中山の2200
ゲートは、4コーナーの奥にあった。俺たちの立つスタンドからは、ずいぶん右の遠くだ。
ファンファーレが終わって、その遠い場所で、15頭がゲートに収まっていく。目の前の芝はまだ空っぽなのに、スタンドはもうざわついていた。
「――スタートしました! セントライト記念、15頭がそろったスタートです!」
「飛び出したのは6番シロガネノミチ、内からすっと先頭に立ちました! 単騎で行きます!」
遠い4コーナーの奥から、芦毛の背中が馬群の先頭に浮かび上がる。灰色が午後の日差しを受けて、淡く光った。細い脚が刻むリズムは、他のどの馬よりも静かで正確だった。
……やっぱり行った。あいつしか行かない。あの細さで、あの脚で、淡々と先頭を刻んでやがる。
俺はスタンドの手すりに手をかけた。指の先が白くなる。隣で奏が身を乗り出す気配がした。
アサツユは中団にいた。前から7番手。須賀がすぐ前の馬の真後ろにぴたりと張り付いて、壁を作っている。黒い背中が前の馬の尻にぴったり隠れる。白に青の二本輪が、揺れもしない。手綱は短い。動かない。
「各馬、1コーナーへ向かいます。先頭は依然6番シロガネノミチ、2番手以下は固まって中団を形成」
馬群が、こっちへ向かってくる。ゴール板の前、スタンドの真ん前を15頭が通過する。
歓声が爆発した。地鳴りみたいな音が、足元から腹の底まで突き抜ける。俺のすぐ後ろの客が叫んだ。名前を呼ぶ声。ダービー馬、ダービー馬と。スタンド全体がその一語に引っ張られていく。
アサツユの首が一度だけ上がった。
耳がスタンドの方を向く。肩の筋肉が、わずかに盛り上がる。前の馬との間隔が、半歩詰まった。
頼む、聞くな。歓声なんかただの音だ。風だ。背景だ。お前が走る理由はどこにもない。
須賀の手が動いた。すっと短く、右手が手綱を引く。鞍の上で小柄な背中がほんの少し後ろに傾く。迷いのない手だ。
アサツユの頭が、一度振られた。二度目。耳が前を向き直る。
「通過、1コーナーです。先頭6番シロガネノミチ、内ラチ沿いを淡々と。中団に3番アサツユ、前から7番手です」
1コーナーのカーブに馬群が吸い込まれていく。遠心力で外へ膨らむ馬、内に切り込む馬。蹄の音が重なって一つの塊になる。
アサツユの首がすっと下がった。
耳が前に落ちて鼻先が前の馬の尻の高さに揃う。力が抜ける。さっきまで盛り上がっていた肩が、なだらかに戻る。黒い背中がカーブの中でしなやかにしなって、そのまま馬群の内側を流れていく。
隣で、奏が短く息を吐いた。
「……下げた」
2コーナーを回って、馬群が向正面に入った。
風の音が少しだけ遠くなった。スタンドの歓声はもう背中の後ろで、目の前には芝の緑とその先に小さく揺れる灰色の背中だけが残っている。
先頭は、6番シロガネノミチ。リードは2馬身。いや、2馬身半か。細い脚が淡々と地面を掴んで、首も上がっていない。逃げているのに、まるで自分の影と並走しているみたいに静かだ。2番手の馬が追いかけるでもなく、かといって離されるでもなくちょうど中間の距離でくっついている。
「1000mの通過は、1分2秒1。ゆったりとした流れです。先頭6番、マイペースに逃げています」
実況の声がスタンドに流れた。1分2秒1。良馬場にしては、ずいぶんゆったりした数字だ。客席のどこかで、ダービー馬を信じる声と前が残るぞという声が混ざる。
アサツユは、まだ7番手だ。須賀の手綱は短いまま。あの細い腕が微動だにしない。前の馬の尻に鼻先をくっつけそうな距離で、けれど接触はしない。黒い背中が、前の馬のリズムを自分のリズムにしている。俺には分かる。あの背中の上下が、前の馬のそれとぴったり重なっている。我慢している。ちゃんと、自分で折り合っている。
宮田さんが低い声で言った。
「これでいい」
俺もそう思う。これでいい。我慢ができている。スタンド前で聞いた歓声の後遺症もない。ただ淡々と、流れの真ん中にいる。
3コーナーが近づく。中山の外回りは、2コーナーの手前からずっと下りだ。ゆるい、目に見えない下り坂。馬群がじわじわと詰まってくる。前との間隔を保っていた馬たちが、自然と一つの塊になり始める。蹄の音が低く、重くなった。
先頭の芦毛は、下りでもフォームを崩さない。普通、逃げ馬は下りで少し力む。脚が流れて、背中が伸びて後ろが近づく。それがお約束のはずだ。なのに、あの灰色はまるで自分のリズムを測りながら走っているみたいに、首も脚も同じ角度で地面を掴んでいる。
……逃げ馬ってのは、下りで脚が流れるのがお約束だろ。なんでフォームが変わらないんだよ、お前は! 2馬身のまま、縮まらない。これがスタミナSか。
奏が手すりを握り直す音がした。
「……あの子、まだ余ってる」
その通りだ。あの細い脚はまだ余っている。スタミナSは、無駄な力を使わない。使わないから、最後まで残る。このペースはあいつにとっては散歩だ。
4コーナーに入る。馬群が一気に密集した。内の馬が手前を変え、外の馬が膨らむ。その隙間を須賀が動いた。
アサツユの進路が外へ開く。手綱を少しだけ緩めて、外へ持ち出す。馬群の外側、風の通る場所へ。黒い背中がひと伸びする。前の馬の横を通り、もう1頭を外からかわす。前から5番手。あの静かな手綱のまま、外の空気を吸って直線へ向く。
先頭は、まだ芦毛だ。リードは2馬身。灰色の背中が、まだ前にある。
4コーナーを回って、直線を向く。
「さあ直線! 中山の直線は短いぞ! 先頭はまだ6番シロガネノミチ!」
「外からアサツユだ! 3番アサツユ、外から一気に上がってくる!」
脚が、音を変えた。ウッドチップで覚えたあの太い音じゃない。芝を掴む、硬くて速い音だ。黒い背中が外からぐんぐん前に出る。前の馬の影を一つ、また一つ抜いていく。
……行け。行け、行け!
「残り200、アサツユ2番手に上がった! 前はまだ6番シロガネノミチ!」
先頭の芦毛が、まだいる。芦毛との差が、少しずつ詰まる。坂の手前だ。中山の直線は、ここから急に登る。
坂だ、坂で行け! 上りはお前の得意科目だろうが!
須賀の手が動いた。手綱をしごいて、首を前へ押す。アサツユの首が低くなる。地面を蹴る音が、一段、硬くなる。
でも、前が止まらない。
あの細い脚が、坂の上でも同じリズムを刻んでいる。首の上下が、最初から最後まで同じ幅だ。深くも浅くもならない。ただ、同じ。スタミナSが、数字じゃなくていま目の前で脚になっている。
「残り100、シロガネノミチまだ先頭! アサツユ追い込むが届くか!」
お前はダービーでハナ差を拾った馬だ。あの一瞬を、もう一度。
黒い鼻先が、灰色の背中に迫る。迫って、そこから先が縮まらない。芦毛の耳が一度も後ろを向かない。
灰色の首の上下がゴールの直前まで、同じ幅のまま揺れている。
最後の50mで、差はもう縮まらなかった。
灰色の背中が先にゴール板を過ぎた。
スタンドのどよめきが、腹の底にずしりと響いた。
ターフビジョンの横に着順の表示が灯る。1着、6。2着、3。着差の欄に、1 1/4。
俺はその数字を黙って見ていた。手すりから手を離す気にもなれなかった。負けた、とは言わない。言ったら最後、自分の中で何かが決まってしまう気がした。
「ダービー馬が負けた」
後ろの客が吐き捨てるように言った。
「やっぱり母が短距離だ」
別の声が続く。低い、妙に通る声だった。
「あの芦毛、どこの馬だ」
3人目の声は半笑いだった。
俺は振り向かなかった。全部聞こえている。聞こえているけど、振り向かなかった。
隣で宮田さんが腕を組んだまま言った。
「……止まらねぇ馬だ」
それだけだった。勝った馬を褒めているのか、負けた馬を慰めているのか。たぶんどちらでもない。宮田さんの声は、ただ事実を置くだけの声だった。
奏は双眼鏡を下ろさない。両手で握ったまま、馬場の遠くを見ている。風で一つ結びの先が揺れていた。
「……あの子、最後まで同じ脚だった」
◇
検量室の前は、引き上げてきた馬と人でごった返していた。
須賀が検量を終えて、鞍を小脇に抱えて俺の前に来た。勝負服の白に、芝の土が点々と跳ねている。小柄な体が、いつもより少しだけ小さく見えた。
「オーナー」
声は静かだった。息はもう整っている。
「スタンド前、我慢できました。……前の馬が止まらなかった。それだけです」
俺は頷いた。
「分かってます」
短く返すのが精一杯だった。喉の奥で、負けたという言葉が形を作りかける。飲み込んだ。須賀はそれ以上言わず、検量室のほうへ歩いていった。
入れ違いに先生が来た。ネクタイは緩んでいない。腕を組んでもいない。ただ淡々と、結果を口にした。
「予定どおりです。3着までに入ったので、菊花賞の優先出走権も取れました」
一拍、置いてから続ける。
「ダービー馬は賞金で足りるので、権利の意味は薄いですが」
宮田さんが隣で「ふん」とだけ鼻を鳴らした。奏は何も言わない。ただ俺の横で、馬場のほうをまだ見ていた。
俺は一度だけ息を吸った。
「……負けた」
自分の口で言った。言い訳はしなかった。母が短距離だとも、前が強すぎたとも。そういうことは全部、頭の隅に押し込んだ。負けたのは事実で、それを言葉にするのは俺の仕事だ。
パドックで、須賀に芦毛のことは言わなかった。今日は我慢を教える日だ。稽古としては、あれでよかった。
でも京都の3000では、同じ手は通らない。あの灰色は、あの細い脚で先頭を刻む。スタミナSのことは、誰にも言えない。
我慢は、できた。あとは京都で、前にあいつがいるってことだ。
パーカーのポケットの中で、万年筆の尻に指先が触れた。金属の冷たさが、指の腹にだけ伝わる。握らなかった。握ったら表示が出る。いま数字を見ても、勝った馬の数字を確かめても、ただ事実をなぞるだけだ。あの灰色の背中は、表示なしで十分に見えた。見えてしまった。
須賀の背中が検量室の入口に消える。勝負服の白が、人の影に混ざって見えなくなった。
宮田さんがぽつりと言った。
「馬は悪くねえ」
口取りのほうから、シャッターの音が続けざまに聞こえた。
ウイナーズサークルには、灰色の馬が立っていた。
首の細い芦毛が厩務員に引かれて、カメラの放列の前で淡く光っている。真ん中には馬主らしい初老の男。その隣に、薄いグレーのジャケットを着た篠宮貴之が並んでいた。白いシャツの袖口が、午後の日差しに浮いている。
貴之は笑っていた。派手ではない、口元をゆるめるだけの笑みだ。それでも、この人には珍しい勝負の後の顔だった。生産者の顔だ。
隣で、奏が息をのんだ。
小さく、肩ごと止まるような音だった。何も言わない。ただ、灰色の馬とその隣に立つ父とを、まっすぐ見ている。
俺も何も言わなかった。
シャッターの音が途切れて、関係者がばらばらに動き出す。
貴之がこちらへ歩いてきた。薄いグレーのジャケットの前を合わせ直すでもなく、ただ自然に、人の流れを抜けてくる。
「いい我慢だったね、君の馬」
すれ違いざま、穏やかな声が落ちた。少しだけ、間があった。
「……20日、楽しみにしてるよ」
俺は「ありがとうございます」とだけ返した。何かもっと、気の利いたことが言えればいいのに、喉のあたりが乾いていた。
貴之は一歩進んで、足を止めた。
「あの子の母の母のことも、話そう」
声は低く、俺と奏の間に置かれた。それから振り返らずに、人の流れの向こうへ消えていく。背中はまっすぐだった。
……母の母?
シロガネノミチの母の母。ユキノイズミの、母。
俺はパーカーのポケットから折り畳んだ競馬新聞を引っ張り出した。手のひらで広げて、6番の馬柱を探す。
芦毛、牡、前走新潟2200。母ユキノイズミ。
ユキノイズミ。その母の名前までは、載っていなかった。




