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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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母の母




 9月20日、日曜日の昼すぎ。俺はシズクの放牧地で、ゆるんだ柵の横木を打ち直していた。


 金槌を振るたびに、乾いた音が空へ抜けていく。シズクは少し離れたところで草を食んでいて、ときどき耳だけをこっちへ向けた。


 坂の下から、聞き覚えのあるエンジンの音が上がってきた。


 奏の軽トラだ。白いボディに泥の跳ねた、見慣れたやつ。運転席には奏がいる。ハンドルを握ったまま、こちらを見ようとしない。助手席に、薄いグレーのジャケットが見えた。


 ……篠宮さん、自分の車じゃないのか。


 軽トラは放牧地の手前で止まった。砂利を噛むタイヤの音がやんで、ドアが開く。貴之はゆっくりと降りた。黒い革靴の底が日高の土を踏む。似合わないとは思わなかった。この人はどこに立っても同じ姿勢なのだ。


 運転席から奏が降りる。肩が少しすくんでいる。自分の軽トラに父を乗せてきた、というのが、どこか居心地悪いらしい。


「陸くん」


 貴之は俺を見て、それから金槌と柵の横木に目を落とした。


「直してたのかい」


「はい。少し緩んでたので」


「いい仕事だ」


 世辞ではなく、本当にそう思っている声だった。


 厩舎のほうから宮田さんが出てきた。手に軍手を持ったまま、黙って頭を下げる。貴之も軽く会釈を返す。それだけのやり取りで、二人の間には何も残らない。宮田さんは俺の隣まで来て、腕を組んだ。


 貴之は放牧地のほうへ目を向けた。シズクが顔を上げる。草を食むのをやめて、首をこちらへ向けた。耳が二つ、まっすぐに立っている。


 貴之はしばらくシズクを見ていた。それから、静かに言った。


「事務所より先に、あの子を見せてもらえるかな」


 俺は頷いた。金槌を柵の上に置く。宮田さんも何も言わない。奏が一歩後ろに下がる気配がした。


 貴之は柵の前に歩いていく。革靴が草を踏む。柵の横木に片手を置いて、シズクを見た。


 貴之は手帳を開かなかった。


 柵の向こうのシズクを見たまま、口を開いた。


「あの子は10年前、うちで生まれた。篠宮牧場でだよ」


 俺は金槌を置いた手を、パーカーのポケットに突っ込んだ。


「いまは篠宮ファームだけど、法人にしたのはあとだ。当時は屋号も古いままだった」


「……10年前」


「そう。うちでは生まれた子を番号で呼んでいたんだ。あの子は、7番の、2番目の子だよ」


「7番、ですか」


「母親だよ。ツキミソウという」


 ツキミソウ。血統表の母の欄でしか見たことのない名前が、放牧地の草の上に落ちる。


「7番の子は、みんな体ができるのが遅かった。2歳の夏に間に合わない」


 貴之の声はまるで帳簿を読むみたいに平らだった。


「数を打って当てる。うちはあの頃からそういう牧場でね。そのやり方に合わない母系だった」


 風が坂の上の草を一度だけ倒した。シズクが首をもたげて、風上に鼻先を向ける。


「だから、1歳のセールで安く売ったよ」


 俺は黙って聞いていた。外れ血統。その言葉が、ようやく形を持って俺の胸のあたりに落ちてきた。速い馬を作るための牧場で、遅く育つ子は邪魔になる。理屈は分かる。分かるけれど、その番号で呼ばれていた馬が、いま目の前に立っている。


「……ダービー馬の母を、安く売ったんですね」


「そうなるね」


 貴之は、それだけ言った。


 宮田さんは腕を組んだままひとことも言わなかった。奏だけが、唇を引き結んで父の背中を見ていた。


「シズクが14戦、全部1400以下だったのは」


 俺の声は、思ったより乾いていた。金槌を握っていた手が、まだじんとしびれている。


 貴之は柵から手を離さなかった。シズクの背中を見たまま、短く答えた。


「買った馬主が、早く元を取ろうとしたからだよ。短い距離ばかり使った。あの子の体ができる前に」


 奏が、隣で小さく息を吸った。音にならないほど浅い呼吸だった。


「ツキミソウの血で、うちの手元に残したのは1頭だけだ」


 貴之は言った。


「あの子の父違いの妹でね。走らせずに繁殖に上げた。ユキノイズミという」


 ユキノイズミ。


「……41番の、お母さん」


 奏が、小さくつぶやいた。


 新聞の馬柱にあった名前が、突然、輪郭を持って胸の内側に立った。


「そのユキノイズミから生まれたのが、セントライト記念を逃げ切った芦毛だよ。シロガネノミチ」


 俺はまばたきをしなかった。


 シズクの、父違いの妹。その妹の産んだ馬が、あの芦毛だ。中山でアサツユの前に立ち続けた、あの細い脚の馬。母系をたどれば、シズクと同じ根っこにいる。


 ……じゃあ、あの芦毛とアサツユは。


 シズクとユキノイズミは、姉妹だ。ならアサツユとシロガネノミチは、母系で繋がった従兄弟みたいなものだ。俺はあの日、同じ血の馬に負けたのか。


 シズクの血統登録証を思い出した。事務所の棚の奥、薄い紙の一枚。生産者の欄にあったのは、たしか「篠宮牧場」。見慣れた字面だった。ただ、いまの篠宮ファームと結びつけたことがなかった。名前が変わるだけで、こんなに遠く感じるものか。


 宮田さんは、柵に背をもたせたままだった。腕を組んで、地面の一点を見ている。ずっと黙っていた。


 その宮田さんがぽつりと言った。


「……先代は、知ってた」


 声は低く、草の上を滑るようだった。


 俺は顔を向けた。でも宮田さんは、それ以上は説明しない。組んだ腕も、視線も動かない。「知ってた」の続きをくれる気はないらしい。


 奏が父の横顔を見た。貴之は、静かにうなずくだけだった。


 シズクが顔を上げて小さく息を吐いた。


 貴之は、シズクから目を離さなかった。


「3000は、血が答えを出す距離だと言ったね」


 俺は頷いた。


「……あれは、脅したんじゃない。私が手放した血が、どこまで走るのか。私も、見たいんだ」


◇


 事務所の古い折り畳み机に、宮田さんが麦茶のコップを4つ置いた。それから自分は壁際の丸椅子に座って、黙った。


 宮田さんは腕を組んだまま窓の外を見ている。奏は俺の隣、貴之は正面に座った。薄いグレーのジャケットを脱ぎもせず、背筋を伸ばしている。


 貴之は懐から手帳を出した。黒い革の、角の丸くなったやつだ。開いて、どこかを指でなぞるでもなく、ただ数字を口にした。


「シズクは今年で10歳だ。前の出産は難産だったと記録にある」


 俺は頷いた。アサツユのときだ。夜通しだった。


「次の出産は、うちの出産厩舎で引き受けたい。馬房は24。全部の馬房にカメラが付いている。担当は奏だ。費用は取らない」


 奏が、膝の上で両手を組んだ。指が白くなるくらい、きつく組んでいた。


「その代わりに、ツキミソウの母系の産駒の記録を、うちの配合に使わせてほしい。調教、成長、レース。数字の取引だよ」


 俺はすぐには返さなかった。コップの中の麦茶が、氷の音をひとつ立てる。


 篠宮ファームの出産厩舎は、日高でも指折りの設備だ。カメラ付きの馬房に24時間の監視。獣医の待機。仔馬が夜中に腹をこわしても、誰かが必ず気づく。こっちの古い厩舎とは、段違いだ。


 でも、それは量産の側の手を借りることでもある。数を打って当てる側の、設備と記録の中にシズクを入れることだ。俺たちはシズクと1頭ずつ向き合ってきた。それが記録になって、次の配合に使われる。悪い話じゃない。ただ、俺の手から少し離れるような気がした。


 黙っていると、貴之が静かに言った。


「借金のことは心配いらないのか。条件が要るなら、言ってくれていい」


 俺は一度、息を吸ってから答えた。


「借金は、完済しました。春に」


 事務所が、しんとした。


 宮田さんは窓の外を見たまま動かない。貴之は一瞬だけ手帳から顔を上げて、俺の目を見た。


 その沈黙を破ったのは奏だった。


「……え、聞いてない!」


 奏が立ち上がりかけて、椅子の脚が床を鳴らした。


「いつ? 春って、いつ? なんで言わないの陸!」


 早口だった。詰め寄る勢いで机に手をつく。俺は麦茶のコップを両手で包んだまま、少しだけ後ろにのけぞった。


「……言いそびれてた」


「言いそびれてたって、800万だよ? 三上さんには言ったの?」


「……三上さんにも、まだ」


 言ってから、しまったと思った。宮田さんが壁際で、音もなく麦茶を飲んでいる。この人は知っている。


 貴之は手帳の上で指を止めた。それから、少しだけ口元をゆるめた。


「そうか」


 それだけだった。数字の話は、その一言で机の上から引っこんだ。手帳のページは閉じられない。


 事務所の空気がゆっくりと元の温度に戻る。氷が、コップの中でまたひとつ鳴った。


 俺はコップを置いて、貴之のほうへ向き直った。背筋を伸ばす。


「返事は、菊花賞の後にさせてください」


 理由は、長く言わなかった。言えば言い訳になる。あの灰色の背中を思い出す。あれと京都で走るのを見てからでないと、シズクをどこに置くか決められない。俺の牧場の話だ。シズクの血の話だ。


 貴之は俺の目を見ていた。それから、手帳を閉じた。革の表紙が小さく音を立てる。貴之は、うなずいた。


 事務所を出ると、日はもう西へ傾きかけていた。


 奏の軽トラが放牧地の手前に停まっている。白いボディに跳ねた泥が、午後の光で乾いて白く浮いていた。貴之は助手席のドアの前で足を止めた。それから、俺のパーカーのポケットへ目をやった。


 ポケットは万年筆の重さで少しだけ膨らんでいる。布越しに、その形が見えていた。


「それ、権三郎さんのだね」


 声は静かだった。問いではなかった。ただ、確かめるように置かれた。


 俺はすぐには答えられなかった。ポケットの中の金属が、急に重くなる。


「……お守りです」


 それだけ言った。取り出す気にはなれなかった。出す必要もなかった。


 貴之は頷かなかった。頷かないまま、もう一言だけ足した。


「権三郎さんは、シズクが当歳の頃、うちの放牧地で長いことあの子を見ていたよ。その万年筆を握ってね」


 シズクが遠くで尾を振った。


「それから5年たって、引退したあの子を探し出して買っていった。理由は、聞かなかった」


 貴之は、事実だけを並べた。帳簿を読むのと同じ声で。俺は黙って聞いていた。


 ……爺さん。あんた、あの頃からシズクを視てたのか。俺と同じように、あの馬の能力を、あの万年筆で見てたのか。だから、5年たっても探し出して買ったのか。俺に残したのは、牧場と借金と、この万年筆だけじゃなかったんだな。


 その意味を、俺は一人で受け取った。宮田さんにも奏にも、分からない。分からせる必要もない。ただ、ポケットの中の重さが、さっきまでとは違う重さに変わった気がした。


 奏が運転席のドアを開けて、乗り込む前にこちらへ来た。俺の袖を指先でつまむ。


「完済のこと、あとでちゃんと聞くからね」


◇


 翌日、9月21日。祝日の午後、事務所の小さなテレビに阪神の芝コースが映っていた。


 ファンファーレが鳴り終わって、古いテレビの画面の中で各馬がゲートに収まっていく。宮田さんは壁際の丸椅子に座ったまま、腕を組んで画面を見ていた。


「スタートしました! まず出て行ったのは内の4番、外から2番手にテンカザクラがつけます!」


 芝の緑が画面いっぱいに広がる。先頭の馬のすぐ外に、桜庭の馬がいた。額の小さな星が、午後の光を一瞬だけ反射する。


 逃げ馬のペースは速くもなく遅くもない。後続はやや縦に長い。テンカザクラは2番手のまま、前の馬の斜め後ろで折り合っている。手綱を引くでもなく、行かせるでもなく。ただ馬自身がレースの形を分かっているみたいに映る。


「1000m通過、1分1秒8。平均ペースです。先頭は4番、2番手テンカザクラ、その後ろは馬群が固まっています」


 宮田さんが、組んだ腕を一度だけ組み替えた。


「落ち着いてるな」


「ええ」


 ……うん。この位置でこれだけ静かにいられるのは、頭のいい馬の仕事だ。前が速ければ下げるし、遅ければ自分から動ける。桜庭はこういう馬を待ってたんだろう。


 向正面から3コーナーへ。馬群がゆっくりと押し上げていく。後続がじわじわと差を詰め始める。それでもテンカザクラは動かない。2番手のまま、逃げ馬の外で呼吸を整えている。


「さあ4コーナーを回って直線! 先頭まだ4番! 外からテンカザクラが並びかけます!」


 直線に向いて、テンカザクラの馬体がひと伸びする。逃げ馬の首が上がり、脚が止まりかける。その横を桜庭の馬がゆっくりと抜いていく。焦らない。暴れない。ただ速度の差だけで前を食っていく。


「残り200! テンカザクラ先頭! 後続との差は1馬身! 1馬身半! テンカザクラ、皐月賞と同じ勝ち方だ!」


 星の馬が、そのままゴール板を過ぎる。着差は1馬身半。歓声がテレビのスピーカーから流れて、事務所の空気をわずかに震わせた。


 しばらくして画面が切り替わり、騎手のインタビューが映る。その背景に、スタンドの最前列に立つ男がいた。拍手もせず、腕も組まず、ただ馬場を見ている。薄いシャツの襟が風に揺れていた。桜庭玲司だった。


 宮田さんが、壁際で低く言った。


「……あっちも、来るな」


 宮田さんが壁際から立ち上がって、テレビの音を小さくした。


 画面の向こうで、勝った馬の背中が引かれていく。額に小さな星を載せた馬だ。前に行って、直線で抜ける。皐月賞と同じ形。中距離の、前に行く馬。


 中山で見た灰色も浮かんだ。細い脚で先頭を刻んで、坂の上でも首の高さを変えなかった。あれは逃げる馬だ。長い距離を走れる血を持った、逃げる馬。


 うちの黒鹿毛は、そのどちらの位置にも立てる。前にも、後ろにも。どこからでも行ける馬だ。


 昨日の柵の前の話が、まだ耳に残っている。


 貴之の「3000は、血が答えを出す距離だよ」は脅しじゃなかった。あの人は、手放した血がどこまで走るのか、ただ見たいだけなのだ。


 シズクの母系は、体ができるのが遅い。だから短い距離ばかり使われて、潰された。でも本当は長い距離を走る血だった。外れ血統と言われたのは、使い方が合わなかっただけだ。


 あの芦毛のしぶとさはツキミソウの血だ。同じ根っこが、うちの黒鹿毛にも流れている。表示は中距離向きと言う。血は、3000を走れると言っている。


 血か、表示か。答えは京都の3000が出す。


 京都の3000に向かうのは、星の馬と、白い逃げ馬と、――同じ血を引く、うちの馬だ。

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