日曜の返事
11月1日、日曜日の12時ちょうど。町の焼肉屋の座敷で、三上さんはもう2皿目のカルビを網に並べていた。
伝票は最初から俺の側に置かれている。
「昼から生でいいか? いいよな、二冠だぞ」
三上さんは店の主人に生ビールを2つ頼んで、それから俺の顔も見ずに付け加えた。
「あと、タン塩、ハラミ、ロース、上カルビ、ナムル。キムチもな」
「三上さん、食べきれません」
「食うよ。今日はお前が払うんだろ。遠慮なんかするか」
「それと、借金だ。……本当に、全部返したんだな」
ジョッキを持ち上げたまま、三上さんの声がそこでだけ少し落ちた。俺は「……はい」とだけ返して、麦茶のコップをそっと合わせた。氷が小さく鳴る。
宮田さんは黙ってジョッキを上げるだけだった。三上さんはそれを待っていたみたいに、そのままぐいと半分ほど飲んで、ジョッキを机に戻す。
「よし、焼くぞ」
そう言うなり、三上さんは網の上に肉をどんどん並べ始めた。タン塩を端に寄せ、カルビを真ん中に置きハラミをその周りに広げていく。ほとんど1人で網を埋め尽くして、焼けた端から自分の皿へ取っては、熱いのも構わず次々と口へ運んでいった。
宮田さんは隣で黙って箸を動かしている。何も言わない。
俺は麦茶を一口飲んだ。頭は夕方のことでいっぱいだ。貴之の提案に、なんと返すか。肉の焼ける音を聞きながら、頭の中の引き出しを開けたり閉じたりしている。とてもビールを頼む気にはなれない。
「そうだ若旦那」
三上さんがジョッキを置いて、急に声を張った。
「うちの栗毛な。門別で、やっと勝ったぞ」
俺は箸を止めた。
「あの、小さな栗毛ですか」
「そうだ。外向で、お前が95万で見立てたやつだ。4年かかった。4年だぞ。晩成もいいとこだ」
三上さんは胸を張って俺の肩を叩いた。
「見る目があるなあ、お前は。……ったく、いい馬を安く買わせやがって」
「おい若旦那、聞いたぞ二冠だってな!」
座敷の入口から店の主人が焼き網を拭いた手をそのままに声をかけてきた。常連らしい男が2人、その背中からひょいと顔を出す。
「ひなたの黒いのが、また勝ったんでしょ」
「テレビで見たわ。最後、ぎりぎりだったなあ」
三上さんがジョッキを掲げるように持ち上げて、そっちへ向き直る。
「ぎりぎり? あれは勝つべくして勝ったんだ! 17番だぞ、外だぞ。それで二冠だ!」
「三上さん、あんたの馬じゃないでしょ」
常連の1人が笑う。三上さんは胸を反らして「同じ町の馬だ!」と返した。
店の主人がカウンターの奥から色紙とサインペンを持ってきて俺の前に置いた。白い色紙の真ん中が、蛍光灯を反射して光っている。
「若旦那、悪いけどこれ書いてくれ。店に飾るから」
俺は箸を置いた。サインペンのキャップを外す手が止まる。
「……俺が書くんですか」
「馬主さんだろ。二冠馬の馬主さんだぞ。書けるもんなら書いてもらわな」
隣の常連も身を乗り出す。
「そうだそうだ、将来高いぞ」
「有馬も勝ったら色紙の値段も跳ねる」
「だからまだ早いって」
俺は色紙とペンを手に持ったまま、三上さんを見た。三上さんは豪快に笑って、焼けた肉を箸でつまみながら言う。
「書いてやれ。お前の字が店の壁に貼られるんだ。ありがたく思え」
俺はしばらく色紙の白さを見つめてから、サインペンを握り直した。肩に力が入る。字が震えないように、手首を机につけてゆっくりと名前を書いた。
座敷の網が3回替わって、時計は15時40分を回った。店の奥の棚の上のテレビが、東京競馬場のゲートを映している。
緑の芝の上に、大きな栗毛がいる。ゲートが開くと同時に、その馬はするすると前へ出ていった。無理に押していない。馬自身が自分の場所を知っているみたいな、迷いのない進み方だった。
「ハヤテノオウ、好位の3番手。折り合いは完璧です」
三上さんの箸が止まった。網の上の肉が脂を落として煙を細く上げている。
4コーナーで栗毛が外へ持ち出される。手綱が動いた。それだけで馬体がぐんと伸びて、前の2頭をあっという間に飲み込んでいく。首の差しが長い。流星が白く光って、直線の坂を上がりながら、後ろとの間が開いていく。
俺は箸を持ったまま画面を見ていた。ポケットの中の万年筆に、指先が触れないように気をつけていた。
「ハヤテノオウ! 秋古馬三冠へ、まず一冠!」
実況の声が座敷に響く。2馬身。ゴール板を過ぎても、あの馬はまだ脚を余しているように見えた。時計は1分57秒6。ため息みたいな声が、店のあちこちから漏れる。
「……強ぇな、こいつ」
三上さんが、ジョッキを置かずにつぶやいた。いつもの大声じゃない。腹の底から出た、妙に静かな声だった。
宮田さんは隣で黙って肉を食っている。画面は見ていない。ただ、耳だけは向けているのが分かった。
俺は麦茶を一口飲んだ。喉の奥がやけに冷たい。
画面の中の栗毛は勝負服の騎手を背にしたまま、ゆっくりと歩いている。脚元はまだ軽い。あの体で、あの場所からあれだけ抜け出せる。数字にしたらどうなるのか。頭の隅で、そんなことを思った。でもポケットの万年筆は握らない。
会ってみないと分からない。画面越しに数字を当てたって、あの馬の本物は分からない。そういう馬がいることも、もう知っている。
三上さんが焼き網の上に箸を置いた。肉の焼ける音だけが、座敷に残る。
「有馬で、こいつとやるのか」
「……はい」
◇
夕方の5時。外はもう暗かった。門のほうから車のライトが入ってきて、事務所の窓を白く撫でた。
戸口を開けると冷たい空気と一緒に、薄いグレーのジャケットが入ってきた。
篠宮貴之は白いシャツの襟をきっちり合わせたまま、軽く会釈した。その後ろに奏が立っている。彼女は俺と目が合うと、小さく口を引き結んだ。
「やあ、陸くん。返事を聞きに来たよ」
前置きはなかった。穏やかな声だった。
俺は事務所の奥へ目をやった。宮田さんが麦茶を注いだ湯呑みを盆に載せて出てくる。無言で3人分を置くと、自分の分だけ持って奥の机へ下がった。湯呑みを手にしたまま、飲む気配はない。
座るよう勧めると、貴之は「失礼するよ」とだけ言って、折りたたみの椅子に腰を下ろした。奏は俺の隣、少しだけ後ろに座る。コートの裾が、椅子の脚に触れる音がした。
湯呑みを一口。喉がやけに静かに鳴った。
「記録は、全部出します」
俺はテーブルの上の手帳を見ないまま言った。貴之の手帳だ。開かれていない。
「ツキミソウの母系の記録を。アサツユの調教、成長、レースの記録とシズクの前の繁殖の記録です」
貴之は、うなずくでもなくただ聞いていた。手は、湯呑みの横に揃えて置いたままだ。
「ただし、シズクの次の出産はひなた牧場でさせたい」
一呼吸。事務所の時計がかち、と鳴った。
「種付けは来年の春です。産むのは、その次の春。シズクの家はここなんで」
声が震えていないか自分でも分からなかった。でも、止まらなかった。
隣で奏が微かに息を吸う気配がした。
「担当は、奏にお願いしたい」
「気持ちで馬は守れないよ、陸くん」
穏やかな声が、数字を置くように続く。
「うちは年に50頭以上産ませて、難産を毎年何頭も見ている。君の牧場には、夜通し見る人がいない」
俺は言い返せなかった。シズクの前の出産は難産だった。あの夜、手を動かしたのは奏だった。俺には、数字の前に並べる根拠がない。黙るしかなかった。
事務所の時計がかち、と鳴る。奥の机で、宮田さんが湯呑みを持ったまま動かない。飲まない。湯気だけが、白く細く上がっている。
沈黙が少し続いた。
「私がやる」
隣で、奏が口を開いた。はっきりした、いつもの早口だった。
「予定日の前から、ここに泊まる。カメラも夜の見回りも、篠宮で覚えたことを全部持ってくる」
貴之は、奏を見ていた。奏も父を見返した。視線が、短く交わる。俺はひとつ息を吸ってから言った。
「記録は、生まれた仔の1歳までの成長も、全部つけます」
貴之の指が、手帳の端で止まった。目だけがこちらへ動く。
「ほう」
「測れるものは、全部測ります。篠宮さんが欲しい数字が増えます」
貴之は、奏から目を離さないまま静かにうなずいた。
「条件を、2つだけ足すよ」
「なんですか」
「出産厩舎のカメラを1台貸す。シズクの馬房に付けなさい」
俺はうなずいた。
「もうひとつ。予定日の前後は、うちの獣医をいつでも呼べるようにしておくこと」
「分かりました」
「……数字は、取れるんだね。なら、いい取引だ」
そう言うと、折りたたみの椅子を静かに立った。奏は、まだ座っている。貴之は彼女の前で足を止めて、見下ろすでもなく横を向いたまま言った。
「研修は、春で区切りなさい。続きは、こっちでやればいい」
貴之はそれ以上何も言わず、戸口へ歩いていく。薄いグレーの背中が、外の闇に溶けるように出ていった。
奏は返事をしなかった。耳が、赤かった。
◇
貴之の車は、門の前でライトをつけたまま待っていた。奏はその車へは向かわずに、シズクの放牧地の柵の前で足を止めた。
俺も隣で止まる。事務所の明かりが、土の上に2人分の影を薄く伸ばしていた。
「シズク」
奏の声が、ふいに低くなる。馬にだけ向ける、あの声だ。夜の放牧地の奥から、かすかに草を踏む音がして暗い輪郭がゆっくりと浮かび上がってきた。
「春まで、よろしくね」
シズクが鼻先を柵の上に乗せる。奏はその鼻筋を、指の腹でそっと撫でた。それから、ひとりごとみたいに付け足す。
「……春からも、か」
俺は、ポケットに手を入れたまま立っていた。礼を言わなきゃいけないのに、言葉が喉のあたりでつかえる。奏がここへ泊まる。シズクの出産を、自分の仕事として守る。そのことが、頭では分かっているのに胸のあたりがむず痒くて、まっすぐ言えない。
「……ありがとう」
やっと言えた声は思ったより小さかった。奏はこっちを見ない。柵の掛け金に手を伸ばして、がちゃがちゃと音を立てながら直し始めた。
「お礼は、無事に産まれてから」
声だけが、夜の空気に溶けるように返ってくる。
「そっちの方が、ずっと大事」
耳の先が赤い。俺はそれ以上、何も言えなかった。
奏は一度だけシズクの鼻先に触れてから、小走りに車へ向かった。助手席のドアが開いて、閉まる。この前は奏の軽トラの助手席に貴之が乗っていた。今日は逆だ。
車がゆっくりと動き出しライトが牧場の門を白く照らして遠ざかっていく。赤い尾灯が、闇に沈むまで俺は見送った。
シズクが、隣で小さく鼻を鳴らした。俺はその首に手を置いて、温かい毛並みをゆっくりと撫でる。
来年の春、種付けをしてその次の春に仔が生まれる。まだ見ぬ仔の輪郭を、ぼんやりと考える。うまくいくかは分からない。分からないけど、守る順番は決まった。
今は、この馬の体温だけで十分だった。
春の前に、年末がある。




