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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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34/55

継いだのは、牧場だけじゃなかった




 ダービーから3週間がたった。


 牧場は、元の静けさに戻っていた。


 朝の飼い付けを宮田さんと並んで済ませる。アサツユは柵ひとつ隔てたシズクの隣の区画で草を食んでいる。母と子が柵越しにならんで尻を向けているだけの光景だが、ダービー馬も元はといえばこの風景の延長にすぎない。


「……腹、張ってねぇか」


「いえ、食い込みはいつも通りです」


「ん」


 宮田さんはそれだけ言ってバケツを下げた。


 取材の電話も鳴らなくなった。ニュースになりたい牧場の話はとっくに火が消えていて、残ったのは小さな牧場の、いつも通りの朝だけだ。


 事務所の隣にある爺さんの部屋の前に立った。  入金を待つだけの2億のことを考えても埒が明かない。なら、ずっと手をつけられなかったここを片づけるしかない。


 引き戸を開ける。匂いはもう消えていた。押し入れのふすまに手をかける。触ると埃が指に乗った。爺さんが死んで、丸4年になる。


 ふすまを開けると、古い競馬新聞の束と毛布が出てきた。手帳も3冊。どれも表紙に馬名が走り書きされている。


 机に向かう。引き出しを上から順番に引いていく。飼い付けのメモ、牧草の領収書、煙草の空き箱。


 爺さんの暮らしって、こんなもんだったのか。歯ブラシは1本しかなかったし、着替えもそれほどなかったはずだ。万年筆のインク瓶が、引き出しの隅に転がっていた。爺さんの匂いの正体は、たぶんこのインクだった。


 机のいちばん下の引き出しの奥に、細長い木の箱が残っていた。


 箱を取り出して、膝の上に置いた。


 蓋を開ける。


 ……空だ。


 中は空っぽだった。布張りの底が敷いてあるだけ。でも、その布の表面に何かの形のくぼみがついている。


 細長い、角ばんだ窪み。見覚えがあるというか、今の俺のパーカーのポケットの中にそれと同じ形のものが入っているというか。


 俺はポケットに手を入れた。万年筆が出てくる。


 爺さんの遺品。俺がずっと「お守り」と言って持ち歩いている、あれだ。


 万年筆をくぼみに合わせてみた。


 ぴったり、収まった。


 ……これの箱だったのか。


 当たり前っちゃあ当たり前なんだが、改めて万年筆をそこに置くと、なんだか箱のほうが「やっと帰ってきた」という顔をしている気がした。いや、箱に顔はない。箱に顔はないが、4年間誰も開けなかった箱のくぼみに万年筆が戻ったのは、悪くない光景だった。


 万年筆を取り出して、立ち上がろうとした。


 そのとき、布の底が少し浮いているのに気づいた。


 箱の端っこのあたり、布がわずかにめくれている。くぼみの布だけじゃない。底板全体に布が張ってあるんだが、その布の端が、経年で剥がれかけている。


 指を差し込んだ。爪で少しだけ持ち上げる。


 布の下から、折りたたまれた紙が覗いた。1枚。古い紙だ。罫線が引いてある。日記帳のページのようにも見える。文字が書いてあるのが、透けて見えた。


 俺は、その紙を開いた。


 黄ばんだ罫線の上に、爺さんの癖のある字が一行だけ、斜めに走っていた。


  わしにも、視えていた時期があった。


 ……視えていた。


 視えていた、のか。爺さんも。


 俺はその一行を3回読み返した。4回目に読み返したとき、ようやく「時期があった」という部分が喉の奥に引っかかった。


 時期があった。過去形だ。


 爺さんの字は斜めに走っている。いつもそうだった。急いでいるのか、それとも手が勝手に動くのを止められなかったのか。万年筆のインクは少し滲んでいて、線の終わりがふっと途切れている。途中で筆を止めたのか、それとも書き足そうとしてやめたのか。


 紙のほかの行には何もない。裏も返した。白いだけだ。


 爺さんは、この一行だけを書いて、紙を折って、箱の底に隠した。


 ……視えていた時期が、あった。


 じゃあ、なくなった時期もあったってことだ。


 いつから、見えなくなったんだ。


 宮田さんの言葉が浮かんだ。「先代も、馬に名前付けた日は馬房の前でそれを握ってた」。それ、っていうのはこの万年筆だ。名前を付ける日に、握っていた。見えていたから、握っていたのか。それとも、握れば見えると思って、握っていたのか。


 どっちだ。


 「若ぇ頃に誰かにもらった」とも宮田さんは言っていた。爺さんが若い頃に、誰かから。


 誰だ。


 ……分からない。


 紙には誰の名前も書いていない。書いてあるのは、爺さんの字で、爺さんの言葉だけだ。


 爺さんはこの万年筆を握って馬を見ていた。それがいつまで続いたのか、いつ途切れたのか。途切れたあとも握っていたのか。それとも、もう握らなくなったのか。


 答えは、どこにもない。


 俺の手の中で万年筆が少し温まっている。爺さんの体温が残っているわけじゃない。俺の手が温かいだけだ。


 いつか、ちゃんと知りたい。


 そう思った。ただ、思った。


 紙を折り直して、箱の底の布の下に戻す。布の端を指で押さえて、元の位置に近いところまで戻す。蓋を閉めて、引き出しの奥にしまった。引き出しを、ゆっくり押す。


 俺は万年筆をパーカーのポケットの奥へ大事にしまった。


 ◇


 夕方、軽トラックのエンジン音が牧場の坂を上がってきた。


 軽トラのドアがバタムと閉まる音が聞こえた。  エンジンの熱で歪んだ空気の向こうから、奏がノートの束を脇に抱えて歩いてくる。研修先からそのまま来たらしい。上着のまま来たのか、と思ったがよく見れば袖を捲くっている。日焼けした腕に夕日がべったり張り付いている。


「お疲れ。寄ってくれたのか」


「うん。今研修終わったとこ。陸こそ、何してんの」


「片付け」


「爺さんの部屋?」


「ああ」


 それ以上は聞かなかった。奏はそういう奴だ。詮索はしない。ただ柵に肘をついて、放牧地のほうを向いた。


「アサツユ、元気そう」


 黒い背中が夕日のほうを向いて、柵越しにシズクの隣でゆっくり首を振っている。草を食むリズムが揃っている。あの並びを見ると、ダービー馬とか借金とかいう言葉がすごく遠い場所にあるみたいだ。


「お」


 奏の声が上がった。アサツユが顔を上げて、こっちへ歩いてきた。ゆっくり、ゆっくり。芝を踏む蹄の音が近くなる。  柵の前まで来て、奏の帽子のつばを鼻でつついた。一度だけ、ぽこんと。


「……今の、何?」


「挨拶だろ」


「いや、分かるけど」


 奏が帽子を押さえて、少し笑った。夕日が一つ結びの後ろを縁取りしている。アサツユはもう背を向けて、柵際へ戻っていった。つついたのはご挨拶、という顔だった。


「秋になったら先生のとこへ戻す」


「うん、そうだね。放牧はもう少し。秋の始動は……どこになるかな」


「そこは先生が決める。でも、来年の話は俺がする」


「来年?」


「古馬になったら、海外も行かせたい」


 奏の手が止まった。ノートの束を抱え直した腕が、一瞬だけ強張った。


「……海外」


「ああ」


「陸、それマジで言ってるの」


「マジだ」


 沈黙が一つ。風が牧草の上を撫でていった。奏は俺の横顔を見ていた。  それから、ふっと力を抜いたように笑った。


「陸ならそう言うと思った」


「次の相手、もう考え始めてる」


 俺は柵に肘をついたまま、放牧地のシズクを見た。


 柵越しにシズクの隣で、アサツユが首を振っている。


「もう? ダービー終わって3週間だよ」


「種付けは来年の春だろ。今から考えておかないと」


 奏が呆れたような顔をして、でも楽しそうに鼻を鳴らした。


「相手は決まったの?」


「まだ」


 奏が柵に肘をついて、俺の隣に並んだ。肩が触れるか触れないかの距離。夕日が二人分の影を芝の上に伸ばしている。


「生まれてくるのが牝馬だったら」


「牝馬?」


「桜花賞、オークス、秋華賞。三つ全部行きたい」


 奏の手が止まった。


「……陸、今アサツユがやっとダービー勝ったとこだよ」


「だからこそだ」


「呆れた」


 言いながら奏の口元が緩んでいる。呆れたと言う顔じゃない。柵の向こうのシズクを見る目が、獣医の目に切り替わった。


「でもシズクね……骨盤の入り、けっこういいのよ。前のは仔の脚の向きのせいだったし。難産のリスクは低いと思う」


「お前、獣医の目で見てるだろ」


「当たり前でしょ。私の仕事はこれだから」


 奏が少し胸を張った。日焼けした腕が夕日の中で釉薬のように光る。


「ただ、次の相手選びは慎重にしてね。シズクの子宮の状態、前に診たときは問題なかったけど……10歳だし、続けて産ませると、やっぱり負担はかかる。今のうちにしっかり立て直してあげたい」


「分かってる」


 俺は頷いた。シズクの背中が夕日を背負って揺れている。あの背中が来年また腹を抱える。


「あ、そうだ」


 奏が言いにくそうにノートの束を握り直した。視線を柵の上に落としてから、一度だけためらいを作って、俺の顔を見た。


「父が」


「篠宮さん?」


「うん。ダービーのあと、父が言ってたの。『陸くんの牧場と、一度ちゃんと話がしたい』って」


 風が牧草の上を一度だけ撫でた。


「篠宮ファームと、何か?」


「何も決まってないよ。ただ……父がそう言ったのは初めてだから」


 奏の声が少しだけ小さくなった。いつものはきはきした調子が一拍だけ揺らいで、すぐに戻った。


「行けるかな」


「行くよ」


 奏が黙った。


 さっきまでのはきはきした調子が、ふっと消えた。柵に肘をついたまま、放牧地のほうを見ている。俺も同じほうを向いていた。向いていたけれど、奏の肩が俺の肩に触れたのは分かった。触れるか触れないかじゃない。軽く、あずけるように。日焼けした肩の熱がパーカーの袖越しに伝わってくる。


 何も言わなかった。奏も、俺も。


 沈みかけた夕日が放牧地を琥珀色に染めている。


「……ねえ」


 奏が口を開いた。声が小さかった。


「アサツユの次も、シズクの次の子も、なんか……全部、隣で見てたいなって、思ってるんだけど」


 一気に言った。早口だった。でも最後の「思ってるんだけど」が少し掠れた。耳が赤い。夕日のせいだけじゃない。


 気の利いたことなんて言えない。俺にはそういうのがない。


 でも、柵の上に置かれた奏の手に、自分の手を重ねた。日焼けした指が少し震えていた。飼い付けでバケツを持つ手だ。


「……ああ。隣にいてくれ」


 出たのはそれだけだった。奏の肩から力が抜けた。少しだけ深く、あずけてきた。


 夕日が沈みかけている。アサツユとシズクが柵を挟んで並んで、こちらを見ていた。母子の輪郭が、最後の光の中で揺れている。


 俺はポケットに手を伸ばさなかった。万年筆には触れない。今は自分の目で見る。あの2頭を。隣のこの肩を。


「まだまだ、これからだ」


 ◇


 その夜、事務所の机で、冬に届いたまま開いていなかった種牡馬のカタログを広げた。


 カタログのページに、種牡馬の写真と数字が並んでいる。


 血統表、産駒の平均距離、芝成績。育成ゲームの攻略本をめくっている夜みたいだ。


 でもこれはゲームじゃない。シズクの次に産まれる子の相手を、今決めている。


 机の上に万年筆を置いた。手では触れない。今は目で選ぶ番だ。


 窓の外、放牧地は黒く静かだ。外灯の丸い光だけが馬房の壁に落ちている。


「……中距離で、スピードを足せる血統か」


 呟きが勝手に漏れた。アサツユが2400で化けた根拠は、シズクのスタミナAだ。なら次は、母に足りないスピードを補って、なおかつ距離を伸ばせる種がいい。


 配合の計算が、頭の中で静かに回り始める。来年の春はまだ先だ。でも今から種を蒔く相手を決めておかないと。


 カタログをめくる手が止まった。机の上の万年筆に、目がいく。


 爺さんも、視えていた時期があった。じゃあ俺にも、いつか終わる時が来るのかもしれない。


 そう思っても、怖さは不思議となかった。終わるなら、終わるでいい。なら今、視えるうちに次の馬を選ぶ。それだけのことだ。


 俺はカタログに視線を戻した。


 ページをめくる音だけが、夜の事務所に響いていた。


――第一部、完

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