夏の終わり、美浦へ
8月の終わりの朝は、もう秋の匂いがした。
まだ暗いうちから、放牧地の草が露で白く光っている。
靴の底が濡れる音だけがしている。宮田さんが柵の金具を外して、放牧地の入口を開けた。
「アサツユ」
宮田さんが低い声で呼んだ。黒い背中が草の中から顔を上げた。耳が一度だけ動く。それからゆっくりこっちへ歩いてきた。
夏の放牧で、アサツユは変わっていた。
胸前の肉がついている。トモにも丸みが乗った。脚が長いのは変わらないが、胴回りが一回り太くなっている。放牧地の草と日差しで骨格の上に肉が載った、というやつだ。
……化けたな、お前。夏の間に。
引き手綱を握って馬房の前まで引いてくると、軽トラのエンジン音が坂の下から上がってきた。
ドアがバタンと閉まる音がして、奏が駆け上がってきた。研修ジャージの袖を捲くっている。息が少し切れている。
「間に合った」
「おはよう」
「おはよ。……うわ」
奏が馬房の前で立ち止まった。アサツユを見上げて、それから俺を見た。それからもう一度アサツユを見た。
「陸、これ」
「ん」
「10キロ以上は増えてる」
奏が馬房の柵に手をかけて、アサツユの胸前に手のひらを当てた。指が軽く押して、離れる。獣医の手だ。飼い付けでバケツを持つ手とは違う手が、今は馬体を診ている。
「腹の回りも。トモの肉の乗りも。……陸、これ放牧だけの肉体じゃないよ。もともとの骨格があったからこそ、これだけ乗った」
「ああ」
俺は頷いた。分かっている。アサツユの骨格は最初からこれになる寸法だったんだ。2400メートルを走ったあとの休養で、骨格が肉を呼んだ。
……配合の結果が、今ここに出ている。
「毛艶もいい。でも」
奏がアサツユの鼻面を軽く撫でた。アサツユが横の宮田さんの帽子のつばを鼻でつついた。ぽこん、と。
「……ほんとに挨拶好きだね、この子」
「癖だろ」
「癖。でもね、陸」
奏が小さく笑ってから、アサツユの目を見た。獣医の目が、少し柔らかくなった。
「送り出すの、寂しいね」
……ああ。
言われて初めて、喉の奥が少しだけ詰まった。
「そうだな」
それしか出なかった。宮田さんが馬房の隅でバケツの中身を確認している。背中が少し小さく見える。66歳の背中だ。この背中は、爺さんの頃から同じ馬房の前で同じ朝を過ごしてきた。
坂の下で、エンジンの音が変わった。
低い唸りが坂道を登ってくる。大型車のディーゼル音だ。タイヤが砂利を噛む音が近くなる。
「来たな」
宮田さんがバケツを置いて、馬房の前に出た。
「お前」
「はい」
「馬運車、迎えに出るぞ」
……ああ。
行くのか。もう、行くのか。
坂の下から白い馬運車の屋根が見えた。ゆっくりと、坂を登ってきている。
俺はパーカーのポケットに手を入れて、万年筆を握った。
掌に馴染んだ金属の冷たさが、指の腹を通じて手首へ広がる。何度握っても、この感触だけは慣れない。慣れないけれど、今はこれが必要だ。
アサツユが目の前に立っている。夏の草と日差しで乗った胸前の肉が、朝の光に輪郭を主張している。黒鹿毛の肩に露の粒が一つだけ光っていた。
表示が浮いた。
【スピード:A+】
変わっていない。上から順に目で追う。
【スタミナ:A+】
【パワー:A】
【根性:A+】
【賢さ:A+】
夏の間に一つも数字は動いていない。放牧で体が変わっても、能力の核は微動だにしていない。そうか。お前は元からこれだったんだ。
【隠れ適性:中距離向き】
目が止まった。
中距離。この行を見ていると、秋の芝が頭の中で見え始める。どこを走らせる。先生が決めることだ。でも表示を握っているのは俺だ。
皐月賞の2000。ダービーの2400。次は――いや、まだいい。決めるのはもう少し後だ。
【隠れ適性:良馬場巧者】
【隠れ適性:自在】
最後まで確かめて、万年筆をポケットに戻した。
馬運車のバックドアが開いて、スロープが下りた。
運転手が靴底を砂利に鳴らして降りてくる。宮田さんがアサツユの引き手綱を握り直した。
「行くぞ」
低い声だった。アサツユが耳を一度だけ動かして、宮田さんの背中を見た。
……おい、お前。嫌がらなくていいのかよ。
スロープの前まで来ると、アサツユは一度だけ立ち止まった。鼻面を近づけて、馬運車の中を嗅いでいる。
乗るのを嫌がる馬は多い。載りたがらないやつは前脚を突っ張って、スロープの下で動かなくなる。宮田さんの肩に力が入ったのが見えた。
けれどアサツユは、ひとつ鼻を鳴らしてから、自分から足を踏み出した。
コツ、コツ、コツ。
蹄がスロープの鉄板を叩く音が3つ。それだけで、黒い体は車の中に消えた。
「……好きだな、お前も」
宮田さんが手綱を運転手に渡して、スロープを降りた。括りの枠を運転手が締めて、扉がガタンと閉まる。
アサツユの顔が窓から覗いた。
奏が一歩前に出た。手のひらを窓の金網に沿って、軽く滑らせる。指先がアサツユの鼻面に触れたか触れないか。
「……元気でね」
小さな声だった。奏の声が小さいのは珍しい。
アサツユがもう一度だけ鼻を鳴らして、窓から顔を引っ込めた。
エンジンの唸りが低くなる。タイヤが砂利を噛む音がゆっくり動き出した。
馬運車が坂道を下りていく。白い屋根が牧草の向こうに少しずつ小さくなる。ダービー馬を乗せた車は、ただの白い箱になっていく。
影が長い。朝の光が坂の下から登ってくる。牧場に残ったのは宮田さんと奏と俺と、空いた馬房と、柵の向こうのシズクだけだ。
奏が帽子のつばを押さえている。目が少し赤い。朝露のせいじゃない。
宮田さんが腕を組んだまま、坂の下を見ている。
「……秋、だな」
◇
翌日の夜、奏が研修の帰りにもう一度寄って、事務所で二人、冷めた弁当を広げた。
「……冷めてるね、これ」
「うん。コンビニ弁当は冷めるのが仕事だ」
奏が箸で白米をつついている。俺は卵焼きを口に放り込んだ。甘い。そして冷たい。
そのとき、事務所の隅で固定電話が鳴った。
ジリリリリ、と古い電子音が夜の空気を切り裂く。
俺は箸を置いて受話器を取った。
「はい、日向です」
「夜分に失礼いたします。美浦の厩舎です」
受話器の向こうから聞こえたのは、美浦の先生の声だった。低くて落ち着いたバリトン。白いシャツとネクタイの背中が目に浮かぶようだ。
「先生。お疲れ様です」
「アサツユですが、先ほど無事に厩舎へ着きました」
ホッと息が漏れた。馬運車に乗せてからずっと胸のどこかにあった小さな棘が抜けた気がする。
「そうですか。それは良かった」
「運転手の話では、載せるときも降りるときも嫌がるそぶりは見せなかったそうですよ」
……あいつ、乗り物好きだったのかよ。知らなかったな。
「カイバも全部食べたとのことです。脚元も問題ありません」
「分かりました。ありがとうございます」
一瞬の間があった。受話器の向こうで、ネクタイを直す気配がした。いや、音では分からないけど。
「オーナー。本日はもう一つ、お話しがありまして」
「はい」
「秋の行き先のことです」
来た。覚悟はしていた。でも弁当の卵焼きよりは重い話題だ。
「今のアサツユの状態と距離適性を考慮しまして、二つのプランを用意しました」
先生の声は淡々としている。まるで競馬新聞の見解を読み上げているみたいだ。でもその裏には確固たる自信がある。
「一つは9月の中山セントライト記念をひと叩きして、10月の京都菊花賞です」
菊花賞。芝3000メートル。三冠路線の最終戦だ。
「もう一つは毎日王冠から、11月の東京天皇賞・秋です」
天皇賞・秋。芝2000メートル。ここは古馬との混合戦だ。
「どちらにするか、オーナーが決めてください。今週中に」
今週中。期限は短い。でも先生は俺に決めろと言った。
受話器を握る手に力が入る。万年筆じゃない。自分の手だ。
「……少し、考えさせてください」
「承知いたしました。おやすみなさい」
通話が切れた。プツンという音がやけに大きく響いた。
俺は受話器をゆっくりと置いた。
「……秋の話?」
奏が箸を止めてこっちを見ている。卵焼きを飲み込む音がした。
「ああ。セントライトから菊花賞か、毎日王冠から天皇賞か」
俺は空いた馬房の方へ目を向けた。もうそこには黒い背中はいない。
3000メートルか。2000メートルか。
菊か。古馬か。
頭の中で計算式が回り始める。まだ答えは出ない。
奏が箸を止めた。
口を開きかけて、一度閉じた。
「シズクの子に3000……」
言いかけて、途中でつぐんだ。シズクは現役14戦、すべて1400以下だった。母の適性を知っているからこその途中停止だ。
俺は朝の表示を思い出す。
【スタミナ:A+】
スタミナはある。だが距離の行は【隠れ適性:中距離向き】だった。中距離向きとは書いてある。けれど、長い距離が走れないとは書いてない。
皐月賞の前にも言われた。「2000は止まる」と。あれを信じなかったのは俺だ。
それでも3000は2400より600長い。
弁当の白米が冷たい。答えはまだ出ない。
ブブッ。
奏のジャージのポケットでスマートフォンが短く震えた。
奏は箸を置いて画面を覗き込む。それから、無言で俺の目の前に差し出した。
競馬ニュースの速報だ。太いゴシック体の見出しが画面の中央に鎮座している。
「桜庭ステーブル テンカザクラ、秋は神戸新聞杯から菊花賞へ」
菊花賞。
桜庭さんも、3000を選んだのか。
画面の光が奏の指先を白く染めている。その白い光を見ていると、ダービーの翌日に受話器の向こうから聞こえた低い声が耳の奥で蘇ってきた。
「次のシーズンも、逃げるなよ」
逃げるな。
皐月賞の前、記者に言った。「長い距離が走れないかどうかは、まだ誰も試していません」。あのときのはったりじゃない。事実だった。だって誰も試してなかった。2000で止まると言われた皐月賞を、アサツユはクビ差で走り切った。止まらなかった。2400では勝った。400伸びて、ハナ差で日本一になった。じゃあ3000は。
試してないのだ。誰も。
表示のスタミナはA+。賢さもA+。脚質は【自在】。この3行が揃っていれば、道中で脚を溜めることくらい須賀さんには造作もないはずだ。あの騎手は鞭を使わずに勝つ男だ。無駄に脚を使わせない。3000という距離がアサツユの足を止めるか、それとももう一段化けさせるか。試した人間がいないなら、試すのは俺たちだ。
俺は箸を置いて立ち上がった。椅子が床を擦る音が夜の事務所に響く。
事務所の隅の固定電話に向かう。受話器を握る。美浦の番号を押す。
プルルル。
2回目の呼び出し音で、向こうが取った。
「はい」
「日向です」
低いバリトンが受話器越しに響く。
「オーナー。決められましたか」
「はい」
俺は深く息を吸った。
「菊花賞で、お願いします」
受話器の向こうで、白いシャツが微かに動く気配がした。間があった。
「……承知しました」
通話が切れる。
受話器を戻すと、隣で奏が小さく笑った。ふふっ、と空気が揺れる音。
三冠目は、京都の3000メートルだ。




