水曜のウッド
12月16日、水曜日。美浦の空はまだ薄暗い。ウッドチップのコースへ向かう通路の脇で、奏が担当さんと並んで立っていた。担当さんが引き綱を持って、アサツユをゆっくり歩かせている。前の晩までに熱は引いて、蹄鉄も打ち直してあった。
奏の目は右前の脚から離れない。馬の横を半歩後ろについて、蹄が地面に落ちるたびに首をわずかに傾けている。診療所の獣医も隣を歩いていた。防寒の上着のポケットに手を入れたまま、同じ速さでついてくる。
一度、馬が止まった。担当さんが短く引き綱を緩める。奏がしゃがみ込んで、右前の蹄に手のひらを当てた。
「……熱、引いてます」
獣医も横から手を添えて蹄の内側を指でそっと押さえた。馬は耳をぴくりと動かしただけで、脚を引かない。獣医が手を離し、立ち上がりながら言った。
「歩様は問題なさそうです」
奏が担当さんへ目で合図を送る。馬がまた歩き出す。蹄の音が凍った地面の上で乾いたリズムを刻んだ。
俺は通路の端に立ったまま、ポケットの万年筆には触れなかった。触れても分からない。痛みは視えない。それが今日は、妙に腹の底で落ち着いていた。
先生が馬の横に並んで歩幅を合わせている。しばらく無言で歩いて、それから静かに口を開いた。
「軽く乗ります」
須賀が跨るとアサツユは一度だけ首を振った。それからゆっくりとウッドチップのコースへ入っていく。蹄の音が凍った朝の空気にひとつずつ沈んでいく。
キャンターのリズムはいつもより少しだけ慎重だった。前へ進むたびに、右前の蹄が地面を捉える。俺はその着地だけを目で追っていた。沈む瞬間、わずかに庇っていないか。蹴るたびに、どこかで痛みを逃がそうとしていないか。
奏はコースの金網の前に立ったまま動かなかった。両手をコートのポケットに入れて、首だけが馬の動きに合わせてゆっくり動いている。先生は隣で腕を組み、無言だった。
直線に入る。須賀が手綱を少しだけ緩めた。アサツユの背中がぐっと伸びて、一完歩ごとに地面を蹴る力が強くなる。右前の蹄が最後まで同じ深さで沈んでいる。
速度を落として、アサツユがこちらへ戻ってくる。
上がってきたアサツユの引き綱を、担当さんがそっと引き寄せる。白い息が馬の鼻先と人の顔のあいだで交じった。奏が歩み寄って、右手を右前の蹄の内側へ滑らせる。指先で球節の後ろを探り、蹄の裏を押し、それから左の前脚にも同じ手つきで触れて、しばらく比べていた。
顔を上げた。
「……大丈夫」
いつもの明るい言い方ではなかった。安堵が喉のどこかで引っかかったみたいに、声の終わりがわずかに揺れている。奏はすぐに口元を引き締めて、獣医のほうへ横を向いた。獣医が「熱は上がっていません」と短く添える。奏の肩から、肩甲骨のあたりまでの線がほんの少しだけ下がった。
先生がコートの前を留め直して、馬の横顔のほうへ顔を向けたまま言った。
「来週の最終追い切りまで、このまま行きます」
一拍置いて。
「有馬に、向かいます」
須賀が鐙から足を抜いて下馬した。鞍の脇に手を添えて降り、手綱を担当さんへ渡す。それから俺のほうへ歩いてきて、ヘルメットの横の金具を外しながら口を開いた。
「右前、気にしてませんでした」
息が白く流れた。
「むしろ、走りたがってます」
この馬は痛みより先に走ることを選ぶ。
洗い場の蛇口から細い水が落ち続けている。担当さんがアサツユの右前脚を抱えるように持ち上げ、奏がホースの先を蹄の裏へ向けていた。水が白い泡を立てて流れ、コンクリートの上を薄く濡らしていく。
俺は少し離れた場所に立って、それを見ていた。凍てつく朝の空気の中で、水の音だけが妙にはっきりと耳に届く。
アサツユはされるがまま、じっと脚を預けている。たまに耳だけが、水の冷たさにぴくりと動いた。奏の指先が蹄の内側をなぞるように確かめ、それから短く「うん」と言ってホースを置いた。
58万3412票。昨日の夜に携帯で見た数字が、ようやくそのままの重さで胸の中へ落ちてくる。この票が、この馬の走りを待っている。そのことが、今朝は素直に嬉しかった。
馬房へ戻す前に担当さんが脚を拭いていると、アサツユが突然首を伸ばした。その鼻先は奏の袖を狙っている。くわえてぐいと引っ張る。
「ちょっと、やめなさいよ」
奏が笑った。本当に困ったような、でも声のどこかがほっと緩んだ笑い方だった。俺はポケットの中で手を開いたり閉じたりしながら、その笑い声を聞いていた。
◇
12月17日の夕方に、俺は日高へ戻った。奏は研修先へ戻った。
事務所のストーブの前で、俺はノートパソコンの画面を開いていた。
競馬ニュースのサイト。一番上にまだ昨日までの見出しが残っている。「ファン投票1位の二冠馬アサツユ、右前に不安 有馬は未定」。その下に、今朝出た新しい記事が並んでいる。「軽い蹄のトラブル 出走予定に変更なし」。先生の短いコメントが引用されていた。
ストーブが、ぱきりと鳴った。
机の上で携帯が震えた。画面に三上の名前。出ると、耳を刺すような大声が飛んできた。
「若旦那! 見たぞ、記事! 1位の馬が出られねえんじゃ、俺の票が泣くとこだったぞ!」
「まだ出ると決まったわけじゃないです」
「なんだそりゃ。変更なしって書いてあるじゃねえか」
「軽く乗っただけです。最終追い切りは来週です」
「なんだその冷たい言い方は。こっちは町内会全員で入れたんだぞ。一人一人が自分で1票ずつな。お前のとこの馬に、だ。町内会全員だぞ」
自慢げだった。誰が入れたかより、全員が入れたという事実のほうが嬉しいらしい。
「ありがとうございます」
「それだけか」
「それだけです」
「……まあいい。走るなら応援する。走らねえなら、それはそれで仕方ねえ」
電話を切った。画面の見出しは、まだ昨日のものが上にある。
厩舎へ出ると、宮田さんがサザナミの馬房の前に立っていた。隣のシズクと並んだ2頭を、腕を組んだまま黙って見ている。サザナミは相変わらず地味な鹿毛で、シズクのほうがよほど堂々として見えた。それでも宮田さんはしばらく動かなかった。
「……こいつ、もう牧場の匂いになったな」
ぼそりと、馬房の柵に手をかけたまま言った。声が低くて、褒めているのかどうか一瞬迷う。でも言い方の端に、少しだけ温度があった。
「ですね」
俺は短く返した。サザナミは耳だけ動かして、また藁を踏んだ。
事務所へ戻ると、ストーブの前に宮田さんが新聞を置いていった。有馬記念の特集だ。広げた紙面の真ん中に、でかい活字が1つ。
「秋古馬三冠か、二冠の3歳か」
俺はその文字を、しばらく黙って見ていた。
◇
12月23日、水曜日。美浦で最終追い切りがあった。
朝、事務所のストーブがまだ温まりきらないうちに携帯が鳴った。画面に先生の名前。出ると、いつもの落ち着いた声が少しだけ弾んでいた。
「オーナー、最終追い切りが終わりました」
「須賀が乗って、ウッドで僚馬と併せました」
一拍置いて、先生は続けた。
「半馬身、先着です。終いの1ハロンは11秒9。脚元は問題ありません」
俺は携帯を耳に当てたまま、机の縁に目を落とした。11秒9。数字だけが先に頭へ入ってくる。脚元は問題ない。その一言が、後からじんわりと効いてきた。
「動画を送らせます。須賀が撮らせたやつです」
電話を切って少しすると、短い動画が届いた。宮田さんが湯呑みを持ったまま横に来て、俺の手元を覗き込む。
小さな画面の中で、2頭が並んで直線を来る。終いで、黒鹿毛がぐっと前に出た。半馬身。画面が揺れて、そこで終わった。
「……脚、庇ってねえな」
宮田さんがぼそりと言った。それだけだった。でも湯呑みを持つ手が、少しだけ緩んでいた。
◇
明けて24日、木曜の午後2時。出馬投票が締め切られた。
俺は事務所のパソコンで、更新される画面を見ていた。宮田さんは黙って後ろに立っている。
一覧の中に、アサツユの名前があった。16頭立て。回避の文字はどこにもない。
「……決まった」
俺は画面の前で、そう言った。
夕方、事務所のテレビをつけた。公開枠順抽選会の中継が、ちょうど始まったところだ。宮田さんがストーブの横に座って、湯呑みを両手で包んでいる。画面では司会が淡々と進行を読み上げ、抽選で選ばれた関係者が順に壇上へ上がっていた。
自分の手でボールを引く方式だ。引いた番号がそのまま馬番になり、枠もそれで決まる。画面の横には、まだ空欄だらけの出馬表が映っている。16頭分の枠が、白いままで並んでいた。
最初に呼ばれたのがシロガネノミチの関係者だった。篠宮ファームの生産馬で、逃げ馬。奏の実家で生まれた馬だ。壇上の人がボールに手を伸ばし、取り出して番号を読み上げる。1枠1番。最内だ。逃げ馬にとっては、これ以上ない場所だった。
「……あいつ、内に入れたな」
宮田さんが湯呑みを口元に持っていったまま、ぽつりと言った。俺も同じことを思っていた。ゲートの一番内側から、あの細い脚で先手を取られたら、後ろはたまったものじゃない。
机の上で携帯が短く震えた。画面を開くと、研修先に戻っている奏からのメッセージが2行並んでいる。
「41番、1番引いた」
「逃げるよ、あの子」
41番。シロガネノミチが生まれた年に、篠宮ファームでそう呼ばれていた馬だ。奏が研修1年目に、自分の手で出産に立ち会ったと言っていた。
俺は「見てた」とだけ返して、テレビの画面に目を戻す。空欄だらけだった出馬表の一番上に、シロガネノミチの名前が白く収まっていた。
順番が進む。いくつかの馬名が読み上げられ、出馬表の白い枠がひとつずつ埋まっていく。
そして、アサツユの番が来た。画面の端に「アサツユ」の文字が出る。壇上に先生の姿があった。白いシャツにネクタイ、いつもと変わらない落ち着いた足取りで、抽選箱の前に立つ。ボールを引き、取り出した番号を司会に渡す。
画面の出馬表に、新しい枠が埋まった。
2枠4番。
「……内だ」
短かった。アサツユの4番のことを言っている。俺も画面の枠を見ながら、コーナーを6つ回るこのコースなら、内で脚をためられる位置だと思った。外から捲るより、内で我慢して直線だけに賭ける形のほうが、この馬には向いている。声には出さなかった。出せば、願いが先に立つ。
出馬表が、またひとつ埋まった。4枠7番。ハヤテノオウの名前がそこに入る。大きな栗毛の写真が横に映し出された。額から鼻まで太い流星が、画面の中でもはっきりと見えた。まだ実物は見たことがない。それでも、あの馬が同じレースにいるというだけで、事務所の空気がすっと締まるのが分かった。
1番シロガネノミチ。4番アサツユ。7番ハヤテノオウ。
携帯が鳴った。画面に先生の名前。宮田さんがテレビの音を小さくする。
「オーナー。4番を引きました」
先生の声は、いつもどおり落ち着いていた。少しだけ、息の底に温度があった。
「見てました」
「内め、ですね。悪くないと思います」
少し間があって、先生は続けた。
「前日の土曜に、中山へ入れます」
俺は携帯を耳に当てたまま、画面の出馬表を見ていた。
「分かりました。よろしくお願いします」
電話を切る。テレビでは、まだ抽選が続いていた。残りの枠がひとつずつ埋まっていく。宮田さんは黙って画面を見ていた。
年末の中山に、3頭がそろう。




