淀のあとで
10月26日、月曜日の昼。伊丹空港の搭乗口の前のベンチで、俺は紙コップのコーヒーを膝にのせていた。
隣に座った奏が、スマホの画面をこっちへ向けてくる。
「これ、見出しが全部アサツユ。『二冠、京都の空へ』。朝から何回も見てるけど、やめられない」
彼女は片手で画面をスクロールしながら、スポーツ紙のネット記事を読み上げる。
「……『8枠17番から完璧な折り合い』。須賀さん、すごい褒められよう。あと『祖母の血が証明した3000メートル』。ふふ、私たちが知ってるやつ」
奏の声は明るい。昨日のレースの続きを反芻して、ひとつひとつ確かめるみたいに笑う。
「でね、これ。掲示板」
彼女がスマホを傾けると、そこには競馬板のスレッドが開いていた。タイトルは「菊花賞 17番アサツユが二冠達成」。俺は紙コップを片手に、画面を覗き込む。
奏の向こう隣では、宮田さんが売店で買ったスポーツ紙の1面を広げたまま動かない。あの無口な人が、同じ紙面をずっと見ている。アサツユの写真と、3頭の着順が大きく載った1面だ。宮田さんは何も言わない。ただ、紙面を膝の上で両手に持っている。
俺の視界の端でその紙面が微かに揺れていた。空調の風のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
掲示板の書き込みが、白い背景に淡々と並んでいる。
101:名無しの坂路民 ダービー馬が淀の3000も勝った 中距離馬だの外枠だの言われてたのにな
102:名無しの坂路民 8枠17番でこれ もう枠とか関係ないんだよ、強い馬はどこからでも勝つ
103:名無しの坂路民 1周目で首が上がった時は終わったと思った そこから内に入れて我慢させるって普通できない
104:名無しの坂路民 須賀の判断が神 テンカザクラの真後ろに入れたのは騎手の腕だろ
105:名無しの坂路民 母親は1400以下しか走ってない血統で二冠って、血統派全員死んでない? 配合どうなってんだ
106:名無しの坂路民 「中距離馬」って言ってたやつ息してる? 3000勝ったぞ おーい
107:名無しの坂路民 1着と2着の祖母が同じツキミソウ 血統的には大発見だよな 2000過ぎても持つ牝系ってことだ
108:名無しの坂路民 篠宮の芦毛と同じ牝系かよ あの薄い馬が2着で粘るのも納得だわ
奏が親指で画面を送る。白い背景の文字が、するすると上へ流れていく。
215:名無しの坂路民 夏に「3000は無理、中距離馬」って書いたの俺です、すみませんでした
216:名無しの坂路民 牧場主がインタビューで「まだ誰も試していません」って言ってたの、鼻で笑ってた 試したら勝ったな
217:名無しの坂路民 公民館、今日も酒が出てる
218:名無しの坂路民 それ昨日も聞いた
219:名無しの坂路民 で、有馬どうすんの
220:名無しの坂路民 ハヤテノオウが秋三冠に王手かけたら、有馬で3歳二冠とぶつかる
221:名無しの坂路民 ハヤテノオウは来週の天皇賞・秋から
222:名無しの坂路民 去年の有馬と今年の宝塚を勝った5歳と、3歳の二冠馬 見たすぎる
俺の目は、さっきの「息してる?」に戻っていた。
画面の文字を俺はもう一度最初から読んだ。何度読んでも同じことが書いてある。
昨日見た「中距離向き」の行は、勝った後も消えていない。レースが終わって、検量室の前で見た時も同じ場所に同じように並んでいた。
3000を勝っても、消えない。掲示板の誰かが「息してる?」と書くたびに、俺のポケットの中の万年筆がほんの少しだけ重くなる気がした。
「陸?」
奏が画面越しにこっちを見ていた。俺はスマホから目を離して、紙コップを膝の上で回す。
「……みんな、よく見てるな」
それだけ言った。奏は一瞬きょとんとして、それから小さく笑って画面を自分のほうへ戻した。
宮田さんはまだスポーツ紙を広げていた。1面を、めくらない。アサツユの写真の上で、指が止まっている。
搭乗の案内が流れた。3人で立って、列に並ぶ。宮田さんが紙を畳む音が、やけにゆっくり聞こえた。
機内に入って、窓側に奏、真ん中に俺、通路側に宮田さんが座った。シートベルトを締める音が、あちこちでカチカチと鳴っている。
奏がスマホを閉じて窓の外を見た。駐機場の向こうに、雲の切れ間が見える。
「……二冠だって」
◇
10月27日、火曜日の夕方。ひなた牧場の事務所の電話が鳴ったのは、ちょうど飼い付けを終えて長靴を脱いだときだった。
受話器を取ると、先生の声だった。あの変わらない、静かな声だ。
「オーナー。アサツユの件で」
俺は片手で受話器を押さえたまま、机の向こうへ目をやった。宮田さんが座っていた。椅子の背にもたれて、こっちを見ている。何も言わない。ただ、聞く体勢に入っていた。
「菊花賞の翌日に京都から美浦へ戻しました。カイバは食べています。脚元も問題ありません」
淡々と、ひとつずつ置くように言う。俺は「はい」とだけ返した。
「このあと、美浦の近くの外厩へ短期で出します。そこで一度、楽をさせます」
俺は受話器を持ち替えた。机の向こうで、宮田さんの視線は動かない。
「そのうえで、選択肢は2つです」
先生は少し間を置いた。
「ジャパンカップ。東京の芝2400。ダービーと同じ舞台です。菊花賞から5週」
俺は黙って聞いていた。
「有馬記念。中山の芝2500。菊花賞から9週」
それから、同じ調子で付け足した。
「どちらでも、オーナーの決めた方で仕上げます」
受話器を耳に当てたまま、俺は壁のカレンダーへ目をやった。11月29日、ジャパンカップ。12月27日、有馬記念。日付の上の空白がやけに広く見えた。
「先生」
俺は受話器を少しだけ握り直した。
「有馬記念で、お願いします」
「間隔を取ります。菊花賞は3000でした。立て直す時間が欲しい」
声は自分でも静かだった。先生は何も言わずに聞いている。
「それと、中山です。あの坂はアサツユが一番脚を使える場所です。皐月賞で追い込んだ馬です。宮田さんも言ってました。あの馬は坂で脚を使う馬だと」
宮田さんが椅子に座ったままちらりとこちらを見た。何も言わない。ただ、目だけが動いた。
口には出さない理由が、もうひとつある。
シロガネノミチも、たぶん有馬に来る。スタミナのある逃げ馬に、中山の2500は合いすぎる。あの馬が来るなら、なおさらここで受ける意味がある。
「有馬記念で、仕上げます」
先生の声は、要件をひとつ確認するときのあの静かな調子だった。
電話が切れた。
受話器を置くと、カチッという音が事務所に残った。
宮田さんが椅子にもたれたまま、ぼそっと言った。
「……年末か」
少し間があった。時計の秒針がいくつか鳴った。それから、同じ低い声が続く。
「……中山は、坂が2回だ」
坂が2回。頭の中でその言葉を反芻する。スタンド前のあの坂を、2500は1周目と最後の直線で2回上る。皐月賞で、アサツユが脚を使った坂だ。俺は「はい」とだけ返した。
宮田さんはそれ以上何も言わずに立ち上がり、事務所の戸を開けて厩舎のほうへ戻っていった。戸が閉まる音がして、事務所にまた秒針の音だけが戻ってくる。
俺は壁のカレンダーへ歩いて行った。10月のページを2枚めくると、12月の最後の日曜日、27日のところが白く空いている。赤いペンを当てて、丸をつけた。
◇
その夜、軽トラのライトが門のところから事務所の窓を白く撫でた。
俺が外へ出ると、三上さんが軽トラの荷台から缶ビールのケースを抱えて降りてくるところだった。片手で軽々と抱えている。厩舎のほうから宮田さんも出てきて、少し離れたところに立った。
「二冠だぞ二冠! 町内会の公民館、日曜は大騒ぎだ!」
三上さんの声が、牧場の夜に響いた。静かな夜に、あの声はやっぱりでかい。三上さんはそのまま事務所へ上がりこんで、ケースを机にどんと置く。机が小さく軋んだ。宮田さんも、戸口のところまで来た。
「町内会の連中が全員集まってよ、お前の馬の話でもちきりだ。年寄りどもが泣いてたぞ。先代の孫がやったってな」
俺は口をはさめない。三上さんはビールの箱を開けもしない。
「それで、だ。焼肉の話はどうなってる。菊花賞だぞ。ダービーより大きいぞ。いや、どっちもGⅠか。まあいい」
三上さんは笑いながら首を回した。戸口の宮田さんは、何も言わずにこっちを見ている。
「今度は俺の奢りだ」
三上さんが、親指で自分の胸をとんと叩いた。
「借金抱えてる若旦那に、二度も払わせられるか」
「三上さん」
俺は一度だけ息を吸った。机の上のビールの箱を見て、それから三上さんの顔を見た。言いそびれ続けて、もう何度目か分からない。
「借金は、もうありません。……春に、完済しました」
三上さんの口が、開いたまま止まった。目がゆっくりと大きくなる。声が、出ない。その顔を、俺は黙って見ていた。宮田さんは戸口に立ったまま、何も言わない。
三上さんが、いきなり拳で机を叩いた。缶ビールの箱が跳ねる。
「早く言え!!」
夜の牧場に、その声がひとつ響いた。窓ガラスが震えた気がした。三上さんは、そのままの大声で続ける。
「……じゃあ奢りはお前だ! 二冠の祝いだ、日曜の12時、いつもの店! 宮田さんも来い!」
三上さんが戸口を振り向く。宮田さんは、低い声でひとつだけ返した。
「……おう」
三上さんはビールの箱を机に置いたまま、くるりと背を向けた。戸口へ向かう足取りがやけに軽い。用件は済んだとばかりの後ろ姿だった。
「じゃあな、日曜な」
片手を上げて出ていく。俺と宮田さんは黙ってそれを見送った。戸の外で軽トラのドアが開く音がして、そのままエンジンがかかる。けれど、すぐには動かなかった。
三上さんが運転席の窓から一度だけこちらを振り返り、思い出したように声を張る。
「そういや、吉岡さんとこの土地な。桜庭が、また話を持ってきてるらしいぞ」
「そうですか」
俺はそれだけ返した。三上さんは満足したらしく、クラクションを一度だけ短く鳴らした。軽トラのライトが門の柱を白く照らし、ゆっくりと牧場の外へ出ていく。音が遠ざかって、夜が戻ってきた。
宮田さんは何も言わずに、厩舎のほうへ歩いていく。長靴の音が土の上で一度だけ鳴り、やがて闇に溶けた。
事務所に一人になる。時計の秒針の音が、やけに近く聞こえる。机の上のビールの箱を片付けようとして、受話器の横のメモ用紙に目が止まった。
走り書きの文字が一枚、折り目もなく置いてある。奏の字だった。昼に寄って、置いていったらしい。
「父が、日曜の夕方に行きたいって」
日曜の夕方。それを頭の中で繰り返す。昼には三上さんとの焼肉がある。その夕方、篠宮貴之がこの牧場へ来る。
俺はメモを机の上に戻して、壁のカレンダーへ目をやった。12月の27日につけた赤い丸が、蛍光灯の下で小さく光っている。
日曜は、焼肉と、返事の日になった。




