暮れの中山
12月の最後の日曜日。中山競馬場の正門をくぐったとたん、人の熱で耳がぼうっとした。
「……人、多すぎ」
隣で奏が、マフラーに顎を埋めたまま言った。
正門を抜けると人の流れがそのままスタンドの通路へと吸い込まれていく。宮田さんが前を歩き、俺と奏はその半歩後ろを並んで進んだ。
「押さないでください」という係員の声と、あちこちから上がる笑い声が混ざって、耳の奥がくすぐったい。奏はマフラーを直しながら、人の隙間を縫うように小走りになった。
場内の大きなビジョンに単勝オッズが映し出されていた。1番人気ハヤテノオウ、2.6倍。2番人気アサツユ4.3倍。芝は良。数字を目で追って、俺は口の中で小さく繰り返した。怪我の記事がまだ残っているから、ファン投票1位ほどには買われていない。それでも、この馬の走りを知る奴はこの数字をつきすぎだと思うだろう。
宮田さんは何も言わなかった。ただ、人の流れに逆らわないようにゆっくりと前へ進んでいく。
通路の先から薄いグレーのジャケットを着た男が、まっすぐこちらへ歩いてくるのが見えた。
篠宮貴之だ。手にはいつもの手帳。片手で軽く持ち上げて、俺にだけ分かるくらいの笑みを浮かべる。
「やあ陸くん」
「お疲れさまです」
貴之は俺の隣に立つと人の流れを背にして手帳を開きもせず、静かに言った。
「1番を引いたのはうちの子だよ。……今日は逃げる」
宣言ではなかった。事実をそのまま口にしただけの、淡々とした声だった。あの芦毛の馬が、あの内枠から先手を取る。それだけのことだ、と言うように。
隣で奏がマフラーを直して、半歩前へ出た。
「お父さん。あの子、1周目で行きすぎないでね」
貴之は手帳を胸の前で軽く持ち替えて、困ったように眉を下げた。
「それは乗る人に言いなさい」
それきりだった。奏は「もう」と小さく言って、マフラーに顎を埋める。親子の会話はそこで終わりで、貴之はまた穏やかな顔に戻って俺のほうへ向き直った。
「それじゃあ、馬主さんのところへ戻るよ。今日は生産者として、お供でね。陸くんたちも、いいレースを見よう」
「はい」
貴之は手帳を小脇に挟み、人の流れに沿って歩いていった。宮田さんが無言でその背中を一瞥して、また前を向く。
場内アナウンスが、遠くのスピーカーから低く響いてくる。
「パドックの周回が始まります」
その声で腹の底がすとんと冷えた。
◇
パドックの内側は冬の午後の日差しが芝生を薄く光らせていて、スタンドより静かだった。
スタンドのざわめきが遠い。係員の革靴の音と、馬の蹄の低い音だけが、輪の中に満ちている。
アサツユが担当さんに引かれて回ってきた。黒鹿毛の肩が日差しを吸って、波のように動く。右前の脚は地面をとらえるたびに深く、同じ深さで沈んでいた。庇う素振りはどこにもない。俺は手をポケットから出して、ただ見ていた。
柵の外、人垣の隙間から奏の顔が見える。奏は一歩も動かず、目だけでアサツユを追っていた。その視線の先は、肩でも顔でもなく右前の蹄だけだった。馬が一完歩するたびに、奏の瞳がわずかに動く。
アサツユは俺の前を通り過ぎる瞬間、首をひょいと伸ばした。いつもの癖だ。だが引き綱の長さが足りず、鼻先は俺の帽子のつばまで届かない。空をくわえるように鼻を鳴らして、そのまま行ってしまった。
俺は帽子の位置を直しながら小さく笑う。
輪の内側では俺の少し後ろに先生が立っていた。白いシャツにネクタイ。ただアサツユの脚元だけを見ている。馬が目の前を通り過ぎる。その歩様を追って、先生は何も言わずに一度だけ目を細めた。
代わって、1番のゼッケンをつけた芦毛が周回に入ってくる。シロガネノミチだ。灰色がかった体が冬の日差しの下でほのかに白く見える。細い首を軽く振って、あの脚でゆっくりと輪を描く。俺はポケットから手を出したまま、そいつを見た。万年筆には触れない。
柵の外が、ざわつき始めた。俺の背後の人垣が、波のように一度ざわめいてそれから声が上がる。
「三冠かかってんだぞ」
「去年もこれで勝ってる」
栗毛が、後ろから回ってくる。俺は振り向いた。
大きな栗毛だった。流星が午後の日差しの下で白く光っていた。
俺はジャケットの内ポケットに手を入れた。指先が冷たい金属の軸に触れる。祖父の万年筆。そっと握り込むと、視界の端に淡い光が滲んだ。
ハヤテノオウが目の前をゆっくりと通っていく。大きな栗毛の馬体は冬の日差しを吸い込んで、深い胸のあたりがどっしりと揺れていた。首の差しが長い。一完歩ごとに、地面を掴む力がこっちまで伝わってくるようだった。観客のざわめきが近くで弾けても、耳ひとつ動かさない。5歳の古馬の落ち着きが、空気ごと重たい。
【スピード:S】
指先が、びりっと痺れた。S。スピードのSは、初めて見た。Sなら、シロガネノミチのスタミナと、菊のあとのアサツユの賢さで見た。その表示が、今度はスピードで浮かんでいる。
【スタミナ:A】
【パワー:A+】
【根性:A+】
【賢さ:A】
【隠れ適性:中距離向き】
【隠れ適性:良馬場巧者】
【隠れ適性:先行】
なんだこれ。ゲームで言うなら、最終ボスのステータスがそのまま歩いてる。こっちはまだ育成途中の主人公ですらない。よくここまで来たよ、うちの馬。
あの馬が、同じレースにいる。ただそれだけで、パドックの空気が一段階冷えた気がした。
俺は万年筆からゆっくり指を離した。
パドックの輪の中で俺はポケットに手を入れたまま、頭の中の数字を静かに並べていた。
スピードはSとA+。パワーはA+とA。賢さはAとS。
足りないものを数えると胃のあたりがきゅっと冷えた。でも、ひとつだけ表に出せる差もある。斤量だ。3歳のアサツユは56キロ。古馬のハヤテノオウは58キロ。新聞にも書いてある、誰の目にも見える2キロの差。これがどう出るか、紙面の数字だけでは分からない。分からないから、レースがある。
係員の「止まれ」の声がかかって、各馬が順に歩みを止める。冷えた空気の中で、呼吸の白さだけが揺れていた。騎手たちが輪の中へ入ってくる。白に青の二本輪、見慣れた勝負服が近づいてきて、俺の前で足を止めた。
「オーナー」
須賀はそれだけ言って、黙って俺の目を見ていた。小柄な肩が、冬の日差しの下でまっすぐに見えた。
俺は少しだけ間を置いて、口を開いた。
「1周目の坂は、我慢で」
須賀がこくりと頷く。
「……2回目の坂は、須賀さんの好きなところで」
一瞬、須賀の薄い頬がほころんだ。騎乗の号令がかかる直前、須賀はもう一度だけ頷いて静かに言った。
「……はい。2回目は、僕が選びます」
係員が誘導を始める。各馬が本馬場へ向かって歩き出す中、俺の前を大きな栗毛が横切った。流星が光って、深い胸がゆっくりと揺れていく。2キロの差を背負った背中が、俺の目の前を通り過ぎていった。
◇
スタンドの最前列に立つと風が顔に当たった。日はもう傾いているのに、空気だけが芯から冷えている。隣の宮田さんは黙っていた。奏は両手で耳をふさぐようにして、前だけを見ていた。
場内にファンファーレが鳴り渡る。金管の音が腹の底まで沈んで、観客の手拍子が波のように押し寄せてくる。どっと沸いた歓声が、スタンドの鉄骨を震わせた。
「来たぞ」
宮田さんが低く言った。その声が、妙に耳の奥でくっきり響く。
ゲートはスタンドから見て右手の奥だ。外回りの3コーナー手前に、色とりどりの馬体が小さく並んでいる。俺は息を止めて、その一点を見た。
スピーカーから実況の声が飛び込んでくる。
「最後の1頭が収まって、態勢完了」
観客の手拍子が速くなる。心臓が、それより速い。奏が隣で「行け」と小さく言った。誰にでもなく、祈るみたいに。
ゲートが開く。
一瞬、音が消える。16頭分の蹄が地面を叩く重い音だけが、遅れて届いた。
「さあ、スタート! まず先手を奪ったのはシロガネノミチ! 迷いなくハナへ! 外からハヤテノオウ、3番手につけます!」
実況の声が、観客の歓声を割って伸びる。
俺は目を凝らした。内ラチ沿いに灰色がかった芦毛が1頭、ぐんぐんと先頭を取っていく。細い脚が、まるで空気を切るみたいに前へ出る。後ろを突き放す逃げだ。
その3番手の外に大きな栗毛がいた。流星が日差しを跳ね返して、白く光って見える。あの馬体が3番手にいる。それだけで、レースの空気がぴんと張り詰めた。
アサツユは、どこだ。
黒鹿毛を探す。内の6番手あたりに、見慣れた勝負服があった。白に青の二本輪。須賀が折り合いをつけて、前に1頭置いている。内で脚をためるには、悪くない。
「6番手か」
宮田さんがつぶやいた。俺は声に出さずに、そうだそれでいいと心の中で繰り返す。最初のコーナーまで、200もない。須賀がどこで前を掴むか、あの馬がいつスイッチを入れるか。それだけを考えろ。
馬群が内回りに合流し、ひとかたまりになって最初のコーナーを回っていく。蹄の音がひとつに重なって、スタンドまで地鳴りみたいに響いてきた。4コーナーを回れば、スタンド前の急坂だ。
「……来る」
奏が呟いた。
観客が前のめりになる。足元から、手拍子がまた大きくなった。スタンドの空気が熱を帯びて、風の冷たさだけが首の後ろに張りつく。
16頭が、1周目のスタンド前へ向かってくる。
スタンド前の急坂。暮れの中山の大歓声が、京都のときより一段と大きくて、足の裏から地面ごと揺さぶってくる。俺は手を前のめりの体の横で握った。何も掴まない。掴んだら、たぶん指が白くなる。
先頭はシロガネノミチだ。灰色がかった芦毛が、内ラチ沿いを飛ぶように上ってくる。細い脚が坂に沈むたび、跳ね返るみたいに前へ出る。逃げ切りを狙う背中が、もうゴールの向こうまで見ているみたいにまっすぐだ。
その3番手の外。大きな栗毛が、ゆったりと坂を上ってくる。流星が白く光って、胸の深さが揺れるたびに「まだ仕掛けない」とでも言うように落ち着いている。5歳の背中は、この喧騒の中でも静かだ。
アサツユは内の6番手。白に青の二本輪が見える。須賀の手綱は……動かない。動かないまま、黒鹿毛は前の馬の後ろをぴたりと追っている。
菊花賞の1周目を思い出す。あのとき、京都のスタンド前で、アサツユの首がぐっと上がった。歓声に押されて、外のまま前へ行きたがった。
今日は――上がらない。
耳だけが、スタンドのほうへ一度動いてすぐ前へ戻る。首の高さは、さっきから一分も変わらない。低くて、長くて静かだ。歓声を聞き流している。聞こえてはいるけど、走ることにだけ集中している。そういう首の使い方だった。
賢さがSになった馬は、こういう走り方をするのか。目の前で、黒鹿毛の首が何も乱さずに坂を上っている。それだけのことだ。
奏が隣で、マフラーに顎を埋めたまま小さく言った。
「……今日は、聞いてない」
俺は答えなかった。答えられなかった。聞いてない、じゃない。聞く必要がないとあの馬が自分で決めてる。そんな顔で走ってる。
馬群が急坂を上りきり、ゆるい上りのまま1コーナーへなだれ込んでいく。
1コーナーを回って馬群が2コーナーへ向かう。蹄の音がぐっと低くなる。内ラチの白い線が、馬体の影を食っていくみたいに伸びている。
先頭はシロガネノミチだ。1馬身ほど後ろを、2頭が追う。3番手の外にいた大きな栗毛が、2コーナーの出口でするりと外へ持ち出された。
「ハヤテノオウ、早くも2番手に上がっていきます!」
実況の声が、向正面の風に乗ってスタンドまで届く。騎手の手はほとんど動いていない。なのに、あの馬体はすっと前へ出た。まるで、前にいる馬の脚が止まったみたいに見える。
「……早ぇな」
宮田さんが低く言った。
おい、待てよ。まだ向正面の入口だぞ。ここで来るのか。こっちは6番手で我慢してるってのに、2キロ重い体で何さらっと上がってんだよ。
心臓が、耳のすぐ裏で暴れてる。手のひらが冷たい。あの栗毛はまだ一度も脚を使っていない。使わずに2番手だ。こっちは脚をためて、ためてそれでも足りるか分からない相手なのに。
風がスタンドを抜けた。前の馬群はもう向正面へ入っている。内ラチ沿いに、白と青の勝負服がまだ沈んでいる。
王者が、先に動いた。




