1周目
10月25日、日曜日。京都競馬場の空は、秋らしく高かった。
スタンドの向こう、内馬場の真ん中に、大きな池がある。
淀の池は、思ったより静かだった。
水面が秋の空をそのまま映している。東京の、あのダービーの日の熱とは違う。スタンドの声は遠く、足元の芝の上を風が低く流れていた。長い距離を見に来た客の熱は、叫ぶより先に息を詰める。そういう音が、競馬場のあちこちに溜まっていた。
昨日、俺と奏は美浦から来た。宮田さんは日高から来て、京都駅で落ち合った。今朝、3人で競馬場へ向かう道を、ほとんど喋らずに歩いた。
アサツユは金曜の夕方に京都へ着いた。カイバは全部食べたと、担当の報告を先生から聞いた。それだけ聞けば、あとは何もいらない。
宮田さんが、スタンドを見上げた。首をゆっくりと反らせて、屋根の線を目でなぞるようにしてから、低い声で言った。
「先代と、京都は来たことがねぇ」
それだけだった。俺も奏も何も返さなかった。返す言葉が、この空の下にはなかった。
池の向こうで、内馬場の芝が光っている。パドックの放送が、風に乗って切れ切れに聞こえた。馬主席へ向かう通路の入口が、すぐそこにある。俺はポケットの中で万年筆の尻を一度だけ親指で押さえた。
通路の角から、桜庭玲司がこちらへ歩いてきた。いつもの丁寧な笑みを唇の端に置いて、俺の前で足を止めた。
「今日は3頭だね、日向くん」
「3頭?」
俺は聞き返した。声は自分でも平坦だった。
「テンカザクラと、アサツユと、シロガネノミチ。芦毛のシロガネノミチとアサツユは母系が同じだろう。祖母がツキミソウだ」
玲司は指を折るでもなく、ただ並べるように言った。通路の向こうで観客の波が動いている。
「僕も調べたんだよ。データは、嘘をつかないからね」
俺は表情を変えなかった。ポケットの中で万年筆に触れていた指だけ、ゆっくりと離す。
知ってたのか。
9月、日高で篠宮さんの口から聞くまで、俺はずっと知らなかった。母系の名前も、その先の血も。なのにこの人は自分のデータの中から、もう同じ場所へたどり着いている。
奏が黙って玲司を見ていた。宮田さんが一度だけ玲司を見て、何も言わずに視線を内馬場へ戻す。
「17番。僕なら、嫌だね」
「……おかげさまで」
玲司は小さく笑った。唇の端だけで笑う、あの笑い方だった。
玲司の視線が、通路の奥へ動いた。離れたところに薄いグレーのジャケットが見えた。篠宮貴之だった。こちらに気づいて、軽く会釈する。俺も頭を下げる。貴之はそれだけで、こちらへは来なかった。奏が父の姿を見つけて、一瞬だけ目を伏せた。何も言わない。言う必要もない。
玲司はすでに背を向けていた。歩き出しながら、振り向かずに一言だけ置いていく。
「――逃げるなよ、とはもう言わないよ」
ダービーの翌日の、電話の声が耳の奥で一度だけ再生された。
玲司の背中が馬主席へ向かう人の波に混ざり、そのまま消えた。
◇
パドックの周回は、もう始まっていた。
周回の中ほどに、テンカザクラがいる。額の小さな星が、秋の日差しの下でひとつだけ光る。その少し前に、芦毛の細い脚が見えた。シロガネノミチだ。首が長く、胸前が薄い。あの中山の坂をこの脚で先頭のまま登り切った。列の後ろのほうを、担当さんに引かれて黒鹿毛が歩いてくる。8枠17番のゼッケン。外から2番目の、17番。
パドックの奥の大型ビジョンに、単勝のオッズが出ていた。馬場は、芝の良。
テンカザクラ2.8倍。アサツユ3.6倍。シロガネノミチは9.4倍で4番人気だ。ダービー馬が1番人気ではない。近くの客が短く言う。
「3000だしな。外の17番だし」
「京都の外枠は、買いにくいよな」
俺は数字を見ただけだった。心は動かない。馬は数字で走らない。
奏が隣で小さく言った。
「……みんな、分かってない」
俺はビジョンから目を外し、周回の後ろのほうを歩く黒鹿毛へ視線を戻した。
俺はパーカーのポケットに右手を入れた。
万年筆の軸を、指の腹でそっと握る。ひやりとした金属の感触が、手のひらに伝わる。目を閉じない。アサツユを、まっすぐに見る。
【スピード:A+】
【スタミナ:A+】
【パワー:A】
【根性:A+】
【賢さ:A+】
【隠れ適性:中距離向き】
【隠れ適性:良馬場巧者】
【隠れ適性:自在】
表示は、何も変わらない。夏の終わりと同じだ。中山のパドックと同じだ。俺はその中の一行を、今度は正面から見る。
【隠れ適性:中距離向き】
中距離向き。そう書いてある。2400までがいい、という意味にも読める。3000は、この馬には長いのかもしれない。皐月賞の2000、ダービーの2400、セントライトの2200。そのどれも、この馬は走ってきた。でも3000は、まだ一度も走っていない。
それでも、この表示は「走れない」とは書いていない。中距離向き、というだけだ。何ができるかの手がかりでしかない。何が起きるかは、書いていない。決めるのはこの表示じゃない。
乗っている人が決める。この馬が、決める。
俺は右手を、ポケットから抜いた。
テンカザクラの額の星も、シロガネノミチの芦毛もちらりと見ただけだ。あの2頭の数値は、もう知っている。ここで確かめ直す必要はない。今、見るべき馬はこの黒鹿毛だ。
「止まれ」の合図がかかった。
騎手たちが控え室の前に整列し、一礼してから、それぞれの馬へ散っていく。色とりどりの勝負服が、秋の日差しの下に並ぶ。俺の体温は、さっきからずっと低いままだった。
柵の内側へ足を踏み入れる。奏が隣にいて、宮田さんが半歩後ろにいた。先生も、いつの間にか俺たちの列の端に立っている。
白に青の二本輪。須賀がまっすぐこっちへ歩いてきた。小柄な体の輪郭が、光の中でくっきりと見える。
「オーナー、今日は何かありますか」
木曜の電話の、続きだった。声は静かで、震えていない。
俺は首を振った。
「何も、ありません。須賀さんが決めてください」
須賀は一瞬だけ目を丸くした。それから、笑わずに、深くうなずく。
「……はい」
それだけだった。
宮田さんは須賀には何も言わなかった。代わりに、アサツユの首のところへ手を伸ばす。ごつい指の背で、黒鹿毛の首筋を一度だけゆっくり撫でた。それから半歩下がって、俺の隣に並んだ。
担当さんに脚を持ち上げてもらい、須賀がアサツユに跨る。アサツユの耳が、すっと前に向く。
全部、預けた。
◇
スタンドの最前列で、俺はゲートの向こうを見ていた。
遠い。京都の3000はやっぱり遠い。向正面の奥、3コーナーの手前の上り坂に18の馬体が点のように並んでいる。奏が隣で双眼鏡を構えた。宮田さんは、動かない。
ファンファーレが、秋の空に吸い込まれていく。
ゲートが、開いた。
「スタートしました。まず内からシロガネノミチ、行きます。外からテンカザクラも前へ。17番アサツユは外のままです」
芦毛が、内ラチ沿いを迷いなく先頭へ出る。あの細い脚がもうリズムを刻み始めていた。その外、星の馬が前から3番手につける。アサツユは、外から出たまま前に入れる馬を探している。
3コーナーまでの距離が短い。内へは入れない。黒鹿毛の外には、まだ何頭かの馬が並んでいる。1頭分の隙間を縫うようにして、外のまま下り坂へ差しかかった。
「1周目の3コーナーを回って、馬群が下り坂で少しずつ縦に伸びていきます。先頭シロガネノミチ、2番手の外にテンカザクラ。アサツユはまだ外、6番手の外です」
前が、詰まらない。代わりに、どこまでも空いている。あの黒い馬が外を回されたまま、自分の脚で下りを我慢している。須賀の手の内で、首の角度がまだ保たれている。歓声が遠い。全部、まだ。
4コーナーを回って、馬群がスタンド前の直線へ向く。
馬群がスタンドの前に差しかかる。一瞬、空気が変わった。
声だった。ダービーのときの叫びとは違う。あの日はゴール前で地面が揺れた。今日の声は、もっと低くてもっと広い。何かが起きる前の、息を溜める音だ。何も決まっていない。まだ何も始まっていない。その何も始まっていないものを、スタンドじゅうが同時に飲み込もうとしている。
俺は手すりを握らなかった。叫ばなかった。体温は低いままで、指先だけが冷たい。ポケットの中の万年筆に触れもしない。ただ見ている。黒鹿毛が、遠くからこっちへ向かってくる。
奏の双眼鏡が途中で止まった。レンズを目に当てたまま動かない。宮田さんは、首だけを馬群のほうへ向けている。
「先頭はシロガネノミチ、1馬身半ほどのリード。2番手、3番手の外にテンカザクラ。アサツユはその斜め外、前から5番手」
外枠から出たなりだ。内には入っていない。入れないまま、外を回ってきた。アサツユの前には、誰もいない。テンカザクラの斜め外。先行集団の、いちばん外。壁のないまま、黒鹿毛は歓声のど真ん中へ入っていく。
須賀は手を低く構えている。手綱は緩めず、締めもしない。首の角度を変えずに、馬の行く気を掌の内側で押さえている。
1周目のスタンド前で、アサツユの首が、上がった。




