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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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40/60

外枠




 10月21日、水曜日。美浦のウッドチップコースの脇で、俺は手すりに肘をのせていた。


 9月の朝にまとわりついていた湿り気は、もう抜けている。乾いた空気の向こうで、整地を終えたばかりの馬場が平らに光っていた。


 昨日、日高から奏と一緒に来た。宮田さんは牧場に残っている。厩舎の朝は、ひなた牧場よりずっと人が多い。すれ違う厩務員が会釈をして、俺はそのたびに軽く頭を下げた。


 奏が隣で小声で言った。


「研修先に休みの届け、出したらね。父さんが『行ってきなさい』って。それだけ」


「それだけ?」


「それだけ」


 奏はそう言って帽子のつばを直した。照れているのか、そうでないのかよく分からない顔だった。


 そこへ先生が来た。白いシャツにネクタイ。いつもどおりの服装で、いつもどおり淡々としている。


「今日は僚馬と横並びで出します。途中で僚馬が下がって、前を空けます。前に壁がない形を、一度体に入れておきたい」


 頷くしかない。前に馬がいないと行きたがる。夏から須賀と直してきた癖を、本番の形で試す日だ。


 ウッドコースの入口が開いた。須賀の乗ったアサツユが、同じ厩舎の僚馬と並んで入ってくる。黒鹿毛の首が低く、僚馬の鹿毛と歩調が揃っている。


 2頭が並んで、6ハロン棒の前を過ぎた。


 3コーナーの手前で、僚馬が半馬身ほど下がった。


 隣にいた鹿毛の首が、視界の端へ下がっていく。アサツユの前にも横にも、馬がいない形になる。空っぽのウッドチップが、黒い馬の目の前に広がった。


 先週の1週前追い切りは、先生から動画が届いた。前に馬を置いて、最後まで我慢していた。


 9月2日の1週前追い切りでは、ここで首を上げた。行きたがった。空いた前へ、自分から突っ込もうとした。


 今日は、違った。


 首が上がらない。耳が前を向いたまま、肩の線が変わらない。須賀の手の中で、ハミを受ける角度がそのまま保たれている。我慢している。我慢というより、もう、そういう走り方を選んでいる。


 俺は手すりを握った。


 隣で奏が息を詰める気配がした。朝の乾いた空気が、馬の脚音だけを運んでくる。


 直線に入って須賀が軽く促した。手首を返すだけの合図。鞭は使わない。アサツユの首が低く沈んで、脚が一気に硬い音を刻み始める。僚馬との間隔は、半馬身のままゴール前を過ぎた。


 先生がストップウォッチを止める。針の音まで聞こえてきそうな静けさで、数字を読んだ。


「終い、11秒6」


 少し間を置いて、先生が言った。


「……覚えましたね」


 俺は何も返さず、ポケットの中の万年筆に触れなかった。指先は、パーカーの布の上で止まっている。数字の変化はレースの後にしか見ない。自分で決めたことだ。


 乾いた風が、馬場の上を一度だけ走り抜けた。


 須賀が馬場を出たところで下馬すると、アサツユはもう息を整えていた。奏が近づいて、首筋に手のひらを当てる。何か言うでもなく、目だけを馬の肩に走らせて落ち着いているのを確かめていた。


 アサツユは首を曲げて須賀のヘルメットを鼻先でつついた。いつもの癖だ。須賀は軽く首をすくめて、それを受け流す。


 須賀は手綱を左手に持ち替え、先生のほうへ向き直った。


「前が空いても、待てました。折り合いは先週より確実にいいです」


 先生は小さく頷いた。


 それから須賀は鞍の腹帯をゆるめる手を止めて、こちらを見た。小柄な体が朝の光を背にしている。まっすぐに俺の顔を見て言った。


「スタンド前の練習だけは、トレセンじゃできないんです。……あとは、京都で」


◇


 翌日、木曜日。午後2時を少し回ったころ、俺たちは先生の厩舎の事務所で、机のパソコンの画面をのぞき込んでいた。


 事務所にいるのは、先生と奏と俺の3人だけだ。宮田さんは日高で、土曜に京都で合流する。


 菊花賞の枠順が出た。18頭立て。画面を上から順に見ていく。


 シロガネノミチは2枠3番。内だ。逃げるには好都合だと俺は思う。あの細い脚が内ラチ沿いを淡々と刻む光景が、いま目に浮かぶ。テンカザクラは5枠10番。真ん中。星の馬はどこからでも走る。


 アサツユは8枠17番。大外の、1つ内。


「外……」


 奏がそれだけ言った。声は低く、事務所がしんと静まりかえる。俺は17番の数字をしばらく見ていた。ほとんど大外だ。


 ニュース欄が、画面の右端で勝手に動く。


「菊花賞、ダービー馬は8枠17番。外枠で割引か」という見出しが、小さく並んだ。その下に「京都3000、8枠は近年苦戦傾向」と青い文字が続く。俺は黙ってそれを読んだ。別の見出しが入れ替わって「セントライト記念を逃げ切ったシロガネノミチは好枠2枠3番」と流れる。


 奏が、画面から目をそらした。


 先生が画面から目を離さずに言う。


「外は、最初の坂を上る間に前に入れる馬を探せない。1周目のスタンド前まで、壁がないかもしれません」


 昨日の追い切りで見た形が、頭の中でゆっくりと動き出す。僚馬が半馬身下がって、前が空っぽになった。あのときアサツユは我慢した。首を上げなかった。それはトレセンの、静かな朝の話だ。本番ではそこに歓声が乗る。ダービー馬、ダービー馬とスタンド全体が名前を呼ぶ。あの音の中でも、同じ我慢ができるか。


 京都の1周目、スタンドの前。前が空いている。


 奏は何も言わない。俺も言わない。画面の中の17番だけが、しんとした事務所の空気を背負っている。


 机の上で、先生の携帯電話が震えた。


 電話は須賀からだった。先生が画面を見て「須賀です」と言い、携帯をこちらへ差し出す。俺はスピーカーにして机に置いた。


「オーナー、枠順見ました」


 須賀の声は落ち着いていた。周囲に馬の気配はなく、静かな場所からかけているのが分かる。


「外なら、外で考えます」


 短く、それだけを先に言った。言い訳でもなければ、意気込みでもない。ただ確認するような声だった。


 一拍置いて、須賀が続ける。


「……オーナー、当日は何か言いますか」


 皐月賞の前もセントライト記念のパドックでも、俺は須賀に短い目印を渡してきた。今回はどうするのか。そういう問いだ。


 俺は少し考えてから答えた。


「当日に、決めます」


「分かりました」


 須賀はそれだけ言って、電話を切った。


 事務所に、機械の通話終了音が小さく響いて消える。


 先生が壁の予定表へ目をやってから言った。


「馬は明日の朝、美浦を出ます。夕方には京都に入る予定です」


 俺は頷いた。


 奏がパソコンの画面を見たまま、静かに言った。


「……アサツユは、外でも大丈夫だよ。先週より、ずっと落ち着いてる」


◇


 同じ木曜の夜。桜庭ステーブルの繁殖牝馬の厩舎で、桜庭玲司は通路の照明を一段ずつ落としていった。


 馬が眠る前に照明が急に消えないよう、通路側から順に絞っていく。誰に教わったのでもない、馬を驚かせないための彼自身の癖だった。


 すべての馬房を回り終えて玲司は外へ出た。秋の夜気がシャツの上から腕を冷やしていく。自宅へ続く敷地内の道を、足音を立てずに歩いた。テンカザクラはここにはいない。菊花賞へ向けて、栗東の厩舎にいる。


 部屋に入って上着を脱いだところで、机の上の携帯電話が震えた。画面の表示を見て、玲司は姿勢を正すようにしてから通話ボタンを押した。


「玲司」


 父の声だった。


「菊は勝て」


 短い断定だった。前置きもなければ、結果以外の選択肢もない。


「……はい」


 玲司は一段低い声で答えた。喉の奥に、息がひとつ残る。その息をゆっくり吐き出してから、彼は初めて口にした。


「ただ、3000は、グランクレストの産駒が勝っていない距離です」


 電話の向こうは、一瞬だけ静かになった。夜の空気がそのまま電話口に詰まっているようだった。


「だから何だ」


 父はそれだけ言って、電話を切った。


 玲司は通話の切れた携帯電話を机の上に伏せて置いた。


 部屋の明かりを落とし、玲司は机の上のタブレットを手前に引き寄せた。画面が淡く浮かび上がる。菊花賞の出馬表だった。


 上から順に馬名を追っていく。2枠3番、シロガネノミチ。指が止まった。母ユキノイズミ、その母ツキミソウ。玲司はしばらくその2つの名を見ていた。セントライト記念の映像が頭の隅でゆっくり再生される。細い脚の芦毛が、最後まで同じリズムで先頭を刻んでいた。


 彼は出馬表を閉じ、社内の血統データベースを開いた。検索欄に「ツキミソウ」と打つ。表示された繁殖成績の一覧を、玲司は無表情でスクロールした。娘の1頭に、ツキノシズク。その下の産駒の欄に、アサツユの名前があった。


「……同じ母系か」


 声は部屋の静けさに吸われて消えた。


 タブレットを机に置き、椅子の背にもたれる。天井を見て、もう一度だけ出馬表に目を落とした。8枠17番アサツユ。2枠3番シロガネノミチ。同じ根っこから伸びた2頭が、長い距離にいる。


 テンカザクラは5枠10番。父グランクレストの産駒は、3000を勝っていない。玲司はその事実を、誰に言うでもなく胸の内で並べた。数字で見るなら、今回の舞台は自分の馬に向いていない。データベースの画面を閉じ、ブラウザの履歴からひなた牧場のホームページを開く。古い写真のツキノシズク。繁殖牝馬の紹介欄に載っていた、痩せた背中の牝馬。彼はその写真を一度だけ見て、タブレットを伏せた。


 玲司は伏せたタブレットの縁に指を置いたまま、画面の向こうに並んでいた数字をひとつずつ思い返した。


 ツキミソウの孫の欄。シロガネノミチは、勝ち鞍に2200がふたつ。アサツユは、日本ダービー2400。どちらも距離が延びるほど、勝ち星が伸びている。


 グランクレストの産駒。重賞を勝った馬の行を指でなぞった記憶がある。2000、2200、2400。3000の欄だけが、どこを見ても空いていた。


 データで言えば、不利なのは自分の馬だ。玲司はそれを認めた。認めたうえで、タブレットを裏返したまま一度だけ息を吐く。


 会長には、不安を口にした。電話の向こうで「だから何だ」と言われて、それ以上は何も返せなかった。返す必要もなかった。結果で示すだけだ。


 前に行って、直線で抜ける。皐月賞でも神戸新聞杯でも、あの馬が一番強く走れる形は変わらない。距離が延びようと、それを曲げる気はない。曲げたら、勝てるものも勝てなくなる。


「数字は、僕に不利だと言っている。……だったら、数字の外で勝つしかない」


 玲司はタブレットを手に取り、開いたままだったひなた牧場のページを閉じた。それから、京都の天気予報を開く。

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