2月の展示会
「若旦那! いるか!」
2月の最初の木曜の朝、事務所の戸が勢いよく開いて三上さんが雪の粒を肩に乗せたまま入ってきた。俺は読みかけの配合表を裏返して、鉛筆を置く。宮田さんは壁際で長靴を履きかけた姿勢のまま、顔だけ三上さんに向けた。
「カムイボシ、今年は申し込みが山ほど来てるらしいぞ。種付け料も上げたって話だ」
三上さんはそれだけ言うと、勝ち誇った顔で俺を見た。なんでこの人は、うちの馬のことになると毎回宝くじの当選番号を教えに来るみたいな顔をするんだろう。
宮田さんは長靴のかかとを床に落として、三上さんを一度見た。口は動かない。ただ、長靴に足を押し込む動きを再開する。
「シズクは全弟だろ、全弟。迷うとこあるか」
三上さんが身を乗り出してくる。全弟。『アサツユ』と同じ、『カムイボシ』と『ツキノシズク』の子。理屈は分かっている。分かっているから、余計に黙りたくなる。
同じ配合をもう一度。ゲームで言えば勝ちパターンの使い回しだ。悪くない手だ。むしろ手堅い。ただ、悪くないと分かっているのと自分の目で確かめたのとは違う。2月の終わりに種付けを控えて、あの牧場の空気をもう一度吸っておきたかった。
「見てから決めます」
「サザナミのほうは、年度代表馬の馬主なんだ。カタログの表紙の馬にしとけ」
三上さんは腕を組みながら正論だとばかりに胸を張った。いや、年度代表馬の馬主と種付けの相手がどう繋がるんだ。カタログの表紙って、種牡馬展示会のパンフレットのことか。
「それも、見てから」
俺は配合表を机の引き出しにしまって、壁のフックからパーカーを取った。袖を通すと、昨日干したばかりの固い匂いが鼻をくすぐる。
「展示会に年度代表馬の馬主が行ったら、騒ぎになるぞ」
三上さんが声を潜めて言う。潜めたつもりでも、窓ガラスが震えるくらいの音量だ。たしかに、顔は知られているかもしれない。年度代表馬の馬主で、あの授賞式で「馬が勝手に強くなりました」と言った男だ。どこかで誰かが見ていてもおかしくはない。
宮田さんが壁際で帽子をかぶり直した。それから、ひと言だけ。
「……車、出すぞ」
無造作に言って、先に戸を開けて外へ出ていく。三上さんは「おう、俺は帰るからな。土産話、聞かせろよ」と手をひらひら振って、門の脇に停めた錆びた軽トラへ乗り込んでいった。
俺は助手席のドアを開けて、シートに体を沈める。窓の外は薄く雪が積もり、タイヤの跡が、三上さんの車のぶんだけ2本増えていた。
軽トラが雪の残る坂を下りはじめた。
ポケットの携帯には、桜庭の「阪神で」が、返信しないまま残っている。
◇
種牡馬の展示会は、日高の種馬場の屋外で開かれていた。
吐く息が白い。寒い。2月の日高の空気は、吸うたびに鼻の奥がちりちりする。柵の前に生産者たちが肩を寄せて並び、その前を引き手が1頭ずつ種牡馬を歩かせていく。蹄が凍った地面を叩く音が、こつ、こつ、と短く響く。どれも、種付け料の桁がひとつ違う男たちだ。いや、馬だけど。
ふと、こちらを窺う視線が増えた。小声が波のように広がっていく。
「ひなたの……」「年度代表馬の……」「何を見に来たんだ」
聞こえるように言うな。いや、聞こえてます。俺はパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、前方の柵をじっと見た。宮田さんは俺の半歩後ろで黙っている。この人の無言は、ときどき壁より心強い。
ざわめきが一段上がった。引き手が1頭を連れてくる。堂々とした鹿毛で、首が高く、歩くたびにたてがみがゆらりと揺れる。カタログの表紙の馬だ。周りがどっと沸いた。
ポケットの中で万年筆を握る。指先に硬い感触が伝わる。視界の端に、あの文字が浮かび上がった。
【スピード:A+】【スタミナ:A】【パワー:A】【根性:B+】【賢さ:A】 【隠れ適性:中距離向き】【隠れ適性:良馬場巧者】【隠れ適性:先行】 【配合相性:○(ツキノシズク)】【配合相性:△(ハルノサザナミ)】
……強い。数字は文句なしに強い。表紙を張るだけのことはある。しかしうちの2頭とは、噛み合わない。シズクとは○でも、サザナミとは△。
俺は顔に出さずに次の馬を待った。
カタログに鉛筆で印をつけた馬も、表示は△だった。見送った。
やがて、最後のほうに引かれてきたのは小柄な栗毛だった。栗毛というより、冬毛がくすんで飴色に見える。歩くたびに首を前へ突き出すような、せわしない動きをする。周りのざわめきが潮が引くように静まり、生産者の何人かは柵から離れて戻っていく。展示会の終わりを悟ったみたいに。
「『ハマカゼ』です。10歳。現役時代は短距離の重賞を1つ勝っただけで……子どもも短距離ばかりなんで、申し込みは少ないです」
若いスタッフが申し訳なさそうに笑った。俺は軽く会釈を返した。ポケットの中の万年筆は、握ったままだ。
【スピード:A】【スタミナ:C+】【パワー:B+】【根性:B】【賢さ:A-】 【隠れ適性:短距離向き】【隠れ適性:良馬場巧者】【隠れ適性:逃げ】 【配合相性:◎(ハルノサザナミ)】【配合相性:△(ツキノシズク)】
表示から目が離せなくなった。声には出さない。ただ、頭の中だけが早口になる。サザナミに足りないのはスピードだ。B止まりのあの子に、こいつはAを渡せる。サザナミのスタミナA、根性A。そのしぶとさが、こいつの足りないところを埋める。シズクとカムイボシの、ちょうど逆の形だ。種付け料が安いからじゃない。表示がここまで噛み合う馬は、そういない。
宮田さんが横目で俺の顔を窺う気配がする。俺は黙って栗毛の後ろ姿を追った。短い尾が、歩くたびにぴんと跳ねている。
サザナミの相手は表紙の裏にいた。
「この馬、申し込みはまだ間に合いますか」
俺は柵から身を乗り出してスタッフに声をかけた。若いスタッフは手に持った名簿を胸に抱えたまま、目を丸くしている。
「……は、はい。まだ空いてます」
声が上ずって最後のほうが消えかけた。まあ無理もない。こんな寒空の端っこで、誰も見向きもしない栗毛に手を挙げる物好きがいるとは思わなかったんだろう。俺だって半日前の自分に言われたら信じない。
「じゃあ、それで」
名簿にペンを走らせる音がやけに大きく聞こえた。その瞬間、柵の前の空気がざわりと動いた。
「短距離の?」「年度代表馬の馬主が、ハマカゼ?」「あの表紙の馬、見送ったのか」
ひそひそ声が風に乗って届いてくる。聞こえるように言うな、とはもう思わない。思っても減らないと学習した。俺はパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、引かれていく栗毛の背中を見送った。短い尾がぴんぴん跳ねて、まるで自分の値打ちを分かってるみたいだ。
宮田さんは何も言わず同じ背中を目で追っている。やがて、ぽつりとこぼした。
「……次は、カムイボシのとこか」
◇
昼を少し回ったころ、『カムイボシ牧場』の前に着くと、見知らぬ車が何台も停まっていた。人がせわしなく出入りしている。前に来たときは、馬房のほうから馬の鼻息が聞こえるくらいで、あとは風の音しかしなかったのに。空気が違う。種付け料が上がった途端、これだ。
宮田さんが軽トラを停める。エンジンを切ると、外のざわめきが窓越しに流れ込んできた。
軽トラの外では順番待ちの生産者たちが肩を寄せ合って立ち話をしていた。吐く息が白く、声は凍った地面の上を滑るようにこちらまで届く。
「カムイボシ、今年はもう満口だとよ」
「年度代表馬の父親だもんな。今から頼んだって無理だ」
聞こえてくる声は他人事みたいに軽い。シズクの分はもう入らないかもしれない。電話1本で済ませずにここまで来た理由が、急に重くなる。
俺はドアを開けて軽トラを降りた。
事務所の戸が開いて、牧場主が出てくる。耳から携帯を離しながら、眉間に深いしわを刻んでいた。俺の顔を見ると、手をひらひら振ってからポケットにねじ込む。
「申し込みの電話でな。朝から鳴りっぱなしだ」
声が少ししゃがれている。それだけ言うと、俺の肩越しに宮田さんへ一度うなずいた。
「シズクの分を――」
俺が言いかけると、牧場主は手のひらをこちらへ向けた。遮る仕草だ。
「ひなたの分は、最初から空けてある」
牧場主の声は凍てた空気の中をまっすぐ通った。近くで順番待ちをしていた男が、肩越しに振り返る。俺と牧場主を交互に見て、何か言いたげに口を開きかけて、やめた。その男は黙って目をそらした。
「なんで」
間抜けな声が出た。牧場主は鼻で小さく笑う。
「うちの馬をダービー馬の父親にしたのは、兄ちゃんだろう」
それだけ言って、また携帯が震えたのを指で黙らせた。
俺は何も返せなかった。賞金の1割。最初の賞金のときから、あの約束だけは欠かさず守ってきた。
宮田さんが帽子のつばに手をやって、軽く頭を下げた。言葉はない。
牧場主は馬房のほうへ顎をしゃくった。
馬房の戸を開けるとむわっとした藁と馬体の匂いが押し寄せてきた。カムイボシは奥でこちらに背を向けていた。呼ぶと、ゆっくり首を巡らせる。鹿毛の体は13歳になっても張りがあって、目つきは前と変わらず穏やかだ。ただ、毛づやが少しだけいい。餌が良くなったのか、それとも扱いが丁寧になったのか。どちらにしても、悪い変化じゃない。
ポケットの中で万年筆を握る。
【スピード:B】【スタミナ:A+】【パワー:C+】【根性:C+】【賢さ:B】 【隠れ適性:長距離向き】【隠れ適性:良馬場巧者】【隠れ適性:差し】 【配合相性:◎(ツキノシズク)】【配合相性:○(ハルノサザナミ)】
数字は前に見たときと変わらない。変わったのは、真ん中の行だ。隠れ適性なんて前に来たときはまだ視えていなかった。長距離、良馬場、差し。アサツユを育てるあいだに、俺の目のほうが1行ずつ増やしてきた行だ。
そして、◎は動かない。シズクとの相性は、最初にこの馬を見たあの日から、ずっとこのまま。三上さんの言う「全弟」は、たまたま当たっていただけだ。
カムイボシが首を伸ばしてきた。鼻先が俺の手のひらを、とん、と1回だけ突く。温かくて少し湿っている。何も急かすでもなく、ただそこにいる。
「……お前で、いいよ」
馬房の戸を閉めると外の空気が冷たくて、肺の奥までしんと透き通るようだった。牧場主が事務所のほうへ歩きかけて、ふと立ち止まる。こっちを振り返らないまま、低い声で言った。
「値段は、先代の頃からの紙のままでいい」
種付け料の話だ。俺は首を振る。吐いた息が白く流れて、自分の顔の前でしばらく揺れていた。
「上がった分は、払います」
牧場主がようやく振り返った。眉間のしわが深くなる。手に持った携帯をポケットへ押し込みながら、短く「いらん」と言った。
「上がった分は、払います」
俺はもう一度、同じ言葉を同じ調子で繰り返した。宮田さんは黙って2歩ほど後ろに立っている。牧場主はしばらく俺の顔を見ていた。風が止んで、馬房のほうから乾いた藁の匂いが流れてくる。
「……強情なのは、爺さん似だな」
それだけ言うと牧場主は鼻の頭をこすって、小さく笑った。折れた。たぶん。
帰りの軽トラは日が傾きかけた道を西へ向かっていた。助手席の窓から、雪の上に伸びる影が横へ流れていく。宮田さんは前を向いたまま、ハンドルを握る手を一度も動かさない。エンジンの音と、タイヤが凍った砂利を噛む音だけが車内に満ちていた。
しばらくして、宮田さんがぽつりと言う。
「……先代も、ここで同じこと言ってた」
何を、とは聞かなかった。宮田さんも、それ以上は言わなかった。
◇
その夜、事務所から奏に電話をかけた。
電話の向こうで、奏が息を吸う音がした。
「シズクはカムイボシ。サザナミは、ハマカゼ」
「……同じ配合は分かる。ハマカゼって、短距離の?」
「サザナミの足りないところを、全部持ってる馬だ」
いつもなら、ここで「なんで?」が来る。
奏は理由を聞かなかった。少し黙って、それから「……陸がそう言うなら、そうなんだろうね」とだけ言った。
すぐに声が変わった。獣医の声だ。
「2頭とも、発情が来たら教えて。直腸検査、私がやる」
それから、もうひと言。
「2月の終わり、休み取るから」
返事をする前に切れた。
俺は携帯を置いて壁のカレンダーを見た。2月の欄に「種付け」と奏の字で書いてある。ペンを取る。
奏の字の横に、俺の字で、2頭ぶんの名前が並んだ。




