から声を落とした。  勝負服の白に青の二本輪が、午後の光を弾いている。  顔は少し赤らんでいるが、目は静かだった。乗っている馬の背中で、一番落ち着いているのはこの騎手だ。


「最後は僕が判断しました」


 そう言って、須賀はわずかに口元を緩めた。  化けたな、お前ら。  いや、化けたのは最初からか。


「……ありがとう、須賀さん」


「オーナー」


 向こう側から、白いシャツにネクタイの先生が歩み寄ってきた。  先生は手綱の列に並んで、俺の隣に立った。


「馬は、坂で決まります。……オーナーが言ったとおりでした」


「……先代も、見ていたでしょう」


 返事が、一拍遅れた。


「……そうですね」


「日向オーナー、こちらでお願いします」


 カメラマンが手を振った。  アサツユが少しだけ耳を動かした。  カメラの列が一斉にシャッターを切った。


「いや、本当に勝ったのかこれ」


 口から勝手に声が出た。  奏が横で吹き出した。宮田さんが腕を組み直した。須賀が馬上で肩を震わせた。  ……笑いやがったな、お前ら。


 口取りが終わると、表彰式が始まった。


 須賀が馬から降りて、勝負服のまま俺の隣に並んだ。小柄な体だ。この背中があの坂で一番大きな仕事をしたのかと思うと、少しおかしい。  先生がネクタイを直して須賀の隣に立つ。担当さんが帽子を脱いで一礼した。宮田さんは一番端で腕を組み、動かなかった。


 プレゼンターたちが前に進み出て、白い手袋の手を差し出した。


「第93回日本ダービー、優勝。日向陸オーナー」


 手のひらに、トロフィーが落ちてきた。


 ――重い。


 思わず腕が下がりそうになる。思っていた3倍は重い。小型の金庫を抱えているみたいだ。


 スタンドから拍手が降ってくる。地鳴りのように、一段、また一段と大きくなった。この拍手は、あの黒い馬のものだ。


 俺はトロフィーを持ち上げた。重い。重いままでいい。  スタンドの拍手が、いよいよ大きくなった。


 ◇


 表彰式が終わると、検量室前の通路に出た。


 勝ったんだな、俺たち。


「オーナー」


 呼ばれて振り返ると、須賀が勝負服のまま立っていた。  須賀は直立していた。  何か言おうとして、一度口を閉じた。それからもう一度、開いた。


「オーナー。一つ、言わせてください」


「……何ですか」


「最初は半信半疑でした」


 ……ああ、そりゃそうだ。


「でも、あなたの目は本物でした」


 は?


「オーナーの、走り方を見る目は本物です。僕が証明します」


 須賀が腰を折った。  勝負服のまま、深く、頭を下げた。


「ありがとうございました。アサツユに乗せていただいて、本当に良かったです」


 通路の空気が止まった。  何か言わなきゃ。でも喉の奥に言葉が詰まっている。


 いや、照れているわけじゃない。違う。照れてなどいない。


「陸、顔赤いよ」


 奏が横から囁いた。にやにやしている。


「……赤くない」


「……須賀さん」


「はい」


「……ありがとう」


 それしか出てこなかった。  須賀は一瞬目を細めて、それから小さくうなずいた。それだけで、十分だったみたいだ。


 ……俺が持っているのは万年筆だ。それは、言えない。


 須賀が控室へ戻っていくと、入れ替わりに記者の人垣ができた。


 地元紙、全国紙、競馬専門誌。マイクがどこからか伸びてきて、俺の顔の周りを埋め尽くしている。


「日向オーナー、お一言お願いします!」


「日高の小さな牧場からダービー馬が、という声もありますが」


 地元紙の記者が、メモ帳を胸に当てながら聞いた。  それが今、東京の芝2400メートルを制した馬を出した。  言われてみると、確かにすごい。言われるまで分かっていなかった。


「勝因は何だとお考えですか?」


 全国紙の記者が、先を取りに行くように問い直した。  勝因。勝因か。


「走り方を見ていただけです」


 口から出たのは、それだけだった。  記者が一瞬、ペンを止めた。もう少しあるだろ、という顔をしている。


 最前列で、付箋だらけの手帳が上がった。


「日向オーナー。『長い距離が走れないかどうかは、まだ誰も試していません』と、おっしゃいましたね。試した結果は」


「……試した結果が、今日です」


 人垣が小さく笑った。付箋の記者だけは笑わずに、手帳に1行書き足した。


 宮田さんが斜め後ろに立っていた。  いつの間にかそこにいた。無言で、腕を組んでいる。  記者たちが一斉に振り返って、それからすぐに前を向き直した。  ……分かりやすい反応だ。66歳の無骨な腕組みは、それだけで取材拒否の看板になる。


 記者たちがメモを確認しながら、ゆっくりと散っていく。  最後の1人が背中を向けたとき、ようやく肩から力が抜けた。


 勝ったのに、一番喋っていないのは俺だった。  まあ、いい。喋るのは得意じゃない。  走らせるのは、アサツユがやってくれた。


 記者がいなくなったあとの通路で、奏が声を落とした。


「陸。賞金、計算した?」


「してない。したら手が震える」


「1着は3億円」


「3億」


 ……借金800万の、37倍以上だ。  トロフィーより重い数字を、俺は初めて聞いた。


「で、馬主の手取りは約8割」


「2億4000万」


 口から勝手に数字が出た。  おい、俺の口。勝手に計算するな。でも合ってる。


「カムイボシ牧場に約束の1割を渡すよね」


「ああ。2400万」


「残りは2億1600万。入金はそのうちだね」


 2億1600万円。


 最初に浮かんだのは、宮田さんの給料だった。先代の頃の額に戻せる。  次に浮かんだのは、空いている馬房の修理だった。金がないから、知らないふりをしてきた場所だ。それが、直せる。  最後に浮かんだのは、2頭目の繁殖牝馬だった。ひなた牧場にいるのはシズク1頭だけだ。もう1頭、欲しい。


「……陸、いま何考えてたの」


「宮田さんの給料を先代の頃に戻す。馬房を直す。繁殖牝馬をもう1頭」


「うん」


「あと、三上さんの焼肉は俺の奢りだ」


 奏が目を丸くして、それから破顔した。


「順番が全部陸だね。焼肉が最後なの、ほんとに陸」


「自分のことは後でいい」


 たぶん、奏の言う通りだ。


 宮田さんは、聞こえないふりをしている。  絶対に聞こえている。それが宮田さんという人間だ。


「……帰るぞ」


「はい」


 宮田さんはそれだけ言って、通路の奥へ歩き出した。  その背中の肩が、少しだけ上がっている気がした。


 帰りの車に乗り込んだところで、スマートフォンが震えた。画面には「三上さん」。


「オーナー! 見たぞ見たぞ! 公民館で町内会全員で見てた!」


「ありがとうございます、三上さん」


「俺の100円、当たったぞ! 町じゅうに言っといた! 焼肉は日曜の12時だ、忘れるなよ!」


「分かってます。俺の奢りですよね」


「おう! これで借金も楽になるな!」


 ……三上さんは、完済したことをまだ知らない。


「……はい。まあ」


 言いそびれた。電話の向こうの豪快な笑い声が、今日は少しだけ眩しい。


 ◇


 ダービーの翌日の夜、玲司は『桜庭ステーブル』の厩舎に寄ってから、本社棟の自分の部屋に上がった。  テンカザクラは昨夜のうちに、放牧で戻ってきている。馬房の照明は、通路から少し絞ってきた。脚元に熱はない。食い込みもいい。額の星だけが、暗がりでもよく見えた。


 机の上のスマートフォンに、父の番号を呼び出す。  指の付け根に、スタンドの手すりを握りしめた跡がまだ赤く残っていた。


 呼び出し音が2回鳴って、向こうが取った。


「……玲司か」


「はい。ご覧になったとおりです。テンカザクラは2着でした。ハナ差です」


「見ていた」


 父はそれだけ言った。  沈黙が回線の中を流れていく。玲司は背筋を伸ばした。部屋に誰がいるわけでもない。


「僕の負けです」


 声は低かった。けれど、掠れなかった。


「でも次は必ず勝ちます」


 父は答えなかった。息を吸う音だけがした。


「……何を見ていた」


 数字を聞いているのではない、と玲司には分かった。いつもの「当然だ」とは、問いの向きが違う。


「馬を、です。……数字には出ていない脚でした」


 間が、あった。


「……そうか」


 もう一度、間があった。


「次は勝て」


 それだけ言って、通話は向こうから切れた。  玲司は暗くなった画面を見下ろし、カフスを外して机に置いた。ネクタイを緩める。窓に映った自分の顔は、思っていたほど悪くなかった。


 連絡先の一覧を開く。


 『ひなた牧場』


 親指を置いて、押した。


 呼び出し音が鳴りはじめた。


 ◇


 その夜、日高に戻ったひなた牧場の事務所で、固定電話が鳴った。  受話器を取ると、少しの間があった。


 誰だ、この時間に。


「……日向か」


 受話器の向こうから低い声が聞こえた。呼び捨てだ。でも今夜は、それが挑発に聞こえなかった。


 ……桜庭さんだ。


 ハナ差で負けた相手からの電話だ。


「はい」


 低く返した。声が出た。それだけで十分だ。


「……昨日はおめでとう」


 玲司の声は丁寧だった。いつもの慇懃無礼な色が、今夜はどこにもない。


 こいつ風邪でも引いたか。


 いや。ハナ差で負けた人間の声は、不思議と素直に聞こえるものだ。それが桜庭ステーブルの御曹司だとしても。


「ありがとうございます、桜庭さん」


「……日向」


「次のシーズンも、逃げるなよ」


 その声は低かった。けれど昨日、決着をつけようと言ったときの熱さとは違った。


 ……あの時は「今日で、決着をつけよう」だったもんな。


 それが「次のシーズン」になって帰ってきた。つまり、続きがあるってことだ。  俺は受話器を握ったまま、少しだけ口の端が上がった。


「望むところだ」


 受話器の向こうで、玲司が小さく息を吐いた。  笑ったのか。それとも笑おうとしてやめたのか。


 短い沈黙があって、通話は玲司のほうから切れた。


 プツン。


 逃げるなよ、か。


 俺は受話器をゆっくり置いた。


 椅子に体を預けて、窓の外を見る。


 夜の牧場は黒い。外灯の白い円だけが、馬房の壁に影を落としている。


 桜庭からの便りは、いつも一行だ。


 牧場に、桜の便りが届いた。

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