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継いだのは借金まみれの牧場でした。でも、馬の才能が視えるので何とかなります  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


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2回目の坂




 向正面の風が、スタンドの最前列まで吹き抜けてくる。


 外を、大きな栗毛が上がっていく。ハヤテノオウだ。逃げるシロガネノミチとの差が、目で見て分かるくらいに縮まっていく。騎手の手は動かない。動かさないまま、馬体だけが前へ出る。2キロ重いとか関係ないとでも言うように、芝を食っていく。


 1コーナーで聞いた実況の数字が、まだ耳に残っている。1000メートルの通過は、1分1秒4。速い。菊花賞の1周目より速い。なのに、あの栗毛はまだ何も使っていない顔をしている。これが古馬の王者か。去年もここで勝って、今年も秋天とジャパンカップを連勝してきた馬は、暮れの中山でも自分の競馬だけをしている。


 内の6番手。白と青の勝負服はまだ沈んでいる。内の列の前には3頭。須賀の手綱は動かない。動かずに、ただ前の馬の尻だけを見ている。


 おい、こっちはいつ動くんだ。いやまだだ。まだ動くな。向正面で動いたら、坂の下で脚が終わる。分かってる。分かってるけど、あの栗毛が先に行くのを見てると、胃のあたりがきりきりしてくる。せっかく56キロで出られるんだぞ。2キロ軽いんだぞ。その2キロを、ためてためて爆発させるんだろ。


 俺は手すりを握りそうになって、やめた。代わりに爪先で地面を蹴る。隣の宮田さんは微動だにしない。奏は両手を口の前で組んで、指先だけが白い。


 逃げ馬がまだ先頭にいる。細い芦毛の脚が、向正面の直線を淡々と刻んでいく。2番手の栗毛が、その背中をじわじわと食いかける。だが、まだ並ばない。王者はまだ並びかけない。


 3コーナーを入ってすぐ、外から大きな栗毛が動いた。


 ハヤテノオウが逃げる芦毛に並びかける。内ラチ沿いの白い線を、2つの影がなぞるように伸びていく。スタンドのどよめきが腹に響いた。


「秋古馬三冠へ、ハヤテノオウ先頭に並びかける!」


 実況の声が割れる。


 おい、早い。まだ3コーナーだぞ。坂の前で並ぶのか。58キロで、それでも前を食うのか。あの栗毛は本気で前を潰しに来てる。


 後ろの馬群が一斉に動く。馬体が固まって、土手のように盛り上がる。その真ん中で、白と青の勝負服が壁に囲まれていた。アサツユの前は馬でびっしりだ。須賀の手綱は、まだ動かない。外へ出さない。内で、じっと前の尻を見ている。


 おい、壁だ。そこにいたら出られないぞ。前が詰まったら、脚を余す。せっかくためた脚が、ぜんぶ無駄になる。


「前が壁ってレベルじゃない、これはSSR大渋滞ガチャだ!!」


「こっちの手綱はまだ眠ってるのかよ!!」


 周りの観客が一斉にこっちを振り向く。


 胃がきゅうっと縮んで、心臓が耳の裏でドカドカやってる。隣で奏が、小さく息を吸った。


「陸」


 返事をしない。俺の目の前で、芦毛がまだ先頭を走っている。細い脚が3コーナーを回り切る。内ラチ沿いを、まるでひとりだけ別のレースをしているみたいに、軽い足取りで抜けていく。2番手の栗毛が、その真後ろに張りついた。


 後ろでアサツユが動かない。いや、動かしてない。須賀が止めてる。あれは動けないんじゃない。自分から内で脚をためてる。


 分かってる。分かってるけどこっちは素人だ。レースを見るたび、心臓が縮む。出られなかったらどうする。開かなかったら終わりだ。あの2頭は、もう直線の絵を描いてる。それでも、お前はまだ脚を使ってない。こっちの2キロは、まだ下ろしてない。


 馬群が4コーナーへなだれ込む。黒鹿毛がまだ内で沈んでいる。前を走る馬の背中が、壁になって揺れている。俺は唇を噛んで、その隙間が開くのを待った。


 4コーナーを回って、直線。前には芦毛と栗毛の2頭が壁になっていた。


 直線の入口で、栗毛が外へわずかに膨らんだ。


 内ラチ沿いでは芦毛がまだ粘っている。2つの馬体の間に、するりと隙間が生まれる。馬1頭分。いや、それより少し狭い。一瞬の呼吸ひとつ分の穴だ。


 須賀の手綱がぴくりと動いた。


 黒鹿毛が、その隙間へ頭から入っていく。強引にこじ開けるんじゃない。まるで最初からそこに道があったみたいに、白と青の勝負服が2頭の間に吸い込まれていく。


「っ!」


 声が出た。自分でも何て言ったか分からない。喉が震えて、握った拳に爪が食い込む。


 パドックで言った。2回目の坂は須賀さんの好きなところで、と。あのとき須賀ははい、僕が選びます、と静かに頷いた。その場所がここだ。残り300を切って、前が壁から2頭に変わったこの一瞬を、須賀は待っていた。


 俺の横で奏が息だけで言った。


「入った」


 その声が耳の奥でやけに鮮明に響く。


 内の芦毛がまだ抵抗している。外の栗毛も手応えを失っていない。その真ん中を、黒鹿毛が一完歩ずつ割っていく。狭い。狭いはずなのに、あの馬の首は少しもぶれない。ひたすら前だけを見て、2頭の間をこじ開けていく。


 行けるのか。いや、まだだ。ここからだ。ここからが坂だ。


 ゴール前の急坂を、3つの馬体が横並びで駆け上がる。


 内に芦毛、外に栗毛、真ん中に黒鹿毛。3頭分の蹄音が地面を砕くように重なって、スタンドの歓声ごと押し寄せてくる。


 芦毛の首が振れる。セントライト記念のときと同じ、菊のときと同じ細い首を振り子みたいに使って粘る。あの脚はまだ止まらない。3度目の大舞台でも、この馬は自分の走りを手放さない。


 外から栗毛が伸びてくる。大きな馬体が、重さを感じさせないままぐんぐんと前へ出る。スピードSの脚が、空気を裂くようにして3頭の先頭へ出ようとする。2キロ重い体が、坂の上でいちばん速く見える。


 真ん中の黒鹿毛が首を低くした。


「あの馬は、坂で脚を使う馬だ」


 宮田さんの低い声を思い出した。あの言葉が、耳の奥で繰り返し鳴っている。黒鹿毛の脚が、地面に沈んで跳ねる。沈んで、跳ねる。一完歩ごとに前へ出る距離が伸びている。


「アサツユ!」


 腹の底から叫んでいた。自分でも驚くほど濁った声が出た。真ん中で挟まれながら、それでも首を下げて坂を上る黒鹿毛に向けて、もう一度だけ叫ぶ。


「負けんな!」


 観客の怒号がスタンドを揺らす。実況の声が割れんばかりに伸びる。


「シロガネノミチ粘る! ハヤテノオウ来る! アサツユも真ん中から!」


 風が顔に叩きつけられて、目が乾く。それでも瞬きをしなかった。真ん中の黒鹿毛が、あの芦毛と栗毛の間に食らいついている。3頭の首が、上がったり下がったり一本の横線の上で激しく揺れる。


 パドックで見たあのSの文字が頭をよぎる。それでも、俺の馬は2キロ軽い。2キロ軽いんだ。坂で脚を使う馬なら、ここで使え。いま使え。その2キロを、最後のひと蹴りに変えろ。


「アサツユぅぅ!」


 喉が焼けた。ただ、真ん中の黒鹿毛だけを目で追った。


 ゴール板が近い。内の芦毛も、外の栗毛も、まだ誰も後ろへ下がらない。真ん中の黒鹿毛が、最後の一完歩でわずかに前へ出たように見えた。


 3頭が、重なったままゴール板の前を駆け抜けた。


 ゴール板の向こうで、音が消えた。スタンドが、息を止めたみたいに静かになった。


 掲示板が点滅する。1着4、2着7、3着1。着差はアタマ。確定のランプは、まだ点いていない。


「3歳二冠馬アサツユ! 王者の秋古馬三冠を阻みました!」


 その声が合図だった。スタンドが爆発する。地鳴りみたいな歓声が背中から押し寄せて、俺は前のめりになりかけて手すりに手をついた。


 隣で、奏が座り込んでいた。声を出さない。双眼鏡を胸に抱えたまま、ただ前を見ている。


 宮田さんは帽子をつまんで深くかぶり直した。つばの影で目元が隠れて、口元だけが少し動いた。


 握っていた拳を、ゆっくり開く。手のひらに爪の跡が白く残っていた。


 ゴール板を過ぎても、黒鹿毛は首を下げたまま走っていた。誰も止めない。あのまま、もう1周するみたいに。


「……まだ、走ってる」


◇


 検量室の前は、スタンドの歓声が嘘みたいに遠かった。


 担当さんがアサツユを引いて戻ってくる。黒鹿毛の首はまだ低くて、肩が大きく波打っていた。汗で毛が光っている。その歩みに、誰より先に奏が駆け寄った。マフラーを片手で外しながら、担当さんが持ち上げた右前の蹄をのぞき込む。指先で蹄の内側に触れて、熱を確かめるみたいにゆっくりと手のひらを添える。


「……大丈夫」


 奏の声が、泣きそうに震えていた。でもその手つきはもう獣医のそれで、目は濡れているのに指は迷わない。俺は少し離れた場所から、ただそれを見ていた。近づく勇気がなかったわけじゃない。あの輪の中は、あの馬の無事を一番に祈ってきた奴だけが入れる場所だと思った。


 須賀が後検量を終えてこちらへ歩いてくる。ヘルメットを外した顔は汗で光っていて、薄い頬がまだ上気していた。俺の前で立ち止まると、ヘルメットを両手で持ち直して、まっすぐに俺を見た。


「2回目の坂、好きなところを選びました」


 呼吸がまだ整っていない。それでも声は静かで、はっきりとしていた。


「……前の2頭の間しか、なかったので」


 俺は、口を開くまでに一拍かかった。ありがとう、でもない。よくやった、でもない。頭に浮かんだのは、パドックでのあの薄い頬の笑みだった。


「……最高の場所でした」


 須賀は、一瞬だけ目を伏せてそれから小さく、本当に小さく笑った。


 場内に、着順の確定を告げるアナウンスが流れた。


 俺は、その声を背中で聞いた。


 夕方の光がコンクリートを薄く照らしていた。どこかで誰かが勝ち馬の名前を叫んでいるが、それも風に溶けて途切れ途切れだ。


 俺はジャケットの内ポケットに手を入れた。指先が、まだ温い金属の軸に触れる。祖父の万年筆。そっと握り込むと、視界の端に淡い光が滲んだ。


 汗で光る黒鹿毛の肩が、夕日を吸って揺れている。アサツユは首を低くしたまま、担当さんに引かれてゆっくりと歩いていた。その背中に、表示が静かに浮かぶ。


 【スピード:A+】


 【スタミナ:A+】


 【パワー:A+】


 【根性:A+】


 【賢さ:S】


 【隠れ適性:中距離向き】


 【隠れ適性:良馬場巧者】


 【隠れ適性:自在】


 指先が、びりっと痺れた。


 パワーが、A+になっている。ついさっきまでAだったはずの文字が、今は確かにA+でそこにある。俺は目を細めて、その一文字を何度も見直した。


 ああ、そうか。


 新馬戦のとき一瞬だけ見えた気がした「+」の残像。あれは気のせいじゃなかったんだ。あの頃のあの馬は、まだ数字に追いついていなかっただけで、今日、中山の急坂を2度越えたことで、ようやく体が追いついた。そういうことだ。


 ゲームで言うなら隠しパラメータが条件を満たして解放されたみたいなもんだ。分かりにくい育成イベントかよ。でも、それなら納得できる。坂のたびに、あの脚が地面を深く掴んでいた理由も。


 俺は、息を吐いた。


 【隠れ適性:中距離向き】


 その行だけが一瞬、濃く見えた。夕日のせいかもしれない。まばたきをする間に、表示はいつもの淡さに戻っていた。


 俺は、万年筆から指を離した。


 通路の途中で白髪の調教師がこちらへ歩いてきた。ハヤテノオウの陣営の人だ。すれ違いざまに足を止めて、黙って深く頭を下げる。何も言わない。負けた人が勝った人にやる動作じゃない気がして、俺は慌てて頭を下げ返した。背中が遠ざかる。あの人は今、自分の馬の脚を確かめに行くんだ。


 少し先で、薄いグレーのジャケットが待っていた。貴之だ。手帳を持ったまま、俺の前で足を止める。


「……来年は、勝たせるよ」


 皮肉ではなかった。声が、まっすぐ前を向いていた。俺は「はい」とだけ返す。シロガネノミチはもう検体採取所へ回っていて、あの芦毛の姿はどこにもなかった。


 ウイナーズサークルの口取りは短かった。写真の列に並んで、アサツユがひょいと首を伸ばす。鼻先が宮田さんの帽子をつついて、つばが少し傾いた。


 宮田さんは無言で直す。直した帽子を、もう一度アサツユがつつかないか、横目で見ていた。


 帰りの通路で、ポケットの携帯が震えた。桜庭からだった。「見事だった。春に、また」。俺はしばらく画面を見て、返信を打たずにポケットへ戻した。


 暮れの中山で、うちの馬は、王様に勝った。

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