木曜の朝
「オーナー、朝早くにすみません」
受話器の向こうの先生の声は、いつもより半音低かった。事務所の壁の時計は6時を回ったところだ。窓の外はまだ暗い。
「昨日の追い切りですが」
先生はいつものように、ひとつずつ確かめるように話す。ウッドチップコースで、須賀が乗った。動きは良かった。時計も予定通りだ、と。
「ただ、昨日の午後の引き運動で」
そこで一度、息を継ぐ音がした。
「右前の歩様がわずかに乱れました。蹄に熱があります」
俺は受話器を持ったまま、机の端に目を落とした。
「挫跖の疑いで、昨日のうちにトレセンの診療所で診てもらいました。レントゲンでは、骨に異常はありません」
骨に異常はない。その一言で肩の力が抜けかけて、抜けきらなかった。熱がある。歩様が乱れた。骨じゃないところが痛い、ということだ。
「有馬に間に合うかどうかは、来週の追い切りまでに決めます」
先生の声は、そこで少しだけ間を置いた。
「……回避も、選択肢に入れておいてください」
「回避、ですか」
俺は聞き返した。自分の声が、思ったより遅れて出た。
「はい。間に合わなければ、無理はさせません」
奥で、宮田さんが長靴を履いていた。何も言わずに、片方ずつ音を立てずに履いている。聞こえているはずだった。
「……分かりました。今日、そっちへ行きます」
受話器を置いた。事務所の中がやけに静かで、時計の針の音だけが聞こえる。宮田さんはもう長靴を履き終えていて、戸口のところで振り返った。
「シズクとサザナミは見とく。行け」
それだけ言って、外へ出ていく。ドアが閉まる音がして、また静かになった。俺は机の上の携帯を取って、画面を開いた。短縮の1番に指を置いて、押す。耳に当てる。コール音が、ひとつ。ふたつ。
奏は、2コールで出た。
「アサツユの右前に熱が出た。挫跖の疑いだ。骨は大丈夫だけど、有馬は回避もあるかもしれない」
携帯の向こうで奏は一瞬息を呑んだ。それから、たった一言だけ返してきた。
「行く」
俺が何か言うより早く、彼女は続けた。
「研修先には私から連絡する。休みの届けは今日中に出すから」
声は早口だった。でも、焦ってはいなかった。ひとつずつ、手順を確かめるような速さだ。
「新千歳から昼前の便で行ける。陸の分の席も、今から一緒に取る」
俺は携帯を握ったまま、窓の外の暗さを見ていた。東の空がようやく薄くなりかけている。牧場の朝の音はまだ遠い。
「……頼む」
それだけ言った。
電話の向こうで奏が小さく息を吐く気配がした。早口だった声が、そこで一度だけ止まる。
「空港で」
◇
美浦に着いたのは夕方だった。冬の日は短く、厩舎の屋根の向こうの空はもう藍色に沈みかけている。俺と奏は同じ便で来た。奏は研修先に休みの届けを出して、俺の隣の席に座った。
「父には言ってきた」
空港のロビーで、俺が何か聞く前に奏がそう言った。それだけだった。俺は何も聞かなかった。聞かなくても、その一言で足りた。
馬房の前で先生と担当さんが待っていた。先生は白いシャツにネクタイのまま、静かに俺たちを迎える。担当さんは馬房の扉の横に立って、頭を下げた。
「オーナー。お待ちしていました」
俺はうなずいて、馬房の中へ目を向けた。アサツユがこちらを見ていた。黒鹿毛の長い脚が、いつもより少しだけ慎重に地面を踏んでいる。
奏が馬房に入った。その瞬間、顔つきが変わった。幼馴染の顔から、獣医の顔へ。手が先に動く。担当さんがアサツユの右前脚を持ち上げる。奏はその蹄に手のひらを当て、次に左の前脚の蹄へ同じように触れた。
「……右が、少し高い」
声は落ち着いていた。でも指先がわずかに震えているのを俺は見ていた。球節の後ろに指を当て、脈を探す。左右を比べてまた右へ戻る。
アサツユは痛いはずの脚を気にしながら、奏の手にはおとなしかった。帽子を鼻でつつくこともない。ただ静かに、されるがままに立っている。
奏が手を離した。
「……熱は蹄だけ。脚の上には来てない」
しばらくして、診療所の獣医と装蹄師が来た。
装蹄師は小さな検蹄器を手に、もう一度確かめるようにアサツユの右前の蹄をそっと持ち上げた。蹄底を外側から順に、ぐっと押していく。アサツユはされるがまま立っていた。ただ、ときどき耳だけがぴくりと動く。
内側の一か所に検蹄器が沈んだときだった。
アサツユの右前脚がびくんと跳ねた。首を上げ、一歩ぶんだけ後ろへ下がる。鼻面に、さっきまでなかったしわが寄っていた。
「ここだ」
装蹄師が低く言った。獣医がうなずく。奏は馬房の隅で両手を前に組んだまま、動かなかった。目だけが装蹄師の手と蹄底のあいだを行き来している。
「蹄鉄を外します。蹄底を削って圧を抜いて、湿布を」
「……内側、ですね」
奏は獣医に短く確認しただけだった。自分の手は出さない。研修の立場をわきまえた、一歩引いた位置で見ている。
装蹄師が蹄鉄を外す。蹄底が薄く削られていく。馬房に鉄の匂いと、削った蹄の匂いが混じった。アサツユはもう暴れなかった。されるがままに脚を預けている。ときどき、俺のほうへ目を向けてからすぐに前へ戻した。
湿布が当てられ、包帯がきっちりと巻かれていく。
白い包帯が右前の蹄をくるんだ。
「……間に合いますか」
俺は獣医のほうを向いて聞いた。声が低いまま出た。
獣医は包帯の端を指で押さえながら、少し考えてから答えた。
「骨に異常がなくて、蹄底の打撲だけなら痛みは早ければ数日、長くて2週間ほどで引きます。数日で取れれば、装蹄し直して乗れます。ただ――蹄の中で膿んでいたら、回避です」
包帯の上で指を離し、獣医は付け足した。
「今は熱が蹄に限られている。そこが分かれ目です」
奏が馬房の隅から半歩だけ前に出た。
「熱が蹄の上に上がってこなければ、膿んでない側だと思います」
断定せず、獣医の顔を見て確かめる口調だった。獣医は短くうなずく。
「ええ。そこを見ます」
先生が馬房の入口に立ったまま、静かに口を開いた。
「有馬記念の特別登録は、今度の日曜にしておきます。出るかどうかは、その後で決めましょう」
そして、少し間を置いて続けた。
「本当なら来週の水曜は1週前の追い切りです。そこを軽めにすれば、仕上げは少し遅れます。正直に言っておきます」
先生は馬房の中のアサツユへ目を戻した。
「遅れは、取り戻せます。脚は、取り戻せません」
俺はパーカーのポケットの中で万年筆を握った。冷たい金属の感触が指に馴染む。馬房の中の黒鹿毛に目を向けると、表示が目の前の空気に浮かんだ。
【スピード:A+】【スタミナ:A+】【パワー:A】【根性:A+】【賢さ:S】 【隠れ適性:中距離向き】【隠れ適性:良馬場巧者】【隠れ適性:自在】
菊花賞の後と何ひとつ変わっていない。どの行を探しても、右前の熱のことはどこにも書いていない。蹄の内側が痛いという情報は、この表示のどこにもないのだ。
ああ、そういうことか。
俺は静かにそう思った。この目が見せるのは走る力だけだ。痛みも、熱も、疲れも映らない。当たり前だ。数字は能力であって、体じゃない。分かっていたつもりで、どこかで頼りにしていた自分がいた。
指から力を抜くと表示はすうっと薄れて消えた。残ったのは、右前脚に白い包帯を巻いたアサツユの姿だけだ。
先生が馬房の扉のそばで言った。
「来週の水曜、軽く乗ってみて決めます」
◇
同じ夜、厩舎の外の洗い場の前で俺はスマホの画面を見ていた。
蛇口から落ちる水滴の音だけが、しんとした空気に響いている。冬の夜だ。指先がかじかむ。
画面に通知が並んでいた。有馬記念のファン投票、最終発表。
1位、アサツユ。58万3412票。
2位、ハヤテノオウ。57万9640票。
逆転していた。12月3日の第2回中間発表で差が縮み、最終でこうなった。
「どうしたの」
奏が隣から覗き込む。俺は画面を少し傾けた。
「……1位だ」
「え」
奏が数字を見て、それから俺の顔を見た。俺は喜ぶ顔を作れなかった。
投票の締め切りは6日。昨日からの蹄の熱とは関係ない票だ。それでも、27日にゲートに立てるかどうかは、まだ分からない。
奏の手が、俺の腕へ向かって上がった。いつもの癖だ。何かあるとすぐ腕を叩く。でもその手は、途中で止まった。宙で一度だけ止まって、それからゆっくりと下ろされる。今日は叩くようなことじゃないと、彼女も分かっている。俺はそれを見ないふりをした。
画面に目を戻す。1位と2位の差は3772票。奏が、その数字をなぞるように読み上げた。
「……3772票」
その声は、さっきより少しだけ低かった。最初の中間発表では、5411票差の2位だった。それがひっくり返った。ひっくり返ったのに、意味が変わってしまった。この票が生きるかどうかは、右前の蹄ひとつに懸かっている。
奏が画面を指で滑らせた。ニュースのページが開く。見出しが目に入った。
「ファン投票1位の二冠馬アサツユ、右前に不安 有馬は未定」
夕方に先生の厩舎が出した短いコメントがもとになっている、という一文が下に添えてあった。その下に、ハヤテノオウ陣営の短いコメントも載っている。「どの馬が来ても、うちの馬の競馬をするだけです」。短くて、揺るぎがない。
1位の馬が出られないかもしれない。そんなことを、俺は口には出さなかった。画面の中の1位の文字だけが、やけに明るかった。
スマホが震えた。須賀からだ。
「オーナー、僕です」
声は静かだった。
「ニュースで見たんじゃないです。先生から聞きました」
俺は「はい」とだけ返した。
「僕は、出るなら乗ります」
一拍、間があった。
「出ないなら、それでいいと思います」
電話を切ってスマホをパーカーのポケットへ戻した。指先がかじかんで、画面の縁がやけに冷たく感じられた。
奏が隣で黙ってこちらを見ていた。聞くでもなく、待っている顔だった。
「俺には、こいつが痛いかどうか、分からなかった」
言ってからずいぶん情けない声だと思った。数字はいくらでも視えるのに、痛みは視えない。昨日からの蹄の熱も、白い包帯の下の腫れも俺の目には何も映らなかった。
奏はすぐに返した。
「分からなくていいよ。それは、私の仕事」
短くて、迷いがなかった。俺は「ああ」とだけ言った。礼を長く言うと、そのぶんだけ何かが薄まる気がした。
厩舎の戸が開いて先生が出てきた。白いシャツの上に上着を羽織って、足元は長靴だった。
俺は先生の顔を見て言った。
「判断は先生と獣医さんに。奏の見立ても聞いてやってください」
「……無理は、させないでください」
先生は短くうなずいた。それだけで、余計な言葉はなかった。
有馬に出るかどうかは、水曜の朝が決める。




