52番の行き先
12月に入って最初の木曜の夜、事務所の固定電話がまた鳴った。
受話器に手を伸ばす前に、少しだけ肩が固くなった。日曜の夜にこの電話で「止めるのは、君の仕事だ」と言われてから、このベルを聞くたびに背中のどこかが勝手に構える。奥の机で、宮田さんが湯呑みを置く音がした。
受話器を耳に当てると聞き覚えのない男の声が、丁寧すぎるほど丁寧に響いた。
「夜分に失礼いたします。桜庭ステーブルの木島と申します。日向さんでいらっしゃいますか」
「はい、日向です」
桜庭ステーブルと聞いて背中に残っていた固さが一段深くなった。日曜の夜と同じ名前だ。今度は御曹司じゃなく、その下の誰か。
「統括から、お伝えするようにと申しつかりまして」
木島と名乗った男は言葉を選ぶように間を置いた。電話の向こうで息を吸う気配がした。丁寧語の一つ一つが、妙に角が立たない。
「本題ですが」
木島はそこで一度区切った。事務所の蛍光灯が、じいんと小さく鳴っている。
「去年の暮れの静内のセールで、52番。ハルノサザナミという繁殖牝馬を、うちが落としました」
52番。
その数字を聞いた瞬間、俺の指先が勝手に動いた。ポケットの万年筆に触れる。触れただけで握らない。あの日、札を挙げかけた俺の手首を宮田さんが押さえた。黒いコートの買い付け人が、300万円で持っていった。あの鹿毛の、地味な牝馬だ。
「今年の春に、うちの種牡馬と配合したのですが、不受胎でして」
木島の声は淡々と続いた。
「空胎のまま、データの上で『整理』の対象になりました」
――整理。
その言葉に、俺の思考が一拍だけ止まった。整理。データの上で、そう呼ぶのか。桜庭ステーブルほどの規模になれば、不受胎の牝馬をいつまでも置いておけない。それは分かる。分かるけれど、その言葉の選び方がこの牧場のやり方なのだと思った。馬を、数字の列に並べて要るか要らないかを決める。
「市場に出す前に」
木島は続けた。声の温度は変わらない。
「統括が、日向さんに一度見ていただきたいと」
俺は黙って受話器を持っていた。窓の外はもう真っ暗で、ガラスに事務所の明かりがぼんやり映っている。あの鹿毛は今、新冠の厩舎にいる。8歳になって、18戦0勝のまま。俺が1年前に掘り出し物と見た馬だ。
「……伺います」
俺はそれだけ言った。木島が「ありがとうございます」と深く礼をする気配が、受話器越しに伝わってきた。
受話器を置くと事務所の中が急にしんとした。
奥の机で、宮田さんが湯呑みを持ったまま動かなかった。湯気はもう立っていない。飲むでもなく、置くでもなく指のあいだに白い湯呑みを挟んだままだ。
「……あの52番か」
低い声が、湯呑みの縁に吸い込まれるようにして聞こえた。
俺は振り返らずにうなずいた。
「ええ。ハルノサザナミです」
宮田さんはそれ以上何も言わなかった。湯呑みを置く音が、ことり、と小さく鳴った。300万円という数字と、黒いコートの背中とざわついていたセール会場の空気を、この人も覚えている。たぶん俺と同じくらいはっきりと。
俺は事務所の机の前へ戻り引き出しを開けた。中を指で探ると、厚紙の感触がすぐに見つかる。セールのカタログから切り取った、52番のページだ。角が少し丸まっている。あの日から何度も出して見たせいだ。
蛍光灯の下にそれを置いた。地味な鹿毛の横姿の写真。数字と血統の文字。紙の端が、乾いた冬の空気を吸ってわずかに浮いていた。
◇
桜庭ステーブルは、新冠の丘の上にあった。
日曜の昼前、宮田さんの運転する軽トラが、桜庭ステーブルの門をくぐった。ダッシュボードには、出がけに放り込んだ種牡馬カタログが載ったままだ。
門からして違った。白い鉄の門柱が左右に立っていて、そこから先の私道がまっすぐ丘の上へ伸びている。車の窓から見える放牧地には、白い柵が丘の向こうまで続いていた。果てが見えない。俺は助手席で、開いた口を閉じるのに少し時間がかかった。
「……広いな」
声に出して言ってからその声が思ったより小さかったことに気づく。宮田さんはハンドルを握ったまま、前だけを見ていた。
「桜庭は、これでまだ一部だ」
「一部」
「奥にも放牧地がある。山の向こうまでな」
俺は黙って窓の外を見た。放牧地の向こうに、大きな出産厩舎が見える。篠宮ファームの出産厩舎も大きいと思っていたが、あれよりさらに一回りはでかい。屋根の色も形も整っていて、壁は白く塗り直したばかりのように光っている。敷地のあちこちを歩いているスタッフは、全員が揃いの紺のジャンパーを着ていた。
ゲームなら最初から全施設解放済みのセーブデータだ。俺は心の中でそう思った。チュートリアルも何もなく、最初から放牧地も厩舎も人員も全部揃っている。こっちはまだ、小屋とパドックを自分で直すところから始めたのに。
軽トラが駐車場へ入る。アスファルトの上に白い線がきれいに引かれていた。宮田さんは車をゆっくりと停めた。エンジンを切ると、急に静かになる。
「降りるぞ」
俺はうなずいて、助手席のドアを開けた。
外の空気は冷たかった。日差しはあるが風が肌を刺す。地面には雪がうっすらと残っていて、踏むとざくりと音がした。空気の匂いが違う。牧草の匂いと、どこか消毒液のような匂いが混ざっている。
「日向くん」
声がして、顔を上げた。
桜庭玲司が立っていた。黒いダウンジャケットを着て、ポケットに手を入れたままこちらへゆっくり歩いてくる。後ろに、紺のジャンパーを着た40代くらいの男がひとり、半歩下がって続いていた。
玲司の黒い車が、駐車場の一番端に停まっているのが目に入った。放牧地から一番遠い、馬の気配が届かない場所だ。あの人は、そうやって停めるのか。俺は口には出さなかった。でも、目だけは一瞬そちらへ向いていた。
「来てくれてありがとう」
玲司は俺の前で立ち止まると静かにそう言った。相変わらず、声は穏やかだ。顔には笑みらしい笑みもないが、敵意もない。
「先日はお電話で失礼いたしました。木島です」
隣の男が、深く正確に頭を下げた。声は電話で聞いたとおりだった。丁寧で、角が立たない。紺のジャンパーの肩が、日差しの下でしわひとつなく見えた。
「日向です。今日は、ありがとうございます」
俺も軽く頭を下げる。木島は顔を上げると、玲司のほうを向いて半歩身を引いた。
「統括、こちらです」
繁殖牝馬の厩舎は、出産厩舎の隣の、日当たりのいい一棟だった。
中へ入ると、乾いた藁と、ほんの少しの湯気の匂いがした。馬房が左右にずらりと並んでいて、奥まで陽が届いている。空気まで静かで、どこかで馬が藁を踏む音だけが、かさりと鳴った。
木島が先に立ち迷いなく歩いていく。紺のジャンパーの背中が、いくつかの馬房の前を通り過ぎて、一番奥から2つ目の前で止まった。
「こちらです」
木島が半歩横へずれて、俺に場所を空けた。
馬房の前には小さな白いプレートが1枚、目の高さより少し低い位置に打ってあった。
「52」
数字だけが、黒い字でそこにあった。
俺はそのプレートを一瞬だけ見て、それから馬房の中へ目を向けた。
鹿毛の馬が、奥の壁を背にして立っていた。
地味な毛色だ。陽の当たる場所でも、ぱっとしない。どこか煤けたような鹿毛で、白いものは足先に少しあるだけだ。飾り気のない、セリの写真のままの馬だった。
去年より、背中の線が少しだけ丸くなっている。肉がついた、というより柔らかくなった、という感じだ。冬毛がふわっと生えそろっていて、輪郭をやわらかく見せている。
馬は静かにこちらを見ていた。耳をこちらへ向けて、首をほんの少しだけ傾けるでもなく、ただ立って目だけをこっちに置いていた。暴れもしない。鼻を鳴らしもしない。人を待つように、じっとしている。
「……おとなしいな」
声に出したつもりはなかった。でも、口から漏れていた。
隣で、玲司が声を落として言った。
「ハルノサザナミ、覚えているかい。……去年、君から取った馬だ」
その言い方は、俺にではなく馬に言っているようでもあった。玲司は馬房の前に立ち、両手をポケットに入れたまま声をひときわ低くしている。馬を驚かせないように、空気を揺らしすぎないように。
馬は、玲司の声に耳を向けた。それから、ゆっくりと首を下げて馬房の入口へ一歩だけ近づいてきた。
木島が、無言のまま馬房の扉に手をかける。金属の留め金を外す音だけが、かちりと小さく響いた。
「君の目に、どう見えるのか知りたい」
玲司が言った。顔はこちらを向いている。声は静かなのに、目だけがまっすぐでこちらを試すようにも、確かめるようにも見えた。
俺は答えなかった。代わりに、馬房の中の馬から目を離さなかった。
去年のセールで、俺はこの馬を掘り出し物だと思った。予算が届かなくて、黒いコートの背中に持っていかれた。
あの日から、何度もカタログを開いた。数字と写真と、あの日のざわつきと。
今、本物が目の前にいる。
馬は、俺の視線を受けても、動じる様子もなくゆっくりとまばたきをした。深い茶色の目が、陽を受けて一瞬だけ透き通る。
隣で、宮田さんが腕を組んで黙って馬房の中を見ていた。顔は動かない。何を考えているのかも、分からない。
俺は、パーカーのポケットの中で指先を万年筆に伸ばした。
冷たい金属の感触を、ゆっくりと握り込む。
馬房の中の鹿毛は俺が手にした万年筆のことなど知らないまま、ゆっくりと首を下げた。
表示は、目の前の空気に浮かんでいた。
【ハルノサザナミ(牝・8歳)】 【スピード:B】【スタミナ:A】【パワー:A-】【根性:A】【賢さ:B+】 【隠れ適性:長距離向き】 【隠れ適性:道悪巧者】 【隠れ適性:先行】
数字が、1年前とひとつも変わっていない。
スピードはBのまま、スタミナはAのまま。パワーも根性も賢さも、あの日のセール会場で浮かんでいたものと同じだ。8歳になって、現役の頃から何年も経ってそれでもこの馬の中身は何も減っていない。
変わったのは、3行目だけだ。
1年前、あのセール会場でこの馬を見たとき、隠れ適性の行は空白だった。何も書かれていなかった。その空白の場所に、今は【先行】の文字がある。アサツユの3行目が開いたあの春から、この行が見えるようになった。
長い距離を前で粘って道悪でも止まらない。数値だけ並べれば、育て方を間違えられた良キャラだ。ゲームで言えば、能力はあるのに運用が噛み合わなかったせいで勝ち星から見放されたタイプ。18戦0勝は、この馬のせいじゃない。
指先から力を抜いた。
万年筆を握る手をゆるめると、視界に浮かんでいた文字がすうっと薄れて消えていく。残ったのは、馬房の中の静かな鹿毛だけだった。
「……どう見える?」
玲司の声が、低いまま横から聞こえた。
俺は一呼吸置いてから顔だけそちらへ向けた。黒いダウンジャケットの肩越しに、昼の日差しが差し込んでいる。木島が無言で一歩下がり、宮田さんは腕を組んだまま馬房の中を見ていた。
「長い距離を、我慢して走れる馬に見えます」
俺は言った。表に出せる根拠だけで、できるだけ静かに。
「18戦0勝でも、長い距離ではいつも最後まで止まっていない。展開が向かなかっただけで、この馬のせいで負けたレースばかりじゃない」
玲司は、少し黙った。
「……そう」
それだけだった。目はまだ馬房の中の鹿毛に向いている。何かを確かめるように、あるいは、去年のセールの空気を思い出すように。
沈黙が、馬房の前の空気に薄く積もった。
馬は、首を上げた。耳を一度だけこちらへ向けて、それからふいと奥の壁のほうへ顔を戻す。
「値段の話をしよう」
玲司が、静かに言った。
「事務所で」
◇
事務所は、厩舎から少し離れた2階建ての建物の1階にあった。
応接室は、馬房の空気とはまるで違ってしんとしていた。
壁にかかった時計の音が、かちり、かちりと小さく刻まれている。テーブルを挟んで、向かいに玲司が座り俺の隣に宮田さんが黙って腰を下ろした。窓から午後の日差しが差し込んで、磨かれたテーブルの上に白く四角い光を落としている。
しばらく、誰も口を開かなかった。馬房で見た鹿毛の輪郭が、まだ目の奥に残っている。
先に口を開いたのは玲司だった。
「それで、どうする」
静かな声だった。値段を急かすでもなく、探るでもなくただ選択をこちらへ置くような言い方だ。
俺はテーブルの上の光を見ていた。光の端が、自分の指先にかかっている。
「200万で、お願いできませんか」
言ってから、自分でも古い癖だと分かった。去年のセールで俺が用意できた上限の数字だ。あの日、ここまでしか手が届かなかった。その数字が、体のどこかにまだ貼りついている。予算が変わっても、最初に出てくるのはこれだった。
玲司は、ゆっくりと首を横に振った。
「300万。去年うちが払った額だ。損も得もない取引にしたい」
声は事務的でそれでいてどこか静かだった。テーブルの上に置いた指を組んで、こちらをまっすぐ見ている。
「……あのとき僕が取ったものを、同じ値段で返すだけだ」
その言い方だけ、いつもの丁寧な形から少し外れていた。語尾がするりと落ちて、率直な響きが残る。馬房の前で「君から取った馬だ」と言ったときと同じだ。この人は、たまにこうやって壁を一枚だけ外す。
俺は一瞬、手が止まった。テーブルの下に置いていた両手に力が入る。300万。去年、桜庭が払った額。その数字は、俺の用意した200万より一回り大きい。頭では分かっている。いまの牧場には出せない額じゃない。金額じゃない。去年、この数字に負けたんだ。分かっているのに、去年の上限が体のどこかにまだ残っていて、指先をほんの少しだけ迷わせた。
隣で、宮田さんが動いた。
俺の背中を、一度だけ、軽く叩いた。
骨に響くほどでもない、ぽん、と置くような一撃だった。去年は、札を挙げようとした俺の手首を押さえた手だ。今日は逆だった。行け、と言われているのが分かった。あの日の手が、今は背中を押している。
俺は息をひとつ吐いて、顔を上げた。
「300万で、お願いします」
玲司は小さく一度だけうなずいた。それで終わりだった。握手を求めるでもなく、書類の場所を指すでもなくただ静かに次の動作へ移る。木島が脇から封筒を差し出した。中から出てきたのは、薄い書類が2枚。売買の確認書と、馬の引き渡しに関する覚書だ。
俺はペンを取った。書類の上の文字を指で追ってから、署名欄に名前を書く。日向陸。ボールペンの先が紙の上でかすかに引っかかった。木島が「支払いは振り込みでお願いします」と言い、俺は「分かりました」と短く返した。
「馬の移動ですが」
木島が書類を揃えながら続けた。
「年内に、こちらから馬運車でお送りします。日向さんのほうの受け入れ態勢が整い次第で構いません」
俺は「お願いします」とだけ言った。去年、セール会場から黒いコートの背中に連れられていった馬が、今度は桜庭の馬運車でうちへ向かってくる。
ペンを置いた。机の上に小さく、こつんと音がした。
「日向くん」
玲司が口を開いた。
俺は顔を上げた。玲司はテーブルの上で両手を組んだまま、こちらを見ていた。その目は馬房の前で見たときよりも少しだけ遠い。
「去年の、あの指示のことだけど」
静かな声だった。木島が一礼して部屋を出ていく。ドアが閉まる音だけが、しんとした応接室に残った。
「日向さんが札を挙げた馬は押さえておけ、という指示はダービーの後に取り消した」
ダービーの後。
その言葉を、俺は頭の中でもう一度だけ繰り返した。あの日、セール会場で黒いコートの男が口にした言葉が、まるで昨日のことのように浮かぶ。
――統括から、日向さんが札を挙げた馬は押さえておくように言われておりまして。
あの言葉を、俺はこの1年、何度も思い出してきた。静内のセール会場のざわつきも、300万円という数字も宮田さんに押さえられた手首の感触も、全部まとめてあの一言につながっていた。それが、ダービーの後に消えていた。
玲司の声は続いた。
「君の目を、もう追いかける必要はなくなったから」
俺は、すぐには返せなかった。喉の奥で何かがつかえたみたいに、言葉がひとつも出てこない。追いかける必要がなくなった。あの指示を出した理由も、消した理由もこの人はたぶんそれ以上は言わない。言わないけれど、それがこの人のやり方なのだと思った。
「……そうですか」
俺は、それだけを言った。
応接室を出て廊下を歩いて、玄関の外へ出る。
昼を過ぎたはずなのに、外の光はもう傾いていた。冬の日は短い。放牧地の白い柵の向こうで、西日が地面すれすれに斜めから当たっている。雪の残った地面が、ところどころ薄い橙色に染まっていた。
宮田さんは黙って駐車場へ歩いていく。軽トラの運転席のドアを開けて、身をかがめて乗り込んだ。ドアが閉まる音が、しんとした空気に1つ響く。エンジンがかかる。運転席の窓は、下ろしたままだった。あの人は、待たない。待たないことで俺に時間をやっている。
俺が助手席のドアに手をかけた、そのときだった。
「日向くん」
背中に声がかかった。
振り返ると玲司が建物の入口の前に立っていた。黒いダウンジャケットの肩に、西日が細く当たっている。ポケットに手を入れたまま、こちらへ歩いてくるでもなくその場に立っている。
「父が言っていたよ」
俺はドアの取っ手から手を離さなかった。
「日向権三郎という人は、市場で札をほとんど挙げなかった。……何かを握って、ずっと馬を見ているだけだった、と」
風が吹いた。放牧地の向こうから、冷たい空気がすっと流れてくる。柵の白い線の上を、西日がゆっくりと滑っていく。
俺は振り返ったまま、何も言わなかった。
言うべきことがなかったわけじゃない。祖父の話を、この人にどこまで話すか。あの万年筆のこと。市場で札を挙げずに馬を見ているだけだった人が、何を握っていたのか。喉の奥まで出かかって、そこで止まる。言葉にしたらそれはもう俺だけのものじゃなくなる。そういう気がした。
パーカーのポケットの中で万年筆の重さだけが分かっている。握らない。指先に触れているだけだ。金属の冷たさが、冬の空気と同じ温度でそこにある。
玲司は、それ以上は聞かなかった。
俺が何も返さないのを待つでもなく、確かめるでもなく、ただ受け取ったように小さくうなずく。それから、片手をポケットから出して軽く上げた。
「じゃあ、有馬で」
短かった。それだけ言って玲司は背を向けた。事務所の入口へ歩いていく。黒いダウンジャケットの背中が、西日の当たらない建物の影へすっと入っていく。ドアが閉まる音は、聞こえなかった。
俺は助手席のドアを開けて、黙って乗った。シートに体を沈めて、ドアを閉める。
宮田さんは前を向いたまましばらく黙ってハンドルを握っていた。暗くなりかけた国道を、軽トラが一定の速度で走っていく。ヘッドライトの光が、路面の白い線を淡く浮かび上がらせていた。
「……会長も、先代を見てたのか」
ぽつりと、宮田さんが言った。
俺は窓の外の暗がりに目をやった。それから、ダッシュボードの上に置いた種牡馬カタログに目を落とす。答えは、まだ出さない。玲司の言葉を頭の中で反芻するだけで、口にはしない。市場で札をほとんど挙げなかった祖父の背中を、あの人の父親も見ていた。それだけのことだ。今は、それだけだ。
車内灯をつけて、カタログを開く。今年の種付けの冊子だ。来年の分はまだ届いていないけれど、下調べには足りる。行きの車中では、ただの荷物だった。今は意味が違う。ハルノサザナミの相手を探すための、本物の道具になっている。
長距離。道悪。先行。
指先がページを繰る。血統と実績の数字を、ひとつずつ追っていく。気になる名前の横に、鉛筆で小さく印をつけた。丸でもチェックでもない、ごく薄い線だ。消せるように、そして自分にしか分からないように。いくつかつけて、また戻ってひとつ消して、別のページへ進む。宮田さんは何も言わない。ただ、ときどきハンドルを切る音とタイヤが路面を拾う低い音だけが車内にあった。
残った印は、1つだけだった。
外が、ゆっくりと暗くなっていく。国道沿いの防風林が黒い影になって流れていった。空の端だけが、まだうっすらと紫がかっている。
やがて、窓の外に小さな明かりがいくつか見えてきた。牧場の入口の街灯だ。その向こうに、事務所の窓の灯りがぽつんと浮かんでいる。見慣れた光なのに、今日はやけに遠くからでも分かった。
ひなた牧場の繁殖牝馬は、もうすぐ2頭になる。




