3000メートルの答え
首が上がった。あの黒い馬が、外のまま、行く気を隠さずに前へ出ようとする。
須賀は引っ張らなかった。
手綱を締めて止めるのでも緩めて好きに走らせるのでもない。半馬身ずつ、半馬身ずつ。首の上がった分だけ、手の内でゆっくりと下げていく。あれは我慢させているんじゃない。落ち着かせながら、別の場所へ連れていこうとしている。
「先頭シロガネノミチ、依然1馬身半。アサツユ外から徐々に内へ進路を取っていきます。テンカザクラの後ろへ入れていきます」
黒鹿毛の脚が、少しずつ内へ寄っていく。外から回されたまま、ぽっかり空いた前を走る馬が段々と星の馬の後ろへ収まっていく。
1コーナー。アサツユはテンカザクラの真後ろ、前から4番手にすっと入った。
奏が双眼鏡を下ろした。レンズを握った手が、そのまま止まる。
「……入った」
短く、それだけ言った。
俺は、その背中を見ていた。星の馬の背中が、前の壁になる。さっきまで何もなかった前が、いま塞がっている。あの壁をアサツユは嫌がらない。嫌がるどころか、首がすっと下がっていく。
須賀は、自分の目でこの場所を選んだ。パドックで俺は何も言わなかった。何も渡さなかった。だからあの小さな騎手は、18頭の並びの中から自分でこの1頭分の隙間を見つけた。
2コーナーを回って、馬群が向正面へ入っていく。
向正面へ出ると音の層がひとつ薄くなった。スタンドの声が、風に押し流されて後ろへ抜けていく。
馬群は縦に伸びていた。先頭の芦毛が2馬身ほど抜け出して、内ラチの白い棒を規則的に飲み込んでいく。2番手に星の馬。その真後ろ、内寄りの3番手に黒鹿毛がいた。首は低い。星の背中を、ちょうど盾みたいにして走っている。
「先頭シロガネノミチ。2番手テンカザクラ。3番手の内、アサツユ。2000メートルの通過は2分4秒1。平均的な流れです」
2000メートル。残りは1000だ。頭の中で、勝手に数字が動く。
坂も、4コーナーの下りも直線も、まだ全部残っている。ここで喜ぶのは早い。俺は、ポケットの中の手を動かさなかった。冷たい指先が、布の内側でじっとしている。
隣で奏が、下ろしていた双眼鏡をもう一度持ち上げた。肘を脇につけて、呼吸を殺すようにレンズを固定する。宮田さんは、帽子のつばの下から黙って馬群を見ている。
アサツユの脚はまだ軽い。軽いのに、無駄に跳ねていない。星の馬の後ろで、地面を叩く音がひとつずつ正確に聞こえてくるような気がした。
「各馬、坂の頂上へ」
坂の上りで、星の馬が動いた。
手綱が動く。テンカザクラが外へ持ち出されて、一気に先頭との差を詰めにかかる。前のめりというより、全身で地面を押し潰すような加速。パドックの2.8倍が、ここで本気になった。
俺の喉が、ひどく乾いている。
「テンカザクラ、2周目の坂の上りで早めに先頭へ並びかけていきます! これは強い!」
実況の声がスタンドを叩く。俺は手すりに両手をついた。指が食い込む。
その瞬間だった。
黒鹿毛が、勝手に外へ出た。
須賀の合図じゃない。星の馬が開けた外へ、アサツユが自分から出ていく。首が低い。地面を蹴る音が、ひとつずつ重くなっていく。内でじっとしていた脚が、ここで初めて解けた。
え、ちょっと待て、須賀はまだ何もしてない。あいつが勝手に、いや、手綱を引いてない。引かずに拳を前へ出した。止めない。行かせてるんだ。
「アサツユ、外へ持ち出した! テンカザクラの外から一気に進出!」
俺の心臓が、一気にうるさくなる。喉の奥で、声にならない声が暴れている。
そうだ、それでいい。お前は待ってたんだろ。あの星が動くのを。前が開いたら行くって、最初から決めてたんだろ!
星の馬が並びかけた芦毛の外。黒鹿毛が、そのさらに外から覆い被さるように伸びてくる。3頭の脚が、坂の頂上でぴったりと揃った。
後ろの馬群が一瞬で遠くなる。離れていく。追いかけてくる脚音が、風に薄まって消えていく。
奏が隣で、息を全部吐き出すみたいに言った。
「……行った」
宮田さんは何も言わない。ただ、手すりを握ったまま3頭の塊を目で追っている。
俺の視界の端で全部が速くなる。芝の色も空の色も、溶けて混ざるみたいに流れていく。
4コーナーを回って、3頭が横に並んだまま直線を向く。
直線に入って、3頭の影が芝の上でひとつに重なる。
「残り400、シロガネノミチ、テンカザクラ、アサツユ3頭が横一線!」
芦毛の脚が、まだ止まらない。あの細い脚が、セントライト記念と同じ刻みで内ラチの白い棒を飲み込んでいく。星の馬が真ん中で食らいつき、黒鹿毛が外から被さる。俺は手すりを叩いていた。掌が痛いのも分からない。
残り200。星の首が、上がった。
「テンカザクラ、苦しくなって後退! 残るは芦毛と黒鹿毛!」
星が沈んだ。あの額の星が視界の端で小さくなっていく。能力の数字がどうだとか、そんなもんはもうどこにもない。今ここで脚を動かしている2頭しか、俺の目には映っていない。
「残り100! シロガネノミチとアサツユ、並んだ!」
芦毛の首の振りが、変わらない。逃げてきた馬がまだ同じリズムで首を振っている。黒鹿毛の首が、その真横でぴたりと揃って上下する。2本の首が、重なって見える。須賀の鞭が振り下ろされる。そのたびに黒い馬体が前へ出る。出て、また並ばれる。
俺は叫んでいた。
「同じ婆さんの血だからって、首の振りまで揃えてくんじゃねえ!!」
喉が裂けるみたいに熱い。
残り50。芦毛の首と黒い首が、まだ同じ高さにある。
俺の喉の奥が声にならない音を吐き出した。手すりを握る指に血が通っていない。息を吸うたび、肺の奥までスタンドの熱が入ってくる。
残り30。黒鹿毛の脚がひと伸びごとにわずかに前へ出る。芦毛の首が、それでも並び返そうと横に振れる。二つの馬体が、音を立てて擦れ合うように見えた。
残り10。アサツユが半歩、前へ出た。
そのまま、ゴール板を過ぎる。
「アサツユ、わずかに前か!」
実況の声が、スタンドの空気を割る。どよめきが、地面の底から揺れるみたいに広がっていく。黒い馬が、先に板を過ぎた。それだけを、目が覚えている。
「アサツユ! ダービー馬が淀の3000も制しました! 二冠達成!」
「中距離の血で3000をもたせやがった」
「外枠からだぞ」
「芦毛もよく粘ったな」
スタンドのどよめきが波のように押し寄せては引いていく。俺はその声を聞いていた。奏が隣で双眼鏡を握ったまま動かない。宮田さんは帽子のつばの下で、口を結んだままだ。俺は何も言えなかった。
呼吸が浅い。俺は動けなかった。手すりに両手をついたまま、首だけを着順表示板へ向ける。
電光掲示が、白く光る。数字がひとつずつ並んでいく。
1着、17番。
2着、3番。
3着、10番。
着差、3/4馬身。
着順の数字は、まだ点滅していた。
俺は、その数字を目で読んだだけだった。声は出なかった。叫ばなかった。勝った。勝ったんだ。頭では分かっているのに、身体がまだ追いついていない。
隣で、奏が動いた。
彼女の手が、俺の右腕をつかんだ。指がパーカーの袖に食い込むくらい強く。声はない。ただ、その手が震えている。言葉を探した。見つからない。
その向こうで、宮田さんが帽子を取って、空を一度だけ見上げた。
◇
検量室の前は、さっきまでの歓声が嘘みたいに静かだった。
須賀がアサツユから下りて、鞍を抱えたまま検量室へ入っていった。少しして出てきた白と青の勝負服が、こちらへ歩いてくる。小柄な肩が、息をするたびにゆっくり上下していた。
「オーナー」
息を整えてから、須賀は静かに言った。
「首が上がった時、オーナーが何も言わなかったのを思い出しました。……だから、自分で場所を探せました」
俺はうなずいた。喉の奥がまだ乾いている。言葉を選ぶ余裕はなかった。
「いい場所でした」
それだけ言った。須賀は小さく頭を下げた。
しばらくして、確定のアナウンスが流れた。
先生は白いシャツにネクタイのまま、黙って一度だけうなずいた。何も言わない。言う必要もない、という顔だった。
宮田さんは帽子を手に持ったまま、アサツユの首筋に手をやっている。奏は俺の袖から手を離さない。離す気もないらしい。
俺はパーカーのポケットの中で、万年筆を握った。
アサツユは担当さんに引かれて、首を低くしたまま息を整えていた。汗で黒い毛が濡れて光っている。
【スピード:A+】
【スタミナ:A+】
【パワー:A】
【根性:A+】
【賢さ:S】
そこで一度、目が止まった。パドックではA+だった行が、Sになっている。アサツユの表示で、初めて見るSだ。驚きは、胸の奥で小さく沈んだ。叫ぶような熱はもうない。ただ、ああ、と思った。
我慢を覚えた、ということをこの馬の賢さが一番先に追いかけてきた。須賀の手の中で場所を探して、見つけて勝ち切った。その事実を、数字がひとつだけ動いて示している。
続く3行に、目を移す。
【隠れ適性:中距離向き】
【隠れ適性:良馬場巧者】
【隠れ適性:自在】
パドックと何も変わらない。中距離向きのまま、3000を勝った。表示は答えじゃない。手がかりだった。走れるかどうかを決めるのは、この表示でもなければデータでもない。馬と、乗り手だ。
俺は万年筆から指を離した。
ウイナーズサークルに、アサツユが引かれてきた。
口取りの輪に入る前に、奏が先にアサツユへ歩み寄った。
彼女は片膝をつくように腰を落として、前脚から順に腱や球節のあたりへ手のひらを当てていく。汗で濡れた黒鹿毛の下を、指先で確かめるようにゆっくりと。それから鼻先に手を当てて、呼吸の戻りを確かめた。
「大丈夫」
顔を上げて、俺を見て笑った。ダービーの日の、泣き笑いみたいな顔じゃない。ただ、安心したような普通の笑い方だった。
須賀がもう一度アサツユに跨る。勝負服の白が、秋の光にやけにきれいに見えた。先生と宮田さんと奏と俺が、黒鹿毛の横に並ぶ。
ウイナーズサークルの芝を踏む音だけが、静かに聞こえる。
アサツユが、ふいに首を伸ばして隣に立つ宮田さんの帽子のつばを鼻先でつついた。帽子が傾く。宮田さんは無言のまま、片手で帽子を直した。
俺は何も言わなかった。
勝った。長い距離を、外枠から。ただそれだけが胸の底に低く沈んでいる。
ただ、心の中でひとつだけ。
見てたか、爺さん。
シャッターの音が、二度鳴った。
ウイナーズサークルを出たところで、薄いグレーのジャケットが見えた。篠宮貴之だった。白いシャツに手帳を持って、静かにこちらへ歩いてくる。奏の指が、俺の袖を一度強く引いた。
「血が、答えを出したね。……1着と2着、どちらもツキミソウの孫だ」
皮肉ではなかった。本当にそう思っている声だった。俺は少し間を置いて、貴之の目を見た。
「返事は、牧場でします。……奏も一緒に」
奏は父と俺を一度ずつ見て、小さくうなずくだけだった。
「待っているよ」
貴之はそれだけ言って背を向け、人の流れの外へ静かに歩いていった。薄いグレーの背中が、秋の光の中で遠ざかる。
通路の先で、検体採取所へ引かれていくテンカザクラを、桜庭玲司が見送っていた。
あの星の馬は、もう首を下げて歩いている。走り終えた馬の静けさだった。
玲司がこちらを見た。挑発の笑みはない。ただ、事実を口に載せる声だった。
「3着か。……君の馬の後ろに、もう1頭いる景色は初めてだよ」
「桜庭さん」
俺はそれだけ返した。勝ち誇る気は、起きなかった。起きるはずもない。あの芦毛が最後まで同じ首の振りで来たのを、俺も見ている。
玲司の携帯が震えた。画面を見て、彼は逃げなかった。耳に当てて、こちらを向いたまま先に言った。
「負けました」
聞こえない声が短く返す。玲司は小さく頭を下げ、そのまま俺に一度だけ会釈して、人けの少ないほうへ歩いていった。背中が通路の角で消える。
俺は一人になった。
スタンドの端まで戻って、手すりに寄りかかってターフを見る。秋の日はもう傾いている。芝の上の影が、さっきより長い。牧場に帰ったら、返事がひとつ待っている。
二冠目は、京都の3000メートルだった。




