1月1日の牧場
スレッドのタイトルは「有馬記念 part38」。レースが終わって、まだ一晩しかたっていない。
1:名無しの坂路民 3歳が王者の三冠止めた しかも内で待って、間を割って
2:名無しの坂路民 あの隙間、馬1頭分あったかどうかだぞ よくあそこへ頭から突っ込んだな
3:名無しの坂路民 須賀、残り300で前が2頭だけになった瞬間を待ってたんだろ 3コーナーでハヤテノオウが動いても手綱ぴくりともさせなかったもんな
4:名無しの坂路民 ハヤテノオウは58キロ背負ってあの競馬だぞ 勝った馬も強いけど負けた馬が一番強く見えた
5:名無しの坂路民 芦毛、菊花賞より速いペースで逃げて最後まで粘ってるの意味が分からん この母系、長いところでも短いところでも化け物しか出ないのかよ
6:名無しの坂路民 3歳でダービー、菊花賞、有馬記念って もう語彙が出てこないわ
7:名無しの坂路民 年度代表馬これでアサツユで決まりだろ 古馬の一線級を有馬で倒したのがでかい
8:名無しの坂路民 いや待て ハヤテノオウは秋天とジャパンカップ連勝してるんだぞ 負けはこの1戦だけだ
9:名無しの坂路民 有馬はグランプリだぞ しかも3歳が勝ったんだからインパクトが違う
10:名無しの坂路民 春からずっと走ってきて最後にこれだもんな 投票するやつが可哀想になってきた
11:名無しの坂路民 昔は母親が1400までしか走ってないとか血統板でボロクソ言われてたのにな もう誰も血統の話してねえ
12:名無しの坂路民 勝ち方が毎回エグいだけで 血統で語れない馬っているんだよ
13:名無しの坂路民 語れないんじゃなくて語るやつが恥かいただけだろ セントライトの後は母系の底力って言い出したし
14:名無しの坂路民 母系が強いのは本当だろ 芦毛と合わせてツキミソウ一族が中山で1着3着だぞ
15:名無しの坂路民 でもアサツユは芦毛と違って自在に出られるからな 中山で内を突けるのは賢さと根性だよ
16:名無しの坂路民 須賀もようやく馬に合わせた競馬できてるよな 春は内で詰まって泣いたのに
17:名無しの坂路民 何より2回目の坂で勝ったのがデカい 古馬の王者と逃げ馬を相手にあれやったら、もう言い訳できない
有馬記念の翌日、月曜日の夕方。ひなた牧場の事務所で、奏がスマホをしまって湯呑みを両手で包み直す。ストーブの上でやかんがちりちり鳴いている。宮田さんは新聞を広げたまま、一度もめくらない。1面の見出しを、たぶんもう10回は読んでいる。
俺の携帯は朝から鳴りやまない。知らない番号が3回、4回。出ると「有馬記念おめでとうございます」と知らない声が続いて、途中で切れる。誰なんだ。俺そんなに有名人になったのか。牧場の名前が載っただけでこの有様だ。
「陸、出なくていいよ。そういうの」
奏が言う。研修先へ戻る前に寄っただけなのに、もう3時間いる。それでさっきのスレッドを見せて、自分で読み上げて自分で笑って、それから急に黙った。
携帯がまた鳴った。画面の名前を見て、俺はため息をついて出る。
「若旦那!」
三上さんの声が、携帯ごと震えている。というか湿っている。
「公民館で泣いてるやつがいたぞ! 俺じゃねえ! 俺は泣いてない!」
「……えっ」
「有馬の映像流してたんだよ、公民館で。そしたら町のじいさんが、お前のじいさんの写真の前で」
声が詰まる。俺は携帯を耳から少し離した。離しても聞こえる。
「……そうですか」
「そうですかじゃねえだろ。お前の牧場の話、俺が広めたんじゃねえからな。俺は広めてない。みんな勝手に」
耳が痛い。三上さん、それ絶対広めてる。
「また焼肉行きましょう」
「行くぞ! 今度は俺が奢る! 泣くまで食うぞ!」
俺が相槌を打つより先に、電話は切れた。
電話を置くと事務所が急に静かになった。ストーブの上で、やかんがちりちりと鳴いている。誰も喋らない。勝った翌日の夕方は、こういうものなのかもしれない。昼のニュースで何度も見たゴールの映像が、まだ頭のどこかで繰り返されている。
奏が、スマホを膝の上に置いた。画面はまだ掲示板のままだ。黒い文字の列を見つめたまま、ふいに口を開いた。
「……春からも、隣でこれ見てていい?」
声が、いつもの早口じゃなかった。少しだけ、いつもよりゆっくりで最後のほうが小さく揺れていた。
俺は、返事を考える前に口が動いていた。
「……ああ」
それだけだった。奏は何も言わずにうつむいて、耳のふちだけがストーブの火で赤く見えた。たぶん、寒さのせいではない。そういうことにしておくのが、幼馴染としての礼儀だと思った。
宮田さんが黙って立ち上がった。壁のカレンダーの前に歩いていき、12月のページを指でつまんで、静かにめくる。破るでもなく折るでもなく、ただ丁寧に今年最後の月を向こう側へ送る。来年の1月が、まっさらな四角いマスを並べて現れた。
奏はコートを着ると、帰り際にカレンダーの前に立った。ペンを借りて、2月のマスに、小さく「種付け」と書いた。字が少し右上がりで、最後の「け」の払いが長い。
宮田さんはその字をちらりと見て、何も言わずにやかんを火から下ろした。
◇
1月1日の朝、夜のうちに降った雪が放牧地を白く平らにしていた。柵の向こう、まだ誰も踏んでいない面に2頭の繁殖牝馬が並んで立っている。ツキノシズクと、ハルノサザナミだ。シズクが鼻先を下ろして雪を掻き、サザナミはその少し後ろで遠慮がちに同じ方角を見ている。
繁殖牝馬が2頭いる正月はこの牧場では初めてだ。去年の今ごろは、ツキノシズクが1頭だけ厩舎の前の小さいパドックにいた。
白い息が、目の前でほどけて消える。指先がじんじんする。手袋を忘れた。ポケットに突っ込んで、それでも立っている。
「今日から、アサツユは4歳だ」
俺が言うと、隣で宮田さんが、同じように雪を見たまま短く息を吐いた。
言ってから、少し変な気持ちになった。競走馬の年齢は1月1日に全部繰り上がる。分かっている。分かっているのに、あの黒鹿毛が4歳になったと口に出すと、なんだか急に遠くへ行ってしまいそうで、妙に胸のあたりが落ち着かない。
サザナミがふいに顔を上げた。遠くの雪原の向こう、誰もいない方角へ耳を向けてそれからまた静かに首を下ろす。来たばかりの馬は、まだこの土地の音を覚えていない。
宮田さんが手袋の指で帽子のつばを直して、雪を踏んで、厩舎のほうへ歩き出す。俺も後を追った。
「先代はな、元日の朝は全部の馬房の前を一回りしてから雑煮を食う人だった」
短く言って、それきり黙った。聞き返すとまた少しだけ言葉が続く。
「1頭ずつ、名を呼んでな。それで今年もよろしくな、って」
声は淡々としていた。けれど、その言い方が妙に耳に残る。俺はうなずいて、厩舎の戸を開けた。
中はひんやりしていて、藁の匂いがした。馬房を1つずつ回る。シズクとサザナミの馬房は、敷き直した藁だけが新しい。いちばん奥の、アサツユがいた馬房も空のままだ。それでも1つずつ名前を呼んで、少しだけ見て次へ行く。ジャケットの内ポケットには触らない。正月くらいいい。数字じゃなく、ただ見るだけで。
戸の外で、雪を踏む音が近づいてきた。
「若旦那!」
三上さんだ。一升瓶を胸に抱えて、息を白く吐きながらやって来る。あけましておめでとう、より先にその口が開いた。
「年度代表馬、いつ決まるんだ!」
俺は「年明けの最初の週です」と答えた。声が白くほどける。
三上さんは一升瓶を両手で掲げるように持ち直した。
「そうか! 待ち遠しいな!」
それから、ようやく思い出したみたいに笑った。
「あけましておめでとう。若旦那、今年もよろしくな」
瓶の底が雪に落ちた光を跳ね返して、やけにきらきらしていた。宮田さんは帽子のつばを指で押さえたまま「あいつは」とだけ言った。ため息とも白い息ともつかないものが、ひと言ぶんだけ宙に残る。
シズクが鼻先で雪をひと掻きして、サザナミはその背中の向こうで耳だけをこちらに向けていた。俺はそれを見ながら、今年はこの2頭で始まったんだ、と妙に静かな気持ちで思った。
◇
夜の事務所は、昼間の静けさがそのまま沈んでいた。
ストーブの火は落としてあって、窓の外では雪がまたちらついている。俺は爺さんの机の前に立って、いちばん下の引き出しに手をかけた。
木が少し湿っている。ゆっくり引くと、奥に木箱がしまってあるのが見えた。手前の書類の束はどかさない。蓋は開けない。中に何が入っているかは知っている。爺さんの字で書かれた、あの1行だ。知っているから、今日は見るだけだ。
箱の角が、暗い引き出しの奥でつやを控えめに光らせている。俺は膝をついて、しばらくそれを見た。今年もよろしくな、と心のなかでだけ言う。声には出さない。出したら、何かが違ってしまう気がした。
そうして、引き出しを静かに閉めた。
◇
年が明けて最初の週の夕方。事務所のテレビは、いつものニュース番組のままだった。ストーブの前のパイプ椅子に腰かけて、俺は画面を見ていた。宮田さんは新聞を膝に置いて、こっちも画面を見ている。やかんはもう火から下ろしてあって、部屋には湯気の匂いだけが残っていた。
アナウンサーが原稿を読む声は、どこか他人事みたいに平坦だった。画面の横に、JRA賞の文字が並ぶ。俺は膝の上で手を組んだりほどいたりしていた。ハヤテノオウの秋の2勝は強い。秋天もジャパンカップも、あの馬は負けていない。有馬でうちが勝ったからって、それで全部ひっくり返るのか。そんなことはない。分かっている。分かっているのに、画面の下のテロップが切り替わるたび、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
「年度代表馬は――アサツユ」
名前が読まれた。続けて「最優秀3歳牡馬も、アサツユ」とアナウンサーが言う。ハヤテノオウの名前は、最優秀4歳以上牡馬のところで読み上げられた。俺は息を吐いた。吐いて、それから妙に喉が渇いていることに気づいた。
戸が開いた。音がして振り向くより先に奏が入ってくる。コートも脱がずに、俺の腕をバンと叩いた。痛い。叩かれたところがじんじんする。
「……アサツユ」
奏はそれだけ言って馬にだけ使う優しい声で、もう一度名前を呼んだ。画面を見たまま、宮田さんが湯呑みを置いた。コトン、と音がひとつ。それから短く言う。
「……よくやった」
奏がストーブの前のパイプ椅子に座り直す。コートの袖が火の近くでほかほかと匂い立つ。宮田さんは新聞をたたんで、机の端に置いた。部屋の中にさっきのアナウンサーの声がまだ薄く残っている。
俺の携帯が震えた。画面を見る。美浦の先生からだ。
「おめでとうございます、オーナー」
先生の声はいつもどおり落ち着いていて、そのくせ少しだけ弾んでいた。俺は礼を言って、短く言葉を返す。電話の向こうで軽く息を吐く音がした。
「春は、どうしますか」
そのひと言だけがやけに静かに耳へ入ってきた。俺はすぐには答えない。ストーブの火が、硝子の中で小さく揺れている。宮田さんが、こちらを見ずにやかんの残りを湯呑みへ注いだ。
「少し、考えさせてください」
それだけ言うと先生は「ええ」と短く応えた。待つ声だった。無理に急かすでもなく、ただこちらの返事を当然のように待ってくれる声。俺は礼を言って電話を切った。
机に2冊の種牡馬カタログを並べる。片方は、12月に桜庭からの帰りの車でハルノサザナミの相手を探した古い冊子だ。表紙の端が少し折れている。中を開くと、鉛筆の薄い印が1つだけ残っていた。もう片方は、年が明けて届いたばかりの新しい冊子で、紙の白さが事務所の灯りに浮いている。
シズクとサザナミ、2頭の相手を、自分の目で選ぶ。これまでは1頭ぶんだった。奏が隣で湯呑みを両手に持ったまま、黙ってそれを見ている。
今年は、2頭ぶんのページをめくる。




