慣れないネクタイ
1月の終わりの月曜。東京のホテルの控室は絨毯が厚くて足元がふわふわする。こんな場所に来たことがないから、歩くたびに沈むのか浮くのか分からない妙な感じがする。壁の鏡がやけに大きくて、こっちを見返してくるのがちょっと恨めしい。
首元がきつい。ネクタイというやつは、結ぶたびに俺の喉を締め上げてくる。1回結んではほどき、2回結んでは曲がり、3回目でようやく形になったと思ったら、鏡の中のやつが右に傾いている。なんでだ。手はまっすぐ動かしたはずなのに。
ソファで待っていた奏が、スマホを置いて立ち上がった。
「貸して」
返事をするより先に俺の前に立っている。ネクタイに手をかけて、結び目をゆるめて、それから上へ引き直す。指がてきぱき動く。慣れている。獣医の研修で覚えたのか、それとも篠宮の家で覚えたのか。どっちにしても俺よりずっと早い。
顔が近い。目をやると鼻先しか見えない距離なので、俺は仕方なく天井を見た。照明が丸くて白い。しばらくそれを見ている。
奏はさっさと手を離して一歩下がった。俺の胸元を一度だけ見て、それから目を上げる。
「……まっすぐになった」
俺はそこで初めて奏がいつもと違う格好をしているのに気づいた。紺のワンピースに薄いグレーの上着。髪はいつもの一つ結びではなく、肩のあたりでゆるく下ろしている。日焼けした首元だけが、牧場で見る奏のままだった。
俺は一瞬だけ見て、目をそらした。
「……誰?」
「失礼すぎる」
奏が間髪入れずに返してくる。声はいつもどおり早い。それから俺のネクタイを直した手を腰に当てて、じろりとこちらを見上げた。
「スピーチ、何行?」
「8行」
「長い。3行にして」
俺はポケットからスマホを出して、メモを開いた。画面には昨晩眠気と戦いながら打った8行の文字が並んでいる。『このたびは』から始まって『支えてくれたすべての方に』で終わる、まあ普通のやつだ。
全部必要な気がするし、全部いらない気もする。3行にするとしたら、最初と最後と真ん中に何を残すんだ。
「……3行って、どの3行だよ」
「知らない。私が言うなら3行」
奏はソファに座り直して、ひざの上で小さな黒いバッグを抱えた。そういうところは昔からだ。言うだけ言って、あとは知らん顔をする。
俺はスマホの画面を指で一度なぞって、それから電源を落とすように暗くした。
どこを削ればいいのか分からないままメモを閉じた。
ネクタイの礼を言いそびれた。鏡の中の自分を見る。スーツは先週、三上さんに「年度代表馬の馬主がパーカーで行く気か!」と怒鳴られて、町の紳士服店で買ったものだ。試着室で3回着替えさせられたのを思い出す。あの店員の「お客様、肩幅が」という呟きがまだ耳に残っている。
宮田さんは来ていない。前の晩の電話で「俺はいい。シズクとサザナミを見とく。……写真だけ撮ってこい」と言った。写真。そういえばスマホは昨日の夜に充電したきり、カメラを開いていない。大丈夫だろうか。いや、大丈夫に決まっている。たぶん。
上着の内ポケットに、布越しにそっと触れる。万年筆の硬い感触が指先に伝わる。握らない。今日は見るだけの日だ。そう決めている。
ノックの音がした。
「日向様、お時間です」
宴会場の扉が開いた途端、視界が白く弾けた。カメラのフラッシュだ。どこを向いても光が刺さって、まぶしさで足元の絨毯がゆらゆら揺れている。俺はまっすぐ歩いているつもりなのに、体がほんの少し右へ流れている気がする。隣の先生が小さく「まっすぐです」と教えてくれた。ありがたい。
司会の声が響く。年度代表馬アサツユ。その名前がマイクを通して天井の高いところから降ってくる。自分と関係ある名前なのに、どこか遠くの出来事みたいに聞こえた。隣で須賀が背筋を伸ばして一歩前へ出る。勝負服は着ていない。濃紺のスーツ姿がやけにきちんとしていて、騎手というより卒業式の生徒みたいだ。
壇上に上がると足元からどよめきが伝わってくる。いや、あれは空調かもしれない。そう思いたい。記念の品が手渡される。ずしりと重い。落とさないことだけ考える。
司会が笑顔でマイクを向けてきた。
「日向様、ひと言お願いできますか」
頭の中がまっ白になった。昨日の夜、スマホのメモに書いた言葉はたしか8行あった。朝、鏡の前で読む練習までした。なのに今、ひとつも出てこない。のどがひりつく。マイクの先がやけに近い。俺は息を吸って、思ったままを口にした。
「……馬が、勝手に強くなりました」
一瞬の静寂。それから、どっと笑い声が湧いた。会場のあちこちで肩が揺れている。隣に立つ須賀が下を向いて、肩を震わせていた。笑いをこらえている。先生は表情を崩していない。ただ、口元だけがほんの少しゆるんでいた。
客席の後ろで奏が額を押さえていた。
司会が笑いを拾って「……オーナーらしい、正直なお言葉でした」と返した。前のほうの席から「正直すぎるだろ」と小さな声が飛んで、また笑いが起きる。俺はマイクを返しながら、心の中でそっと昨日の自分を殴った。
司会が続けてアサツユは最優秀3歳牡馬にも選ばれていると読み上げる。2つ目の名前を呼ばれて、俺はもう一度頭を下げた。さっきより少しだけ落ち着いて、今度は足元を見る余裕がある。壇上の花がやけに立派だった。
階段を降りると、須賀が半歩だけ寄ってきて小声で言う。
「オーナー、明日の見出し、それですよ」
俺は前を向いたまま、ネクタイの結び目を指でちょっとだけ緩めた。
「8行あったんですよ」
フラッシュの残像がまだ網膜の裏でちかちかしている。壇上から降りたところで人が一気にばらけはじめた。肩を叩かれ、名刺を渡され、そのたびに俺は同じ角度で頭を下げていた。頬がもう疲れている。
ふと、人の流れが片側へ割れた。白髪の調教師が立っていた。ハヤテノオウの陣営の人だ。有馬記念のあと、黙って頭を下げた人。あのときは何も言わなかったのに、今はこっちへ歩いてくる。
「いい馬です」
穏やかな声だった。怒ってもいないし、負け惜しみもない。ただそう言った。
「……春は、阪神から始めます」
その人は少しだけ目を細めた。
「うちの馬は、2000がいちばん強い」
宣戦布告というやつだろうか。声音は最後まで静かで、だから妙に胸に残った。俺は何か返さなきゃと思って、喉の奥で言葉が詰まった。
「……はい」
調教師は軽く会釈して、人の中へ戻っていく。白い頭がざわめきに紛れて、すぐ見えなくなった。
背中を見送ってから、自分の手のひらが汗で湿っているのに気づく。ネクタイのせいだけではない。さっきのひと言が、じわじわと効いてくる。2000。阪神。春。頭の中でその単語が並び替わって、まだ答えの出ていない問いの形になる。
肩に手が置かれた。先生だった。
「少し、お茶でも」
◇
ホテルのラウンジは授賞式の喧騒が嘘みたいに静かだった。厚い絨毯が足音を吸って、遠くでカトラリーの触れる音だけが時折かすかに響く。窓の外はもう夜で、東京の灯りが細かく滲んでいた。
コーヒーが4つ白いカップで並んでいる。俺の前に、奏の前に、先生の前に、須賀の前に。湯気が細く立ちのぼって、誰も手をつけないままだった。
「春の話です」
自分から切り出した。声は思ったより低く出た。隣で奏が、膝の上のバッグをそっと抱え直す気配がする。
「大阪杯から、天皇賞(春)へ」
先生は驚かなかった。湯気の向こうで一度うなずく。
「ええ」
それだけ言ってカップを手に取る。口をつけるでもなく、両手で包むように持った。
「前哨戦を使うなら金鯱賞、使わなければ大阪杯へ直行です。どちらにするかは、こちらで決めます。アサツユは今、美浦の近くの外厩で休んでいます。帰厩は3月に入ってからです」
声はいつもどおり落ち着いていて、けれどどこか温かい。こちらの答えを、最初から待っていてくれたような声だった。
俺はコーヒーを一口飲んだ。苦い。砂糖を入れればよかった。いや、この苦さが今はちょうどいい。春の2000、そして3200。頭の中で数字が並んで、ようやく形になった気がした。
須賀が、カップをソーサーに置いた。小さく、かちりと音がする。
「……3200ですか」
須賀の問いに俺はすぐには答えなかった。胸の内側で、あの表示がゆっくり浮かんでは消える。【隠れ適性:中距離向き】。万年筆は握っていない。アサツユはここにいない。なのに文字だけがまぶたの裏に貼りついたみたいに浮かぶ。
菊花賞の3000は勝った。なのに、表示は中距離向きのまま動かない。有馬記念のあと、あの行が一瞬だけ濃く見えた。あれが何だったのか、まだ分からない。春の京都で確かめたい。
「菊の3000を勝った馬です」
声に出したのはそれだけだった。
「3200も走ってみなきゃ分からない」
奏はバッグを膝の上に置いたまま、俺の横顔をちらりと見て何も言わない。須賀はテーブルの上の指を一度ほどいて、それから両手を組んだ。指先が白い。
須賀はそっと自分の手のひらを見た。指を軽く曲げて、開く。手綱を握る形がまだそこに残っているみたいだった。
「菊の3000は、アサツユに教わりました。1周目で首が上がったとき、引っ張り合わずに待てばいいって。あいつが、それを僕に教えてくれたんです」
声は静かで、けれど輪郭がはっきりしていた。負けた日も勝った日も、須賀は言い訳をしない。それが俺には少しだけまぶしい。
「3200は、僕もまだ乗ったことがありません」
須賀は手のひらを膝の上へ戻した。ラウンジの淡い灯りが、薄い頬のあたりに影を作っている。
「……走らせてみたいです」
先生が、ふと思い出したように口を開いた。
「海外は」
そのひと言で隣の奏の手がぴたりと止まる。カップが口元へ向かう途中で、空中に留まっている。彼女は去年の夏、俺が「古馬になったら、海外も行かせたい」と言ったのを、隣で聞いていた。覚えている。あのときは確か、放牧地の柵の前で立ち話をしていたはずだ。
俺は少し考えてから自分のカップを見つめた。黒い水面に、天井の照明が小さく丸く映り込んでいる。そこへ声を落とす。
「秋に、考えさせてください」
一拍置いて続けた。
「春は、日本で勝ちたい相手がいるので」
「分かりました」
先生はそれだけ言って、ようやくコーヒーへ口をつけた。喉が静かに動くのが見える。
奏がカップを置いて小さく息を吐いた。
◇
翌朝、羽田の出発ロビーで搭乗を待つ。奏は隣で、宮田さんに送る写真を選んでいる。壇上の3人、どの瞬間が一番まともに写っているかを真剣な顔で拡大しては首をひねっていた。
俺の携帯が震えた。ポケットから出して画面を見る。桜庭からのメッセージだ。1行だけ。
「テンカザクラは金鯱賞から大阪杯へ行く」
金鯱賞から、大阪杯へ。春の2000がまたひとつ、輪郭を持って近づいてくる。ハヤテノオウの陣営は阪神から始めると言った。桜庭は金鯱賞を踏んで大阪杯に合わせてくる。
すぐに返信はしない。指先で画面をなぞったまま、隣の奏が「これ、陸が半目」と言って写真を消すのを横目で聞く。また震えた。同じ相手から、もう1通。短い。
「阪神で」




