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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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37/53

前に置く馬




 9月13日、日曜日。中山競馬場のパドックには、夏の名残りみたいな日差しがまだ落ちていた。


 柵の前は、人で二重にも三重にも埋まっていた。


 土曜のうちに日高を出た。宮田さんは今回、一緒に来た。「馬の顔を見とけ」としか言わなかった。奏は研修の休み届を出して隣に立っている。


 3番のゼッケンを付けた黒鹿毛が、担当さんに引かれて土の輪を回ってくる。


 夏を越して一回り大きくなった。胸前の肉、トモの丸み。美浦の調教で引き締まった背中の筋肉が、日高でつけた土台の上に乗っている。


 電光掲示の馬体重は、前走比プラス10キロ。客席から小さなざわめきが広がる。単勝1番人気。アサツユの名前の横で、オッズが小さな数字を揺らしている。


 ……よし、いい体だ。


 アサツユは今日は穏やかだった。前を見据えて、ただ歩いている。


 隣で奏がアサツユの体に目を落とす。


「肩、前より幅が出てる」


「歩き方も重心が前に残ってる」


 俺は「ああ」とだけ返した。


 背後から客の声が聞こえた。


「ダービー馬は叩き台だろ」


「菊はどうせ持たない、母が1400だ」


 耳に残る。でも振り向かない。


 ただ、黒い背中を見ていた。お前が何キロ走れるかは、お前が決める。


 パーカーのポケットの中で、万年筆を握った。


 掌に馴染んだ金属の冷たさが、指の腹から手首へ広がる。


 表示が浮いた。


 【スピード:A+】


 【スタミナ:A+】


 【パワー:A】


 【根性:A+】


 【賢さ:A+】


 目が下へ流れる。


 【隠れ適性:中距離向き】


 一瞬、止まった。


 中距離。この行はもう何度も見た。皐月賞の前にも、ダービーの前にも、ここで足が止まった。でも今は違う。決めたのは俺だ。3000を走らせると決めた。ならこの行はもう見ない。


 目を下へ逸らす。


 【隠れ適性:良馬場巧者】


 【隠れ適性:自在】


 最後まで確かめて、万年筆を離した。指先から金属が抜ける。


 隣で宮田さんが腕を組んだまま、動かずに言った。


「……落ち着いてるな」


 他の馬は、数字の確認だけで済ませるつもりだった。


 6番のゼッケンが、目の端に引っかかった。


 引いているのは名前も知らない厩務員だった。手綱を握る手は素人じゃない。


 芦毛の牡馬は、アサツユの3頭後ろを歩いていた。


 灰色がかった芦毛。首が細く長い。胸前が薄い。脚が細い。パドックを一周するたびに、どこか頼りない影が地面に落ちる。周りの馬と比べて、輪郭が薄い。夏の新潟で2勝クラスを逃げ切った上がり馬、という触れ込みの割に、歓声を浴びるにも値しない……いや、違う。値しないのではない。ただ静かだ。歩調も、蹄の音も、すべてが。


 ……目が離せない。


 手元の競馬新聞で名前を確かめる。『シロガネノミチ』。印は薄い。5番人気。前走は新潟芝2200。母ユキノイズミ。知らない名前だ。でも、新聞の活字よりも、この灰色の背中の方が、俺にはずっと大きく見えた。


 ポケットの中で、万年筆を握り直す。


 指に、力が入った。


 表示が浮いた。


 【スピード:B+】


 Bプラス。低くはない。でも目立つ数字でもない。アサツユのAプラスと比べれば、一段下だ。


 【スタミナ:S】


 指先が止まった。


 S。10段階の、いちばん上。万年筆を握り始めてから、何頭見てきた。日高の牧場で、セールで、レース場で。アサツユにはなかった。テンカザクラにもなかった。俺は一度も見たことがない。この1行を。


 笑えなかった。目をこすらなかった。ただ、掌の中の万年筆を握り直す。


 上から、もう一度。


 【スピード:B+】


 【スタミナ:S】


 変わらない。SはSだ。


 周りの歓声が遠くなる。客はアサツユを見ている。宮田さんも、奏も、アサツユを見ている。誰も、俺の手元も、この表示も見ていない。


 まだ信じられない。信じられないけれど、表示は嘘をつかない。


 目をこすらずに、三度目を上から読む。


 【スピード:B+】


 【スタミナ:S】


 【パワー:A-】


 【根性:A】


 【賢さ:B+】


 【隠れ適性:長距離向き】


 【隠れ適性:良馬場巧者】


 【隠れ適性:逃げ】


 最後の1行まで読んで、息が止まった。


 見間違いじゃなかった。


「……41番」


 隣で、奏が小さく言った。


 俺は万年筆を離した。ポケットの布越しに、金属の温度がまだ掌に残っている。


 奏はアサツユから目を切って、6番の芦毛を見ていた。


「篠宮ファームで生まれた子だよ。私が研修1年目に出産に立ち会った」


 声が少し低くなる。パドックの喧騒が、奏の声だけ遠くに押しやっていた。


「生まれたときは名前がなくて、番号で『41番』って呼ばれてた。1歳のセールで別の馬主さんに売れて、名前はそこでついたんだと思う」


 俺は頷いた。この前の美浦で、貴之は別の厩舎の前に立っていた。篠宮ファームの生産馬を預けている厩舎だ。あれはこの馬の厩舎だったのか。


「あの子、ずっと走りそうに見えなかったの。脚が細くて、遅くて」


 奏は芦毛の細い脚を見ていた。獣医の目だ。


 俺は何も言わなかった。スタミナSのことは口にできない。ただ、灰色の背中が土の輪をゆっくり回るのを見ていた。


 スタミナ、S。京都の3000で、こいつは前にいる。


 ◇


「止まれ」の号令が、パドックに響いた。


 俺は柵の内側へ入った。宮田さんは柵の外に残った。


 パドックにいた馬たちが止まり、騎手たちがぞろぞろと入ってくる。白に青の二本輪の勝負服、須賀だ。その隣に白いシャツにネクタイの先生が歩いてくる。先生は俺に軽く会釈して、アサツユの前に立った。アサツユの鼻面を一瞥し、それから須賀に向き直る。


「今日も、前に馬を置きます。勝ち負けより、スタンド前で我慢できるかを見ます」


 須賀は黙って頷いた。先生は短く続ける。


「中山の2200は、スタートしてすぐにスタンドの前を通って1コーナーへ入ります。京都の3000の1周目と同じ景色です」


 それだけ言って、先生はアサツユの首筋に手を置いた。アサツユは一度だけ鼻を鳴らす。


 ……お前、分かってんのか。


 須賀がこちらを向いた。


「オーナー、今日は何かありますか」


 喉の奥に名前が浮かんだ。シロガネノミチ。6番の芦毛。あのスタミナSの、静かな背中。


 ……逃がすな、と言いたい。あの芦毛を前に行かせろ、ではなく、逃がすな、と。京都の3000で、あいつはいつの間にか前にいる。淡々と先頭を刻んで、長い脚で少しずつ離れていく。あのSを知っているのは俺だけだ。


 でも言えない。根拠が万年筆だから。ポケットの中のお守りだから。


 それに――今日は我慢を教える日だ。ここで須賀に逃げ馬を追わせれば、アサツユは前を抜く気持ちよさをもう一度覚える。それを覚えさせに行くのと同じだ。今日の稽古が壊れる。


 喉まで出た名前を飲み込んだ。


「……いえ。前に置いてください。今日は、それだけで」


 須賀は一瞬だけ俺の顔を見た。頬の薄い影が動いた。


「了解です」


 柵の向こうで宮田さんが、腕を組んだままこっちを見ていた。


 宮田さんは、何も言わなかった。


「乗馬」の号令が響いた。


 須賀がアサツユに跨る。白に青の二本輪の勝負服が、黒い背中の上で小さく揺れた。担当さんが引き手綱を引いて、もう一度パドックの土の輪を回る。


 アサツユは静かだった。首は上がっていない。蹄の音だけが一定に刻まれている。


 その3頭後ろを、6番の芦毛が歩いていく。灰色の背中が、日差しの中で淡く光った。細い脚が、土を踏むたびに一瞬だけ沈む。


 須賀は一度もこちらを振り返らなかった。ただ前だけを見て、アサツユの首筋に手を置いている。


 黒い背中がパドックの出口に向かう。蹄の音が、少しだけ遠くなる。


 俺はそれを立ったまま見送った。


 あの芦毛を追えとは、言わなかった。

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