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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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45/55

府中の2400、画面の向こう




 1位、25万2318票。


 2位、24万6907票。


 事務所のノートパソコンの画面に並んだ数字を、俺は腕を組んだまま見下ろしていた。その差は、5411票。


「……5411票」


 奏が横から小さく言った。俺も同じ数字を頭の中で数えていた。5千ちょっと。たったそれだけ、とも言えるしされどそれだけ、とも言える。有馬記念のファン投票は、締め切りまでまだ10日ある。動く余地は、いくらでもある。


「1位はハヤテノオウ、か」


 画面の一番上には、あの大きな栗毛の名前があった。天皇賞・秋を勝ったばかりの古馬の王者。菊花賞のあとに、俺はあの馬のレースを焼肉屋のテレビで見た。画面越しでも分かる強さだった。あの馬が今、この牧場の馬のたった5411票先にいる。


 奏がマウスを動かして、画面を少し下へスクロールした。


「テンカザクラが4位。桜庭さんのところね」


「ジャパンカップに行くんだろ。有馬はその後だな」


「うん。ニュースだと、まずジャパンカップって」


 奏は指先で画面の文字をなぞる。桜庭ステーブルの馬は、ファン投票で4位につけながら、まずは府中へ向かう。有馬記念に出るかどうかは、まだ分からない。俺は黙って画面を見下ろしていた。


「シロガネノミチは」


 奏がさらにスクロールする。


「……13位」


「13位」


 俺はその順位を声に出して確かめた。菊花賞でアサツユと3/4馬身差の2着に入った馬だ。あれだけの競馬をしておいて、13位。奏が画面を見たまま小さく肩をすくめる。


「逃げ馬は、票が伸びないのよね。派手じゃないから」


「派手じゃない、か」


 でも、あの馬の陣営は有馬記念へ向かうとニュースに出ていた。菊花賞のあと、シロガネノミチの関係者が「次は中山で」と話した、と。俺はその記事を思い出しながら、画面の13位の文字を見つめていた。票は伸びない。でも、走る。中山の2500であのスタミナがどう出るか。13位という数字は、たぶんレースの結果には何の関係もない。


 事務所の奥で紙の擦れる音がした。俺は顔を上げた。


 宮田さんが奥の机で競馬新聞を広げていた。有馬記念の特集が組まれた、あの新聞だ。1面から2面にかけて、出走予定の有力馬の名前と写真が並んでいる。宮田さんは、その紙面をめくらない。ずっと同じところを開いたまま、目だけを動かしている。アサツユの名前と、その上に載っているハヤテノオウの名前のあいだを、行ったり来たりしているように見えた。


「宮田さーん、何見てるんですか」


 奏が声をかけると、宮田さんは顔も上げずに低い声で返した。


「……ハヤテノオウの、写真だ」


「大きいですよね、あの馬」


「……首の差しが、長い」


 それだけ言って、宮田さんはまた黙った。新聞の上で、指が止まっている。


「陸」


 奏がこっちを向いた。画面の光が、彼女の顔の半分を白く照らしている。


「……2位。悔しくない?」


「悔しいわけないだろ」


 俺は画面から目を離さずに言った。声が少し上ずったのは、たぶん気のせいだ。


「票はレースで取り返せる。ファン投票は2位でも、走って勝てばいい。有馬記念だって、1番人気がいつも勝つわけじゃない」


 言いながら、自分の言葉がやけに整いすぎているのが分かった。整いすぎているときの俺は、たいてい何かを隠している。


 奏は何も言わなかった。画面の光の中で、彼女がゆっくりとこっちを見た気配だけがあった。それから、小さく息を吐く音がした。


「……嘘つき」


 短くて、静かで、少しだけ笑っていた。


 俺は観念して、椅子の背にもたれた。天井の蛍光灯が白くて、目が痛い。


「……ちょっとだけ、悔しい」


「正直」


 奏が言った。


 机の上の電話が鳴った。


 事務所の静けさを破るようにベルの音が2度、3度と響く。俺はノートパソコンの画面から目を離して受話器を取った。奏が画面をスクロールする指を止めて、こっちを見る。宮田さんは新聞を広げたまま、顔だけこちらへ向けた。


「もしもし」


「オーナー。夜分にすみません」


 受話器の向こうから、あの静かな声が返ってきた。夜の厩舎の匂いが、電話越しにふっと流れ込んでくる気がした。


「アサツユの報告です。今週のはじめに、外厩から美浦の厩舎へ戻しました」


 俺は「はい」とだけ返した。先生の声は、いつもどおりひとつずつ確かめるように続く。


「カイバは全部食べています。脚元も問題ありません」


「菊花賞のあとに落ちた馬体も戻りました。有馬記念まで約4週。十分に間に合います」


 その声を聞きながら俺はポケットの中の万年筆を指先で軽く押さえた。馬体が戻った。脚元も問題ない。あの3000メートルの疲れは、ちゃんと回復している。当たり前のことなのに、言葉にされると肩の力が少し抜けた。


「……はい」


 短く返す。それ以上は、何も言わなかった。言う必要がなかった。


 宮田さんは新聞を広げたまま目だけをこちらへ向けている。アサツユの名前の上で指が止まったまま、動かない。奏はノートパソコンの画面に視線を落としたまま、聞いている。画面の光が彼女の頬を青白く照らしていた。


「では、このまま有馬へ向けて仕上げていきます。また追って連絡します」


 先生の声は最後まで変わらなかった。俺は「お願いします」とだけ言って、受話器を置いた。


 カチッという音が、夜の事務所にやけに大きく響いた。


 奏がマウスを動かして画面の上のほうへ戻った。ハヤテノオウの名前をクリックすると、写真が開く。大きな栗毛だ。額から鼻まで太い流星が白く抜けている。


「ほら、写真」


「……でかいな」


 俺は腕を組んだまま画面を覗き込んだ。パドック写真らしい。横から撮られていて、首の差しが長いのが分かる。胸のあたりが、がっしりと厚い。


 ポケットの中の万年筆に、指先が触れる。触れただけで握らない。写真じゃ駄目だ。紙の上の栗毛に数字を当てたって、それは本物じゃない。


 奏が画面に顔を近づけて、人差し指でとんと叩いた。


「この子、写真だけでも分かる。胸が深い」


◇


 11月29日、日曜日。東京競馬場の馬主席で、桜庭玲司は手元のタブレットに目を落としていた。


 画面には、テンカザクラの戦績が並んでいる。6戦4勝。負けた2つのうち、ダービーはハナ差だった。


 2400までは、負けてもハナ差。だが菊花賞の3000で、初めて3着に負けた。距離が1つ伸びただけで、あの差が開いた。


 有馬記念の2500は、グランクレストの産駒がまだ勝っていない距離だ。菊花賞の前に父へ言った。「3000は、グランクレストの産駒が勝っていない距離です」。父は「だから何だ」と切った。それだけだった。


 だから、ここにした。東京の2400は、この馬がいちばん速く走れる舞台だ。古馬の王者ハヤテノオウに挑む。勝てば、「当然」以外の結果を父に見せられる。データは、そう並んでいる。


 携帯が震えた。画面に「会長」と出た。


 玲司はタブレットを脇に置き、携帯を耳に当てた。


「もしもし」


「勝て」


 前置きも挨拶もなかった。短く、断定だけが耳の奥に残る。玲司はガラスの前に立ち、本馬場を見下ろした。青い空の下、テンカザクラが返し馬に入っている。馬体に光が当たって、肩から背のラインがくっきりと浮かんでいた。


「……勝ちに行きます」


 玲司は自分からそう答えた。声は低くしなかった。データの上で、この馬が一番速く走れる場所はここだと決めてきた。負けても「当然」で済ませるつもりは、もうない。


「そうか」


 会長はそれだけ言って、電話を切った。耳から離した携帯の画面が、ゆっくりと暗くなる。


 玲司はもう一度、本馬場のテンカザクラを見た。段差のない馬体が、きれいな弧を描いて歩いている。データは揃っている。あとは、走るだけだ。


 ジャパンカップ、芝2400メートルのゲートがスタンド前に並んだ。


「スタートしました。テンカザクラ、好スタートを決めます。2枠3番からすっと前へ――前から2番手につけます」


 玲司は馬主席の手すりに指をかけた。テンカザクラの位置は計算通りだ。逃げ馬を見る形で、折り合いをつける。


「ハヤテノオウはその直後、3番手を追走します。大きな栗毛、太い流星。動きに無駄がありません」


「向こう正面、ペースは落ち着いています。テンカザクラ、2番手で折り合い十分」


 4コーナー。ハヤテノオウが外から並びかけてくる。


「並びかけるハヤテノオウ! 外からテンカザクラに迫る!」


 その瞬間、ターフビジョンにテンカザクラの横顔が映った。玲司の目が、その耳を捉える。両耳が後ろへ向いた。


 ――後ろを意識した。


 データにはない情報だ。耳が後ろを向くのは、馬が後続を気にするとき。これまで一度も見たことのない反応だった。


「直線、テンカザクラ抜け出す! 先頭に立つ! しかしハヤテノオウ、外から並ぶ! 残り100!」


 手すりを握る指に力が入る。テンカザクラがもう一度、脚を伸ばそうとする。でもその脚が前へ出ない。ハヤテノオウの首の差しが、じわりと前に出る。


「ハヤテノオウ、差し切る! クビ差! 秋古馬三冠へ王手!」


 玲司は声を出さなかった。拳を手すりに置いたまま、ゴール板を過ぎていく2頭を見ていた。テンカザクラは止まらずに走っている。騎手が手綱を緩めても、まだ前へ行こうとする。負けたのに、脚はまだ残っている。


「1着はハヤテノオウ、2着テンカザクラ、クビ差。勝ち時計は2分22秒4」


 タブレットの画面が暗くなる。データは、更新された。2400メートルで、クビ差。菊花賞の3着より差は縮まった。でも、届かなかった。


 検量室の前へ下りると、人混みの向こうでハヤテノオウの陣営が囲み取材を受けていた。白髪の調教師が「次は有馬記念。秋の三冠を取りに行きます」と短く言い、隣の大手牧場の人がうなずく。その声を、玲司は少し離れた柱の陰で聞いていた。三冠、という言葉が耳の奥に残る。こちらは何も取れていない。


 テンカザクラが引き上げてくる。玲司は自分からしゃがみこんだ。検体採取所へ引かれていく前の短い間に、鞍を外したばかりの前脚へ手のひらを当てる。熱はない。だが、走り切った脚だ。腱の張りにさっきの直線がそのまま残っている。騎手が「申し訳ありません」と声を落とすのへ、玲司は「いい」とだけ返した。


 立ち上がりながらポケットの携帯を出す。画面を親指でなぞり、木島の名を選ぶ。コール音が2度鳴った。


「はい、統括」


 玲司は柱の陰から半歩離れ、人混みに背を向ける。


「年内は休ませる。有馬は使わない」


 短く告げた。受話器の向こうで、息を呑む気配があった。


「……有馬、ですか」


「3000と2400を、中4週で続けて走った。2500はグランクレストの産駒がまだ勝っていない距離だ。脚に熱はないが、今年はもう十分走った。年明けに、古馬としてもう一度やる」


 数字を並べる自分の声が、思ったより静かだった。菊花賞の前に父へ向けて言った言葉と、同じ形をしている。あの時は切られた。今回は切られない。切るのはこちらだ。


「はあ……承知しました」


「頼む」


 通話を切る。暗くなる前の画面を指で滑らせ、連絡先を開いた。すぐ下のほうに、その名前がある。


 日向陸。


 親指が、少しだけ止まった。かけようとしたのではない。なんとなく、開いただけだ。


 発信はしなかった。画面を閉じる。白い光が消えて、指の先に黒い板だけが残った。


◇


 同じ日の夜。ひなた牧場の事務所のテレビでは、夜の競馬ニュースがまだジャパンカップを流していた。


 夕方にこの画面で、俺と宮田さんはジャパンカップを見ていた。ハヤテノオウが4コーナーで外から並んで、最後にクビ差でテンカザクラを差した。


 宮田さんは新聞を畳んで、机の端に置いた。


「……前に行って、外から来た馬に負けるのは、強ぇ方の負け方だ」


 低い声で、それだけ言った。テンカザクラのことを言っているのだと分かった。前で粘って、外から来た馬にわずかに届かなかった。あの負け方は、弱さじゃない。


「そうですね」


 俺はうなずいた。画面の栗毛は、まだ頭の中に残っている。胸が深くて、首の差しが長くて直線でぐんと伸びた。数字にしたら何になるのか。ポケットの万年筆に指先が触れた。触れただけで、握らない。


 会っていない馬は、鑑定できない。写真も映像も本物じゃない。中山のパドックで、あの馬をこの目で見るまでは。


「宮田さん」


 何か言おうとして、やめた。宮田さんはもう新聞を開いていた。俺も黙ってテレビの音を小さくした。


 夜9時を過ぎたころ、事務所の固定電話が鳴った。


 俺はテレビのリモコンを置いて受話器を取った。この時間にこの電話へかけてくるのは、三上さんか、先生かそのどちらかだと思っていた。


「もしもし」


「日向くん。桜庭です」


 声は穏やかだった。携帯ではなく、牧場の固定電話にかけてくる。そういうところを、この人はわざとやっている。


「テンカザクラは有馬に出ない。年内は休ませる」


「……そうですか」


 俺はそれだけ返した。夕方に画面で見たレースが、まだ頭の中に残っている。


「君の馬が有馬に出ると聞いた」


「はい」


「……あの栗毛は、強いよ。4コーナーで並ばれたとき、テンカザクラの耳が後ろを向いた。初めて見た」


 俺は黙って聞いていた。


「――止めるのは、君の仕事だ」


 望むところだ、と言いかけて俺は口を開けたまま止まった。


 受話器の向こうでツー、という音が小さく鳴り始めた。言いかけた言葉は、行き場をなくして喉のあたりに残っている。


 俺は切れた受話器を持ったまま、しばらく動けなかった。


 受話器を置く。壁のカレンダーへ目をやった。12月の27日、赤い丸が蛍光灯の下で小さく光っている。


 奥で、宮田さんが椅子を立った。


「……寝るぞ」


 それだけ言って戸を開けて出ていった。何があったかは、たぶん聞こえていた。聞かないのが、この人の優しさだ。


 望むところだ。そう言い返せなかった自分の喉が、まだ少し悔しい。あの一言は返さなくちゃいけなかった。口じゃなく、走りで返す。


 秋古馬三冠まで、あと1つ。


 止める馬の名前の欄に、アサツユの名前が入った。

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