秋のウッドチップ
美浦の朝は、日高より少しだけ遅く明ける。
9月2日の水曜。ウッドチップのコースには、まだ薄い霧が残っていた。
先生が腕を組んでコースを見ている。白いシャツの襟に朝の湿り気が薄く張り付いている。
「今日は前に馬を置いて、最後まで我慢させます」
先生の声は淡々としていた。まるで天気予報を読み上げるみたいな口調だ。でも「最後まで我慢」という言葉の裏に、3000という数字がこっそり潜んでいるのは分かった。
昨日の夕方、日高から美浦に着いた。宮田さんは牧場に残った。「お前が見てこい」それだけ言って背中を向けた。あの人はいつもそうだ。
……シズクの飼い付け、一人でも回せるか。
考えても答えは出ない。でも考えてしまう。
馬場の向こうから蹄の音が近づいた。須賀が騎乗したアサツユがコース入口に立っている。黒鹿毛の肩に霧の粒が光っていた。夏より一回り厚くなった体だ。
須賀がこちらを一瞥した。小柄な背中が軽く頷く。
先に一頭、古馬がコースに入った。先生の厩舎の馬だ。特に名前も呼ばれない。今日の仕事は「目標」であって「相手」ではない。
先生が小さく頷いた。
古馬が駆け出す。ウッドチップを蹴る音が霧の中へ低く吸い込まれていく。
そしてアサツユがその3馬身後ろについて、走り出した。
3コーナーの手前で、アサツユの首が上がった。
霧の中に前の古馬の背中が見えている。アサツユの耳が前を向く。肩の筋肉がぐっと盛り上がって、蹄のリズムが半拍速くなった。
抜きに行きたがっている。
須賀の手綱がすっと短くなった。鞍の上で小柄な背中がわずかに後ろに傾く。手綱を抑えている。軽い。けれど確かな手だ。
アサツユの頭が一度、振られた。二度目。三度。
……おい、怒ってんのか。
それとも教えてんのか。須賀は何も変えなかった。ただ手綱を抑え続けた。アサツユの耳が一度だけ後ろに倒れて、それからゆっくり首が下がった。
ふっ、と息を吐く音が聞こえた気がした。須賀の背中が戻る。
直線に入ると、アサツユの蹄の音が変わった。ウッドチップを噛む音が一段太くなる。少しずつ、ほんの少しずつ、前の背中との間隔が詰まっていく。
でも追っていない。須賀の手は動いていない。鞭も使っていない。
ゴール前で、アサツユの肩が古馬の肩に並んだ。並んだだけだ。先には行かない。須賀が右の手で軽く首を撫でて、止めた。
……お前、勝ちたがってるな。
俺はポケットに手を入れなかった。万年筆は握らなかった。ただ須賀の背中と、その上で息を落ち着けたアサツユの首を見ていた。
先生が腕を組んだまま、短く息を吐いた。
「……今日は、これでいいんです」
◇
洗い場では、担当さんがアサツユの脚にホースの水をかけていた。
汗の匂いが朝の空気に立ちのぼる。蹄の泥が流れて、黒い脚が濡れた光を返している。アサツユは気持ちよさそうに首を下げて、ときどき鼻先で水を跳ねさせていた。跳ねるな、と担当さんが小声で言う。聞いていない。
須賀がヘルメットを脱いでタオルで頬を拭きながら俺の隣に来た。小柄な体が隣に立つと、俺の肩より頭ひとつ低い。息はもう整っている。この人はいつも、降りた瞬間から息が整っている。
「オーナー」
「お疲れさま」
「今日は、勝たせない稽古でした」
須賀は手袋を外しながら言った。視線は洗い場のアサツユのほうを向いたままだ。
「ゴール前で並んで止めました。あれでいいんです。というか、あれ以上やらせたら秋が危ない」
「分かってます」
須賀が手袋をポケットにねじ込んだ。それから、少し声を落とした。
「京都の3000、坂を2回越えます。1周目はスタンドの前を通るので、声が入るんですよ。あれ馬にはけっこう来るんです。初めての馬は特に」
俺は頷いた。京都のスタンド前、ゴール板の横を1周目に通る。あの距離のレースで、あそこで歓声を浴びて掛かる馬は少なくない。
「スタミナより、最初の1周です。あそこで掛かったら終わりです。距離が持たないとか、そういう話じゃなくて」
須賀は一度だけ息を吸った。
「この馬、ダービーのゴール前で差し切る気持ちよさを覚えてます。あれを道中で出させないのが、秋の仕事です」
……ああ。
そういうことか。俺は洗い場のアサツユを見た。濡れた黒い背中が、水しぶきの向こうでゆっくり揺れている。あいつは賢い。賢いから、気持ちよさを覚えてしまった。走るのが上手くなった代わりに、欲張ることを覚えた。
表示の【隠れ適性:中距離向き】の行が頭の奥で浮かぶ。問題は「距離が持つか」じゃない。「我慢できるか」なんだ。そして【隠れ適性:自在】――自分で位置を選べるということは、裏を返せば、自分で行ってしまうということでもある。
「須賀さん」
「はい」
「3000、乗ったことあるんですか」
須賀は少しだけ間を置いてから、正直に頷いた。
「あります。でも、この馬で乗るのは初めてです」
先生が洗い場に来た。ネクタイは緩めていない。朝のままの白いシャツだ。
「セントライト記念は勝ちに行くレースじゃありません」
先生は腕を組んだままで言った。
「3000のための、ひと叩きです」
須賀がヘルメットを手に持ったまま頷いた。
「中山で1回、我慢を教えます」
濡れたアサツユが首を伸ばして、須賀の手のヘルメットを鼻でつついた。こつん、と一度だけ。須賀が小さく眉を動かした。
……お前、今ので何を聞いたんだよ。
俺は何も言わなかった。言わなくていいことがある。須賀の小柄な背中と、ヘルメットの縁に残った鼻の跡が、朝の水しぶきの中で揺れている。
須賀がヘルメットを脇に抱えて、アサツユの濡れた首を一度だけ撫でた。
「次は、勝たなくていいレースです。……でも、負けるつもりもありません」
◇
昼前の厩舎地区の通路は馬運車と人と、時折鳴る蹄鉄の音で賑わっていた。
俺は長靴のまま美浦の厩舎の並びを歩いていた。ここは日高と違って地面が固い。砂利じゃなくて舗装だ。長靴の底がカツカツ鳴るのが、どうにも落ち着かない。
曲がり角で、別の厩舎の前に見覚えのある背中があった。白いシャツに、薄いグレーのジャケット。きっちりと着込んだ、日高の牧場主には似合わない格好だ。でも、その背中は似合っていた。
篠宮ファームの生産馬を預けている厩舎だ。挨拶に来ていたらしい。
こちらに気づいて振り返った。奏と同じ色の目が、穏やかに細くなる。
「おめでとう、陸くん」
第一声だった。通路の真ん中で、篠宮貴之は静かにそう言った。声を張らない。周りに人がいても、その一言だけがまっすぐ届く。大人の祝い方だ。
「篠宮さん。ありがとうございます」
頭を下げた。ジャケットの裾から、シワひとつないシャツの袖口が見える。この人は、いつもこうだ。
「ダービーはテレビで見ていたよ。最後の直線、君の馬は強かった。あれは馬の力だ。厩舎の力でも、ましてや運でもない」
褒めるときも、根拠を添える人だ。
「いえ。須賀さんと先生と、宮田さんのおかげです」
「謙遜しなくていい。君が選んだ馬だ」
貴之は少しだけ声を落とした。
「奏から聞いているだろう」
「はい。一度、ちゃんとお話がしたいと」
「ああ。それなら、日にちを決めておこう」
貴之は手帳を出した。開いたページに、細かい字が並んでいる。予定が隙間なく詰まっているのが、遠目にも分かった。
「セントライト記念が9月13日だね。その翌週、20日の日曜。日高に行く。午後なら空いている」
「分かりました。牧場でお待ちしています」
「うん」
手帳を閉じた。ポケットにしまう。それだけの動作が、なぜか妙にきれいだった。この人は、無駄がない。奏の父だ。
「じゃあ、またその日に」
貴之は一歩、通路の脇に退いた。俺に道を譲るように。それから通路の向こうへ向いて、背中が少し遠くなってから、穏やかな声が戻ってきた。
「菊、取れるといいね。……3000は、血が答えを出す距離だよ」
振り返らなかった。背中で言った。それが慰めなのか警告なのか、貴之なら両方だろう。
シズクの現役が頭をよぎる。14戦。すべて1400以下。母は短い距離の馬だ。
血が答えを出す。ならアサツユの母は、短距離の血を渡したことになる。
ポケットの万年筆に指先が触れた。握らない。触れるだけ。
表示はまだ、誰も試していないと言っている。
血か、表示か。答えは、京都の3000が出す。
その前に、もう一つ。9月20日、篠宮さんが日高に来る。




