前に置く馬
9月13日、日曜日。中山競馬場のパドックには、夏の名残りみたいな日差しがまだ落ちていた。
柵の前は、人で二重にも三重にも埋まっていた。
土曜のうちに日高を出た。宮田さんは今回、一緒に来た。「馬の顔を見とけ」としか言わなかった。奏は研修の休み届を出して隣に立っている。
3番のゼッケンを付けた黒鹿毛が、担当さんに引かれて土の輪を回ってくる。
夏を越して一回り大きくなった。胸前の肉、トモの丸み。美浦の調教で引き締まった背中の筋肉が、日高でつけた土台の上に乗っている。
電光掲示の馬体重は、前走比プラス10キロ。客席から小さなざわめきが広がる。単勝1番人気。アサツユの名前の横で、オッズが小さな数字を揺らしている。
……よし、いい体だ。
アサツユは今日は穏やかだった。前を見据えて、ただ歩いている。
隣で奏がアサツユの体に目を落とす。
「肩、前より幅が出てる」
「歩き方も重心が前に残ってる」
俺は「ああ」とだけ返した。
背後から客の声が聞こえた。
「ダービー馬は叩き台だろ」
「菊はどうせ持たない、母が1400だ」
耳に残る。でも振り向かない。
ただ、黒い背中を見ていた。お前が何キロ走れるかは、お前が決める。
パーカーのポケットの中で、万年筆を握った。
掌に馴染んだ金属の冷たさが、指の腹から手首へ広がる。
表示が浮いた。
【スピード:A+】
【スタミナ:A+】
【パワー:A】
【根性:A+】
【賢さ:A+】
目が下へ流れる。
【隠れ適性:中距離向き】
一瞬、止まった。
中距離。この行はもう何度も見た。皐月賞の前にも、ダービーの前にも、ここで足が止まった。でも今は違う。決めたのは俺だ。3000を走らせると決めた。ならこの行はもう見ない。
目を下へ逸らす。
【隠れ適性:良馬場巧者】
【隠れ適性:自在】
最後まで確かめて、万年筆を離した。指先から金属が抜ける。
隣で宮田さんが腕を組んだまま、動かずに言った。
「……落ち着いてるな」
他の馬は、数字の確認だけで済ませるつもりだった。
6番のゼッケンが、目の端に引っかかった。
引いているのは名前も知らない厩務員だった。手綱を握る手は素人じゃない。
芦毛の牡馬は、アサツユの3頭後ろを歩いていた。
灰色がかった芦毛。首が細く長い。胸前が薄い。脚が細い。パドックを一周するたびに、どこか頼りない影が地面に落ちる。周りの馬と比べて、輪郭が薄い。夏の新潟で2勝クラスを逃げ切った上がり馬、という触れ込みの割に、歓声を浴びるにも値しない……いや、違う。値しないのではない。ただ静かだ。歩調も、蹄の音も、すべてが。
……目が離せない。
手元の競馬新聞で名前を確かめる。『シロガネノミチ』。印は薄い。5番人気。前走は新潟芝2200。母ユキノイズミ。知らない名前だ。でも、新聞の活字よりも、この灰色の背中の方が、俺にはずっと大きく見えた。
ポケットの中で、万年筆を握り直す。
指に、力が入った。
表示が浮いた。
【スピード:B+】
Bプラス。低くはない。でも目立つ数字でもない。アサツユのAプラスと比べれば、一段下だ。
【スタミナ:S】
指先が止まった。
S。10段階の、いちばん上。万年筆を握り始めてから、何頭見てきた。日高の牧場で、セールで、レース場で。アサツユにはなかった。テンカザクラにもなかった。俺は一度も見たことがない。この1行を。
笑えなかった。目をこすらなかった。ただ、掌の中の万年筆を握り直す。
上から、もう一度。
【スピード:B+】
【スタミナ:S】
変わらない。SはSだ。
周りの歓声が遠くなる。客はアサツユを見ている。宮田さんも、奏も、アサツユを見ている。誰も、俺の手元も、この表示も見ていない。
まだ信じられない。信じられないけれど、表示は嘘をつかない。
目をこすらずに、三度目を上から読む。
【スピード:B+】
【スタミナ:S】
【パワー:A-】
【根性:A】
【賢さ:B+】
【隠れ適性:長距離向き】
【隠れ適性:良馬場巧者】
【隠れ適性:逃げ】
最後の1行まで読んで、息が止まった。
見間違いじゃなかった。
「……41番」
隣で、奏が小さく言った。
俺は万年筆を離した。ポケットの布越しに、金属の温度がまだ掌に残っている。
奏はアサツユから目を切って、6番の芦毛を見ていた。
「篠宮ファームで生まれた子だよ。私が研修1年目に出産に立ち会った」
声が少し低くなる。パドックの喧騒が、奏の声だけ遠くに押しやっていた。
「生まれたときは名前がなくて、番号で『41番』って呼ばれてた。1歳のセールで別の馬主さんに売れて、名前はそこでついたんだと思う」
俺は頷いた。この前の美浦で、貴之は別の厩舎の前に立っていた。篠宮ファームの生産馬を預けている厩舎だ。あれはこの馬の厩舎だったのか。
「あの子、ずっと走りそうに見えなかったの。脚が細くて、遅くて」
奏は芦毛の細い脚を見ていた。獣医の目だ。
俺は何も言わなかった。スタミナSのことは口にできない。ただ、灰色の背中が土の輪をゆっくり回るのを見ていた。
スタミナ、S。京都の3000で、こいつは前にいる。
◇
「止まれ」の号令が、パドックに響いた。
俺は柵の内側へ入った。宮田さんは柵の外に残った。
パドックにいた馬たちが止まり、騎手たちがぞろぞろと入ってくる。白に青の二本輪の勝負服、須賀だ。その隣に白いシャツにネクタイの先生が歩いてくる。先生は俺に軽く会釈して、アサツユの前に立った。アサツユの鼻面を一瞥し、それから須賀に向き直る。
「今日も、前に馬を置きます。勝ち負けより、スタンド前で我慢できるかを見ます」
須賀は黙って頷いた。先生は短く続ける。
「中山の2200は、スタートしてすぐにスタンドの前を通って1コーナーへ入ります。京都の3000の1周目と同じ景色です」
それだけ言って、先生はアサツユの首筋に手を置いた。アサツユは一度だけ鼻を鳴らす。
……お前、分かってんのか。
須賀がこちらを向いた。
「オーナー、今日は何かありますか」
喉の奥に名前が浮かんだ。シロガネノミチ。6番の芦毛。あのスタミナSの、静かな背中。
……逃がすな、と言いたい。あの芦毛を前に行かせろ、ではなく、逃がすな、と。京都の3000で、あいつはいつの間にか前にいる。淡々と先頭を刻んで、長い脚で少しずつ離れていく。あのSを知っているのは俺だけだ。
でも言えない。根拠が万年筆だから。ポケットの中のお守りだから。
それに――今日は我慢を教える日だ。ここで須賀に逃げ馬を追わせれば、アサツユは前を抜く気持ちよさをもう一度覚える。それを覚えさせに行くのと同じだ。今日の稽古が壊れる。
喉まで出た名前を飲み込んだ。
「……いえ。前に置いてください。今日は、それだけで」
須賀は一瞬だけ俺の顔を見た。頬の薄い影が動いた。
「了解です」
柵の向こうで宮田さんが、腕を組んだままこっちを見ていた。
宮田さんは、何も言わなかった。
「乗馬」の号令が響いた。
須賀がアサツユに跨る。白に青の二本輪の勝負服が、黒い背中の上で小さく揺れた。担当さんが引き手綱を引いて、もう一度パドックの土の輪を回る。
アサツユは静かだった。首は上がっていない。蹄の音だけが一定に刻まれている。
その3頭後ろを、6番の芦毛が歩いていく。灰色の背中が、日差しの中で淡く光った。細い脚が、土を踏むたびに一瞬だけ沈む。
須賀は一度もこちらを振り返らなかった。ただ前だけを見て、アサツユの首筋に手を置いている。
黒い背中がパドックの出口に向かう。蹄の音が、少しだけ遠くなる。
俺はそれを立ったまま見送った。
あの芦毛を追えとは、言わなかった。




